生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

月の年齢

2011年01月11日 22時11分12秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月11日-5
月の年齢

 2011年1月10日の朝日新聞22面に、「月の水 ルーツは彗星」という記事があった。
 月は45億年前に、地球からちぎれてできたと考えられているらしい。
 アポロが持ち帰った月の石に含まれる水は、水素と重水素の比率が地球の水よりも、ハレー彗星などの水に近いという。そこから、「月が形成直後のどろどろに溶けていた時代に彗星が衝突、水が取り込まれた」と北大の[土偏に入の旁の字]本教授らは考察したらしい。
 地球は月よりも古くに形成された、という根拠はなんだろう?

世界が音を楽しむとき

2011年01月11日 21時59分17秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月11日-4
世界が音を楽しむとき

バベルの塔が崩壊して、
人々は異言を話し、
散り散りになった。

言葉は思考を伝え、
人は言葉で傷つく。
発音にこめられた思いが、人を傷つける。
肉は傷つかなくとも、心が傷つく。

音は人を傷つけない。
音の高低と律動は、いくばくかの情緒を喚び覚ます。
人は深い眠りにつき、あるいは鮮明な意識となる。

音は振動。
エネルギー模様を伝搬する。

愛はエネルギー。
音と愛は共鳴する。

愛が放射されるところ、
肉も心も楽しく振動する。
世界が共鳴する空間となるとき、
世界自身が音を楽しんでいる。

音の女神は異言を越えて人々を繋ぐ。


デヴィッド・リーン、モーリス・ジャール、カトリーヌ・スパーク、ジャン・ミッシェル・ジャール

2011年01月11日 21時42分04秒 | 音楽
2011年1月11日-3
デヴィッド・リーン、モーリス・ジャール、カトリーヌ・スパーク、ジャン・ミッシェル・ジャール

 2009年3月31日の朝日新聞35面に、「アラビアのロレンス」(デヴィッド・リーン監督。ウィキによると、日本での公開は1963年12月)や「ドクトル・ジバゴ」(デヴィッド・リーン監督。1965年)の音楽を担当した、モーリス・ジャールさん死去の記事があった。

 デヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバゴ」の映像の美しさは忘れられない。「ライアンの娘」(1970年)も、デヴィッド・リーン監督だったのか。

 ジャン・ポール・ベルモンド(Juljen Maillat 役)とカトリーヌ・スパーク(Jeanne 役)が出演した「ダンケルク」(1965年)の音楽も担当していたとは。カトリーヌ・ドヌーヴが出た「シェルブールの雨傘」とよく混同する。

 ジャン・ミッシェル・ジャール(Jean Michel Jarre、1948-)は、モーリス・ジャールの息子だったのか。トンと気がつかなかった。
 軌跡 Equinoxe(1978年)[貸してもらったレコードで聴いたが、CDがある。FDM-36141]は傑作である。
http://www10.plala.or.jp/trinity7/zerofavor/zeromusic.htm
まさに宇宙的。広大な宇宙で音楽が鳴っている。J.S.Bachと共通する。


質感の知覚?

2011年01月11日 11時40分49秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月11日-2
質感の知覚?

 人工物体や自然物体の質感(たとえばざらざらとした感じや、さらには金属だと思うにいたる知覚)は、その表面を反射する光が眼に入って、脳内で像が現われ?、それを<わたし>が知覚する(?)、あるいは判断するのか?
 どういうわけか、<わたし>(は何処にある?)は、その像?あるいは物体を外界に存在すると思う、あるいは(錯覚ではないと思う場合は)信じている。

 質感てなんだろう? クオリアって、なんだろう? それは、何を指しているのか?

 知覚の恒常性が成立している機構(メカニズム)。
 心身問題。

タクソンとニッチ(1)

2011年01月11日 00時09分08秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月11日-1
タクソンとニッチ(1)


■ タクソンの定義
■ (種タクサの定義)
■ 種概念(の定義)と現実タクサの定義との関係


 Mayr & Ashlock (1991)のtaxonの定義が述べられているはずのところは、索引によれば、p.20とp.116である。

 まず、p.20では、

  「bluebirds〔ルリコマドリ〕、thrushes〔ツグミ〕、songbirds〔鳴き鳥〕、そしてvertebrates〔脊椎動物〕というwords〔語、言葉〕は、有機体〔生物体〕の集団〔グループ〕を指す。動物学的分類のこのような具体的な対象 objects は、タクサ taxa である。〔或る一つの〕タクソン a taxon とは、Simpson (1961: 19)によって、『階層的分類のどのレベルのものでも、公式的単位として認識される実在する有機体〔生物体〕の集団である』と定義されている。同じ考えは、次のように表現され得るだろう。すなわち、
  A taxon is a named taxonomic group of any rank that is considered sufficiently distinct by taxonomists to be formally recognized and assigned to a definate category.
  タクソンとは、どの位階 rank であれ、タクソン学者〔分類学者〕によって、公式に認められ、かつ、或る明確な〔一定の;definite〕カテゴリーに割り当てられるほどに、十分に区別される〔明瞭な、別個の;distinct〕と熟考されて、命名されるタクソン的集団である。
」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 〔わが見解:
  1. taxonomistsではなく、人 humansで良いだろう。
  2. a named taxonomic groupではなく、a named group で良い。taxonomicを入れたら、定義項に被定義項が入っているようなもの。
  3. もし、「それ」と指すことができるものならば、命名されていなくとも良い。もちろん、Mayr & Ashlockは命名規約に認められた、つまり公式に命名されたものだけが、タクソンだと言っているわけだが。〕

 bluebirdsやvertebratesは英語の語であり、英語圏社会では日常語である。bluebirdsと複数形なので、数えることができるものだと解釈できる。タクソンを『意味』しているとも取れる。

 続く段〔段落;paragraph〕は、

  「二つの側面が強調されなければならない。_タクソン_という用語はつねに、具体的な対象を指す〔指示する;refer to〕。ゆえに種 the species は、一つのタクソンではなく、一つのカテゴリーである。たとえば、the robin 〔ヨーロッパコマドリ〕(_Turdus migratorius_) は一つのタクソンである。次に、タクソンは、タクソン学者〔分類学者〕によって公式に認めら〔認識さ〕れなければならない。」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 問題は次の段の主張である。

  「タクサは、クラスではなく、哲学者たちが個体〔個物;individuals〕または特殊者 〔特称者;particulars〕と呼ぶものである。これはすべての(狭義での)生物個体群 biopolulationsを含む。それらは、内的な凝集性と、第2章で論議されるが、種の存在論についての他の側面によって特徴づけられる。より高位のタクサは、種によって示される凝集度を欠いているから、せいぜい、_歴史的集団_(Wiley 1981)として言及〔指示〕されるが、それでも、より高位のタクサは、明瞭に個体の様 clearly individuallikeであり、クラスではない。」(Mayr & Ashlock 1991: 20;試訳)。

 なんという、ちんぷんかんぷんさ! いやむしろ、たんに辻褄が合わないだけではないか。種によって示される凝集度を欠くのなら、どうして、明瞭に個体の様だと言えるのか? また、せいぜい歴史的集団だというのに、個体似だと言えるのか?

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 [次回は category。混乱を招くので、(levelではなく)rank 位階または位、を使おう。同定カテゴリーという言い方を多義的になならないように使うため。]


=== 登録していなかった書籍

[D]
ドレツキ,フレッド.1988(水本正晴訳 2005.10).行動を説明する:因果の世界における理由[双書現代哲学1].勁草書房.[Dretske, F. 1988. Explaining Behavior: Reasons in a World of Causes.] [y3,400+] [B20071119]