御都繖山(ぎょとさんざん) 石馬寺
伝承によると、1400年前に霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山の山麓に馬をつなぎ山上に登った
山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた
これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという
初めて訪れる寺院で勝手がわからず周辺を歩くと石段が見えた
「ようこそ石馬寺へ」の案内板がある。歓迎されているようだ
張り切って上り始めたが、すぐに息切れしてしまう
呼吸を整えるため、石段とその周囲の景色を撮る
何かが見えたので着いたのかと思ったら違った。ここから右側に進むと「石馬寺」、左は「六所神社」
「石馬寺」と彫られた石碑。ここから先も石段が続く…
鐘楼
写真左の階段を上りきった左側に鐘楼がある
一打撞くことができるというので心をこめて撞いてみた。余韻の残るいい音がした
近江商人 中村治兵衛供養塔
「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の家訓を残した
本堂
永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによる戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとくが兵火に遭い焼失
豊臣秀吉が天下を取ると寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた
慶長8年(1603年)、徳川家康により『石馬寺』が復興という歴史をもつ
不動堂
不動堂内部
英霊塔
石馬のお不動さん
不動像といえば恐ろしいというイメージがあるが……
「平等利益」と刻まれている
美しい観音像
宝物殿
扉が開かれ館内に入った瞬間「おぅ」と声が出てしまった。重要文化財に指定されている仏像が1体安置されている
ガラスケースなどの障害物もなく間近で拝観できるのもいい。印象に残っているのは重文の「木造役行者」
境内の建物が修復中
本堂内部に案内された。撮影が許可されている
本尊は「十一面千手観世音菩薩立像」(秘仏で一代の住職が生涯一度だけ御開帳)
雲居(うんご)国師像(重要寺宝)
大日如来像(重要寺宝)
聖徳上宮太子像(重要寺宝)
扁額「石馬寺」
「傳 聖徳太子筆」の扁額
境内の「石馬寺」と記されている扁額・石碑の文字は同じ字体になっている
注意深く石段を下りるが、途中足を滑らし軽い捻挫をしてしまった
思い当たる事がある。魅力に負け撮影禁止の仏像を撮ったのだ。悪いことはできないものだ
撮影 令和元年5月19日
伝承によると、1400年前に霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れ、繖山の山麓に馬をつなぎ山上に登った
山の霊異に深く感動して戻ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた
これを瑞相と捉えた太子は、山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立し、石馬寺と号したという
初めて訪れる寺院で勝手がわからず周辺を歩くと石段が見えた
「ようこそ石馬寺へ」の案内板がある。歓迎されているようだ
張り切って上り始めたが、すぐに息切れしてしまう
呼吸を整えるため、石段とその周囲の景色を撮る
何かが見えたので着いたのかと思ったら違った。ここから右側に進むと「石馬寺」、左は「六所神社」
「石馬寺」と彫られた石碑。ここから先も石段が続く…
鐘楼
写真左の階段を上りきった左側に鐘楼がある
一打撞くことができるというので心をこめて撞いてみた。余韻の残るいい音がした
近江商人 中村治兵衛供養塔
「三方よし」(売り手よし・買い手よし・世間よし)の家訓を残した
本堂
永禄11年(1568年)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによる戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとくが兵火に遭い焼失
豊臣秀吉が天下を取ると寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられた
慶長8年(1603年)、徳川家康により『石馬寺』が復興という歴史をもつ
不動堂
不動堂内部
英霊塔
石馬のお不動さん
不動像といえば恐ろしいというイメージがあるが……
「平等利益」と刻まれている
美しい観音像
宝物殿
扉が開かれ館内に入った瞬間「おぅ」と声が出てしまった。重要文化財に指定されている仏像が1体安置されている
ガラスケースなどの障害物もなく間近で拝観できるのもいい。印象に残っているのは重文の「木造役行者」
境内の建物が修復中
本堂内部に案内された。撮影が許可されている
本尊は「十一面千手観世音菩薩立像」(秘仏で一代の住職が生涯一度だけ御開帳)
雲居(うんご)国師像(重要寺宝)
大日如来像(重要寺宝)
聖徳上宮太子像(重要寺宝)
扁額「石馬寺」
「傳 聖徳太子筆」の扁額
境内の「石馬寺」と記されている扁額・石碑の文字は同じ字体になっている
注意深く石段を下りるが、途中足を滑らし軽い捻挫をしてしまった
思い当たる事がある。魅力に負け撮影禁止の仏像を撮ったのだ。悪いことはできないものだ
撮影 令和元年5月19日