生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

御用学者論(草稿)

2012年07月22日 15時02分22秒 | 生命生物生活哲学
2012年7月22日-2
御用学者ないし空気御用学者論(草稿)

  「メディアなどの専門知の仲介者との関係から生じる事態〔略〕については,専門知を社会に仲介するアクターによるバイアスのかかった情報流布がそれであり,例としてIPCCの「地球温暖化レポート」に関する報道が挙げられる。IPCCの科学的予測は,信頼度や想定シナリオといった部分で「幅」をもっており,それを理解したうえで政策的対応を決めることが重要である11〔=江守正多.2008.〕。しかし報道では,その「幅」がしばしば捨象されてしまい,メディアによるメッセージの単純化によって,専門家の予測が単純であると誤解される恐れがある。」(尾内隆之・本堂毅 2011.9: 892頁)。

 では、信頼度や想定シナリオといった部分で「幅」を持っていることを理解した上での政策的対応はどうであるのがよいのか?
 結果としては、なんら政策的対応をしなければ数十兆円の税金と多大な労力の節約になったわけである。これは、二酸化炭素削減はできなかったし、税金を沢山使ったという事実的事項である。不景気になったときに、減少したのであれば、不景気にするという政策が効果的であろう。
 
 さて、
 2010年9月30日に記者発表されたという、
 「IPCC報告の科学的知見について ~IPCC関係科学者有志の見解~」
www.m-yamaguchi.jp/IPCC/IPCC.pdf
のIPCC関係科学者有志として、江守正多氏と茅陽一氏の名前がある。そこに、

  「2010年4月30日に開かれた日本学術会議主催シンポジウムでもこれらの結論を疑わせる具体的な科学的議論は出なかった。」

と書かれているが、「結論を疑わせる具体的な科学的議論は出なかった」と書いているのは、大いに疑問である。
 1. そもそもこのシンポジウムの趣旨が、そのような議論をするようには設定されていなかったと思う。というのは、第三部会の主催であり、科学論や科学社会論からの批判者は呼ばれなかった。また、IPCCに批判的な槌田敦論文が席に配布されていたが、槌田氏は招待されなかったし(日本気象学会でも発表は許可されなかった。むしろ、そのときの日本気象学会のシンポジウムに招待してその「間違い」を指摘すればよかったと思う。)、

 槌田敦氏の所論については、単純な誤解にすぎないという見解もあるし、その反批判もある(たとえば下記)。
 槌田敦『CO2温暖化説は間違っている』
http://www.geocities.jp/obkdshiroshige/ondanka3/tcmwoykuyom.html

 一度読んだが、物理的知識が無いので、よくわからなかった。一つの批判は、(記憶で書くので間違っているかもしれない)物理的に考えるという立場からのパラメータの数の多さである(真鍋モデルへの批判)。これは、上記の声明で引き合いに出されている2010年4月30日に開かれた(日本学術会議主催ではなく)日本学術会議第三部会主催のシンポジウムでは、模擬計算モデルでのパラメータ数三つ程度という

 
[O]
尾内隆之・本堂毅 2011.9.御用学者がつくられる理由.科学 81: 887-895.

[T]
*槌田敦.2006.2.CO2温暖化説は間違っている.169+iv pp.ほたる出版/星雲社.[Rh20090602, Osk451.8, y1,200+]

槌田敦.2007.6.環境保護運動はどこが間違っているのか?.231+v pp.宝島社.[B20071018, Rh20090429, y756]

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 日本破壊のTPPと国民生活破壊のTPR
  「「御用学者」に堕してしまう学者は、政府審議会の委員に就任することに大きな価値を置いている亜流の人物たちである。」
  「骨のある懐柔に屈服しない学者も存在するが、大蔵省は学者を懐柔できず、学者が硬派であると判断すれば、そのような学者を遠ざけて近づけないようにする。同時に、最重要危険人物リストに掲載する。」
  「 委員会には反対意見を述べる委員も加えられる。しかし、この反対派の委員に、骨のある、しかも専門知識も深い、本物の反対派は決して起用されない。起用されるのは、簡単に論破されてしまう弱小の反対派だけである。
 
 こうして御用学者の系列が生み出される。財務省の御用学者になると大きな恩典がある。予算措置において財務省が便宜を供与するのだ。各大学にとって、予算編成上の便宜は何よりも重要な事項だ。」
http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-c5e0.html




Bunge哲学辞典:probability, subjective 主観的確率

2012年07月22日 10時06分42秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月22日-1
Bunge哲学辞典:probability, subjective 主観的確率

 
probability, subjective 主観的確率〔主観確率〕 [BungeDic1: 224-225]
 【a 一般的】主観的確率〔主観確率〕は、命題を信じる程度の、または命題の信頼性 〔信憑性〕credibility の程度の測度だと言われる。よってその【同義語】は、信用性 credenceである〔→信頼性、信憑性、信用性の日本語的差異を検討せよ〕。しばしば主観的確率に頼る場面とは、不確実性に面したときである。つまり、十分な情報が無いときである。主観的であるから、主体が異なれば同一の事象〔出来事〕に割り当てる確率は、同じ立場〔資格〕であっても、異なることになりそうである〔likely to be different〕。よって、将来の情報のもとで修正する余地があるだけである。言い換えれば、主観的確率の割当は直観的で任意であり、よって科学的ではない〔unscientific〕。結果として、賭け率を知らずに賭けをすることに等しい。同様の理由で、主観的確率で戯れることは、↑【うわべだけの精密性 hollow exactness】という部類〔カテゴリー category〕に陥る、果てしの無い哲学的遊戯〔哲学的勝負遊戯〕〔philosophical game〕を許すことである。ゆえに、主観的確率を命題に割り当てることは、『真実と賭けをする』と正しくも呼ばれてきた。同様に、事象〔出来事〕に対して主観的確率を割り当てることは、それは↑【意思決定理論 decision theory】と↑【ケーム理論 game theory】で行なわれていることなのだが、(もちろん、人が机上のお遊びをしているだけでなければ)生と死を賭けることになろう。
 〔【b】は無い。→増補版と照合せよ。〕