中井悠美子(悠石)「四季の絵文日記」 2011/9/24~

四季を語る「絵文」と、日常を織り交ぜた小さな日記。
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Vol. 197 郷土の偉人・その(2)

2012年06月18日 20時31分48秒 | 郷土の偉人
   京都の偉人・・・まずは 角倉了以・・・すみのくらりょうい・・・ 水運の父 と呼ばれています。

   角倉家は長年「裏千家」の支援者であり、裏千家12代はこの家からのご養子です。
   従って裏千家にはこの角倉の血も流れていると言うことになります。
   10代さんには子供がなく、11代は他家からご養子を迎えられましたから
   この時点で「千利休」の血は途絶えたことになりますね・・・11代には女子しか生まれず。
   この時代「家督」は男子、しかも長男しか継げなかったのです。そんな訳でご養子に・・・

   余談が長くなりました。さて、その角倉了以・・・本名ではなかったと検索で知りました。
   名字は「吉田」・・・先祖は室町幕府お抱えの「医者」をつとめていたとのこと。
   その後医業で得た財産を元手に「土倉」を営み・・・角倉は運営していた土倉の一つからとったと言うことです。

       
   了以・・・なかなかの強面ですねえ!優しい写真見つかりませんでした。了以邸跡。木屋町二条下ル・・・

   
   「がんこ」の宣伝ではありませが、了以の別邸です。維持が困難になり売却取り壊し寸前に「がんこ」が買い取り。
   鴨川から流れ込む清流も庭も茶室も巨大な石塔もそのままに、お食事処となりました「がんこ二条苑」・・・小島社長有難う。
   高瀬川の注水口・・・はこの邸の中にあるんですよ。残って良かった!

    ←がんこの前辺りの「高瀬川」

   前置きが長くなりました・・・水運の父と呼ばれた了以!
   安南(あんなん・今のベトナム)との貿易で巨額の冨を得た了以は
   1606年から「大堰川・保津川下流」の開削を行います・・・川の底を削って水深を深くしたのですね。

   このことで、丹波からの物資が一気に、難なく京へ運ばれることになります。
   現在、保津川下りが観光として残ったのは、まさに 了以 のおかげなのです。

   続いて「富士川」開削。
   そして「高瀬川」・・・京都→伏見→淀川へ・・という水上交通路を開くのです。
   1604年・・・吉井川・私の故郷を流れる川です・・・この川の運搬船「高瀬舟」をみて
   京都その他の地にこれを流行させたということです。

   人は一代、名は末代さ・・・やはり私財を なげうって ・・・ですよね

   岡山繋がりが出てきたところで・・・お終いです・・・簡単ですみません。

   皆様お付き合い有難うございました。
コメント (8)
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