東叡山 寛永寺
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した
旧寛永寺五重塔(重要文化財)
寛永寺を訪れた大きな目的は、東京に二つある重要文化財の五重塔の一つがあるからである
上野公園に着いて途中寄り道をしたが、3時間後、やっと目的の場所にたどりついた

事前に地図を見て気付いてはいたが、確認のために「五重塔を見るには動物園に入らなければいけないですか」と係員に聞く
やはりそのようだ。違和感があるが、拝観料だと思い600円の入園料を払った。

目の前に低い柵があり、狭い範囲でしか見ることができないのかと落胆していると
五重塔拝観者は柵内に入ることができるという、小さな注意書きがあった

柵内に入り塔の周囲を歩いてみたが、距離が近すぎて全体が見えない

第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が祀られていた(東京国立博物館に寄託)

寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺、高さは地上から先端の宝珠まで36m
現在の塔は寛永十六年(1639)の再建

1958年に寛永寺が東京都に寄付、現在の所有者は東京都
名称に「旧」とつくのはそのため
さて、上野動物園といえばナンダ、そうパンダである
この日は陽射しが強すぎ五重塔を撮るには条件が悪すぎたので時間つぶしにパンダをみることにした

どうもこちらも条件が悪そうだ。日中友好のパンダもケツを向け寝ている

これからはインドの時代だ。つまらないことを考えながら五重塔へ戻ったがあまり条件は変わっていなかった

動物園を出て歩いていくと、大きな銅像が見えた。誰かなと思い、その場所に進んでみた
小松宮彰仁親王銅像
この時代の歴史に疎く、まったく知らない人物である
鳥羽・伏見の戦に征東大将軍として参戦
ついで会津征伐越後口総督となり、戊辰戦争に従事したという

西南戦争負傷者救護団体の「博愛社(後の日本赤十字社)」の総長に就任

旧因州池田屋敷表門(重要文化財)
因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)

後に「東宮御所」として使用され「高松宮家」に引き継がれる

屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い

撮影 平成27年11月14日
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した
旧寛永寺五重塔(重要文化財)
寛永寺を訪れた大きな目的は、東京に二つある重要文化財の五重塔の一つがあるからである
上野公園に着いて途中寄り道をしたが、3時間後、やっと目的の場所にたどりついた

事前に地図を見て気付いてはいたが、確認のために「五重塔を見るには動物園に入らなければいけないですか」と係員に聞く
やはりそのようだ。違和感があるが、拝観料だと思い600円の入園料を払った。

目の前に低い柵があり、狭い範囲でしか見ることができないのかと落胆していると
五重塔拝観者は柵内に入ることができるという、小さな注意書きがあった

柵内に入り塔の周囲を歩いてみたが、距離が近すぎて全体が見えない

第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が祀られていた(東京国立博物館に寄託)

寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺、高さは地上から先端の宝珠まで36m
現在の塔は寛永十六年(1639)の再建

1958年に寛永寺が東京都に寄付、現在の所有者は東京都
名称に「旧」とつくのはそのため
さて、上野動物園といえばナンダ、そうパンダである
この日は陽射しが強すぎ五重塔を撮るには条件が悪すぎたので時間つぶしにパンダをみることにした

どうもこちらも条件が悪そうだ。日中友好のパンダもケツを向け寝ている

これからはインドの時代だ。つまらないことを考えながら五重塔へ戻ったがあまり条件は変わっていなかった

動物園を出て歩いていくと、大きな銅像が見えた。誰かなと思い、その場所に進んでみた
小松宮彰仁親王銅像
この時代の歴史に疎く、まったく知らない人物である
鳥羽・伏見の戦に征東大将軍として参戦
ついで会津征伐越後口総督となり、戊辰戦争に従事したという

西南戦争負傷者救護団体の「博愛社(後の日本赤十字社)」の総長に就任

旧因州池田屋敷表門(重要文化財)
因州池田家江戸屋敷の表門(黒門)

後に「東宮御所」として使用され「高松宮家」に引き継がれる

屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い

撮影 平成27年11月14日