昨日アップした『老子』の訳を比較をしてみようと思います。
比較といいましても、
そのままの文章を載せるだけですが。
第一章でと思いましたが、
安冨歩さんの第一章はとても長いので、
第二章をあげてみます。
安冨歩さんの訳
この世界においては何事も、ただ、そこにある。
そこには美醜も善悪もない。
あなたが、美しいものを「美しい」と思うことで、
「醜い」が生じる。
あなたが、善いものを「善い」と思い込むことで、
「善くない」が生じる。
それらは、あなた自身が、作り出しているにすぎない。
有を「有」とするから、無が「無」となるのであり、
有無は共に生じる。
難を「難」とするから、易が「易」となるのであり、
難易は共に成る。
長を「長」とするから、短が「短」となるのであり、
長短は共につくられる。
高を「高」とするから、下が「下」となるのであり、
高下は共にそこにある。
音楽を「音楽」とするから、雑音が「雑音」となるのであり、
両者は調和する。
先を「先」とするから、後が「後」となるのであり、
前後は付き従っている。
これらは常にそうである。
優れた人や劣っている人がいるのではない。
豊かな人や貧しい人がいるのではない。
誰かを「優れている」と思うから、
誰かが「劣っている」ということになり、
誰かを「豊か」だとおもうから、
誰かが「貧しい」ということになる。
それは、あなた自身が、作り出しているに過ぎない。
蜂谷邦夫さんの訳
世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、
実はそれは醜いものにほかならない。
みな善いものは善いと思っているが、
じつはそれは善くないものにほかならない。
そこで、
有ると無いとは相手があってこそ生まれ、
難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、
長いと短いとは相手があってこそ形となり、
高いと低いとは相手があってこそ現われ、
音階と旋律とは相手があってこそ調和し、
前と後ろとは相手があってこそ並びあう。
そういうわけで、
聖人は無為の立場に身をおき、
言葉によらない教化を行う。
万物の自生にまかせて作為を加えず、
万物を生育しても所有はせず、
恩沢を施しても見返りは求めず、
万物の活動を成就させても、
その功績に安住はしない。
そもそも安住しないから、
その功績はなくならない。
少し違いますよね。
なお安冨さんの本は現代語訳だけで、
文字も大きく読みやすいですが、
岩波文庫、蜂谷さんのものは、
訳文・訓読文・原文・注があり、
50ページくらいな解説文に索引までついていて、
読みごたえがあります。
どちらがいいとかは決められません。
土日コメント欄閉じてます。