東叡山 寛永寺
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した
根本中堂
公園内の案内板を見ながら、寛永寺では最後となる根本中堂についた
元禄11年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失
現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもの
歴史研究風の老人達が十数名集まっていた程度で、参拝者はほとんどいない
幼稚園と中学校に挟まれているため、時折子供たちの甲高い声が響く
本尊は、伝教大師最澄自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として祀っている
銅鐘
かつては将軍家霊廟の儀式鐘であったが、明治維新以降に当所に移された
除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている
旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
寛永寺旧本坊表門(重要文化財)に据えられていたもの
慈海僧正墓
墓石の正面中央に、聖観世音菩薩像を彫り込んでいる
すべての石仏に花が飾られている。日本人の信心深さを知ることができる
朝9時過ぎにJR上野駅から上野公園へ、寛永寺を廻ろうと心に決めてここまできたが、既に4時間が経過している
昼食抜きで何とか廻り終えることができた
空腹よりも足首が痛くなってきた。根本中堂の横を歩き、博物館の方へ戻る
木陰からスカイツリーが遠くに見える。あれも塔だが、まだ興味が湧かない
撮影 平成27年10月14日
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に寛永寺を建立した
根本中堂
公園内の案内板を見ながら、寛永寺では最後となる根本中堂についた
元禄11年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失
現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもの
歴史研究風の老人達が十数名集まっていた程度で、参拝者はほとんどいない
幼稚園と中学校に挟まれているため、時折子供たちの甲高い声が響く
本尊は、伝教大師最澄自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏として祀っている
銅鐘
かつては将軍家霊廟の儀式鐘であったが、明治維新以降に当所に移された
除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている
旧本坊表門・根本中堂 鬼瓦
寛永寺旧本坊表門(重要文化財)に据えられていたもの
慈海僧正墓
墓石の正面中央に、聖観世音菩薩像を彫り込んでいる
すべての石仏に花が飾られている。日本人の信心深さを知ることができる
朝9時過ぎにJR上野駅から上野公園へ、寛永寺を廻ろうと心に決めてここまできたが、既に4時間が経過している
昼食抜きで何とか廻り終えることができた
空腹よりも足首が痛くなってきた。根本中堂の横を歩き、博物館の方へ戻る
木陰からスカイツリーが遠くに見える。あれも塔だが、まだ興味が湧かない
撮影 平成27年10月14日