2011年1月1日-1
生命とは何か
「生命とは何か what is life」という問いの意味は、『とは何か』
の意味と、『生命』という概念の外延(つまり、『生命』は生き
ている有機体〔生物体〕だけを指すのか、あるいは生命圏全体を
指すのか)から引き出される。
(Sattler 1986: 211-212;試私訳[お試しの、わたくし的な訳])
「それは何ですか? what is it ?」と問われれば、「それは~です。 it is x.」と答えるだろう。このとき、「である is」の問題については知らん顔して、「~」には、どのような種類の言葉が置かれるのか。
質問が言葉で行なわれれば、言葉で返すのが多くの場合だと思う。((あるとして、)テレパシーによる場合は、脳内に音声が聞こえるのか、あるいは、概念的な物体が転送?されるのか?) 定義とは、定義項(言葉を構成要素として、それらが(多くの場合、線的に)配置される。そうではない例としては、(定義とは言えないかもしれないが)タルムードに見られる方式)と被定義項を併置し、その二つをなんらかの操作記号(たとえば、「=def」)で結びつけることである。たとえば、
A =def b*c#e
(*, #:なんらかの操作子)
のようにである。
(あかん。また厳密に書こうとして、逆茂木型に支離滅裂になってしまった……そや、ちょっぴり思い出した。)
(また忘れた。忘年会をしなかった祟りかも。)
生命は、生きている物体の機能であるのか? (機能については、Buller 1999の総括を見よ。)
生きている物体として、家猫(野良猫と野猫を含む)を考えてみよう。これは、「ネコ」という名称によって表現される分類的概念(クラス)に属する。学名は、_Felis catus_ または _Felis silvestris catus_である。
イエネコは従来、ネコ科ネコ属のネコという種(Felis catus)とさ
れてきたが、最近になって、ヤマネコ(Felis silvestris)の1亜種
(Felis silvestris silvestris)と見なされるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8C%AB
とあるが、_Felis silvestris_の模式標本とされた、または属員として指示されていたのは、「ヨーロッパに棲息するネコ属の1種」であるヤマネコに属する生物体であろう。したがっておそらく、「(Felis silvestris silvestris)」ではなくて、「(_Felis silvestris catus_)」であろう。ウィキペディアの他の項(=ネコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3
では、_Felis silvestris catus_となっている。しかし、
学名
Felis silvestris catus
(Linnaeus, 1758)
と、「Linnaeus, 1758」が括弧内になっているのはなぜ? イヌでは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C
学名
Canis lupus familiaris
Linnaeus, 1758
と、括弧内になっていない。
_Felis catus_ Linnaeus, 1758
と
_Felis silvestris_ Schreber 1777
をくらべると、Linnaeusのほうが先だから、_Felis silvestris_の方が _Felis catus silvestris_となるはずだが、ITIS(Integrated Taxonomic Information System)とMSW(Mammal Species of the World)によって強権発動的に_Felis silvestris catus_となったのか(なんら確認していないので、間違っているかも)、あるいは命名規約上の根拠なくITISとMSWに関わる人々がそのようにしているのか。
(なんという脱線! やっかいな生物分類とその命名。)
(戻線)
It is what it isという言い方がある。ならば、
Life is what life is
もあり、だろう。最節約的で良いかも。
つまり、一つ以上の諸性質を表現する語を並べるよりも、必要かつ十分条件を簡潔に与えている。すなわち、生命は言葉で定義できるのか、また、定義して何になるのか、概念で置き換えられるのか、が問題である。たとえば、生命とは経験するものだ、といったような答え方。あるいは、生命は概念的思考によって捉えることばできず、したがって言葉で定義することはできず、(たとえば)生命は直観するものである(直観によって捉えるものだ)、とか。
神を述べるのに、「It is that it is that」だったかな、そういう言い方があったと思う。何々であるといった述語を一つでも並べることは、限定することである。限定が無い(否定形。もっともこれは表現上ことである。→渡辺慧の「醜い家鴨の仔の定理」を参照)と言うのも、限定することであり、無限であると言っても、結局は言葉による限定ということになるだろう。つまり、定義できない。
もう一つは、こうではない、そうではない、何々ではないと、「~ではない」を無限個並べるやり方もあり得る。しかしこれも、言葉による限定となる。つまりは、われわれの知的活動による限定になる。
宇宙とは宇宙である。
生命とは生命である。
ゆえに、宇宙は生命である。
ゆえに、生命は宇宙である。
ゆえに、生命 =def 宇宙。
ゆえに、宇宙 =def 生命。
よって、生命 =def 生命。
しかしながら、概念的思考の結果、言葉によって表現して、なにごとかを指し示すこと、それが知的活動の性(さが)である。
[B]
Buller, D.J. 1998. Etiological theories of function: a geographical survey. Biology & Philosophy 13〔4〕: 505-527. [Buller 1999: 281-306 に再録。ただし、原論文にある6行分のabstractは掲載されていない。]
Buller, D.J. (ed.) 1999. Function, Selection, and Design. viii+325pp. State Univ of New York Press. [機能に関する主だった論文が再録されているので便利。]
[S]
Sattler, R. 1986. Biophilosophy: Analytic and Holistic Perspectives. xvi+284pp. Springer-Verlag.
[W]
*Walsh, D.M. & Ariew, A. 1996. A taxonomy of functions. Canadian Journal of Philosophy 26: 493-514. [Buller 1999: 257-279 に再録。]