生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

マスコミの使う検証、scrutability 検証可能性

2012年07月23日 23時36分46秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月23日-3
マスコミの使う「検証」、scrutability 検証可能性

 「scrutability 検証可能性」を再掲する。

scrutability 検証可能性 [BungeDic1, p.262。BungeDic2と照合すべし]
 検証されるscrutinizedまたは検討されるexamined可能性〔ことができること ability〕。↑【科学主義 scientism】は、知覚できる痕跡を残すこと無く消滅した物以外には、検証できない物の存在を否定する。同様にして、反啓蒙主義者は検証できない存在者(神々といったもの)と不可触の言明(教条 dogma)の存在を言い張る。これが、このようなまがいごと pseudothingと偽りの真理pseudotruthの多くの不思議な性質について、彼らは遠慮なく長々と書く理由である。〔20111102試訳。2011年11月2日-4〕

 
 辞書(失念)によれば、
scrutinize 細かに調べる、吟味する、詮索する。
scrutiny 精密(細密)な吟味[調査]、精査。
とあった。吟味という訳がよいかもしれない。
 日本の新聞やテレビで「検証」と言っているのは、一体どういうことを指しているのか、ながらく分からなかった。論理実証主義での検証 verification(立証と訳すべき)ではなさそうだし、と。
 一般的な言葉だから、おそらくscrutinyに当たるだろう。そう思ったのは、
  「例えばアメリカ人はアメリカ社会、欧米の基準で日本をスクルートナイズ(検証)します。」(高濱賛.2000.3.『新憂国論』,4頁.アスキ?.)。[このメモの日付は2004年7月12日。近辺に「情報のKullbacks測度」「ハートレイを見るとよい?」との走り書。]
という文に出くわしたからである。

 test と testabilityは訳したっけ?




Bunge哲学辞典:philosophy 哲学、philosophy of (何々)の哲学

2012年07月23日 22時22分39秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月23日-1
Bunge哲学辞典:philosophy 哲学、philosophy of (何々)の哲学

philosophy 哲学 [BungeDic1, p.210]
 【a】最も一般的な諸概念(たとえば、存在、生成、心、知識、規範 normといった概念)と最も一般的な諸仮説(たとえば、外的世界の自律的存在と認識可能性といった仮説)を研究する学問分野〔discipline〕。_基本的_諸分科〔諸分野 branches〕:↑【論理学】(数学と分かち持つ)、↑【意味論】(一部を言語学と数学と分かち持つ)、↑【存在論】、そして↑【認識論】。_応用的_諸分科:↑【方法論】、↑【実践論〔実践学〕 praxiology】、↑【倫理学】、そしてすべての↑【の哲学 philosophies of】。【反義語】↑【知識嫌い gnosophobia】。
 【b】↑【精密 exact】哲学は、論理学、集合論、そして抽象代数学といった形式的道具の助けによって建設された哲学である。精密哲学の利点は、明瞭さ、そして体系化および演繹の促進である。これらの特徴は、今度は、偏った本文解釈と果てしのない論争の危険を最小にする。しかし、精密性は、内容〔substance〕が無ければ無意味である。↑【小型問題 〔小問題〕miniproblems】と取り組むのに、形式の重砲隊を使うのは間尺に合わないことである。
 【c 科学的】哲学は、精密であることに加えて、今日の科学と科学技術の大部分と一致する哲学である。

 
philosophy of (何々)の哲学 [BungeDic1, p.211-212]
 ほぼあらゆることについて哲学的に考えたり、ほぼあらゆることから哲学的教訓を引き出すことは、哲学者の特権である。よって、Xに_ついての_数多くの_哲学_がある。ここでXには、芸術、法律、政治、宗教、科学、科学技術、など、なんでも入れることができる。理想的には、Xについてのあらゆる哲学は、哲学とXにおける多少の能力を持つ人々によってのみ育まれるべきである。残念ながら、どのXの哲学についても、哲学にもXにも無知な人々によって育まれていることが普通である。なんらXを知らずにXについて書く同僚哲学者を、たいていの哲学者は許容するし、好む哲学者もいる。つまり、あまりうるさく言わないのである。たとえば、直接の科学的知識は、公表されるのを望むどの科学哲学者にとってもかなりの障害である。他方、Xの専門家〔専門者 specialist〕は、Xについて知らない人々を許容しない。しかし、Xに精通している哲学者には無関心である。なぜなら、専門家〔専門者〕は哲学をXとは無関係で劣ったものとみなすからである。