白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義3

2020年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
言語の価値について。言葉というものは常に流通していなければ死語化する。だが一方、いったん流通し出すと同時に価値〔意味部分〕が生じる。そしてこの価値〔意味部分〕は流通することで、移動することで、移動すればするほど、その価値〔意味部分〕を変動させていく。だからシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とは二分割されているといえる。さらにソシュールが論じたように、シニフィアンとシニフィエとのあいだは密着していない。差し当たり境界線を引いて分割することで説明することはできるが、そのあいだは、どこまで行っても或る《あいだ》が開いたままになっている。シニフィエ(意味)の変化は、この《あいだ》が、ただ「ある」というだけで起こるわけではなく、それが《動いた》瞬間に発生する。ただ単なるサインではなくなる。だから動植物が用いるただ単なるサインと人間が用いる言語とは似てはいるけれども全然違う必要物である。動植物もときおり失敗する。サインを読み違える。自然界ではしばしば起こりうる例外であって無視してよい。問題は動植物にはなく人間が言葉を使用するときに発生する。言語とはそういうものだ。そういう言語を用いて始めて或る人間と他の人間とのコミュニケーションは可能になるだけでなく言語を用いないかぎりコミュニケーションできているのかできていないのかわからないという事情から人間の可能性も不可能性もともに生じる。シニフィエ(価値〔意味部分〕)は運輸業の生産過程と似ている。次のように。

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)

文学の場合、作者の創作態度の変化は作品の意味内容の変化として読者に読み取られる。読者によって読み取られないかぎり、作者の態度の変化あるいは作者が伝達したいと欲しているものの変化は読み取られることができない。それはほとんど多くの場合、作品の文体の変化となって固定されて出現する。たとえば夏目漱石のケースでは有力な読解方法が幾つかあるけれども、どれを選択するにしても大変わかりやすい。最も難解とされる柄谷行人の漱石論でさえ、一度その「ねた」に気づいてしまえば理解はいとも容易である。マルクス、ニーチェ、フロイトをほぼそのまま適用させれば設計図はもう見えたようなものだ。とはいえ批評として構築する作業はそれほど容易に実現できたわけではないだろう。フーコー、ドゥルーズ、デリダを経由していなかったとしたら後にも先にも批評家=柄谷行人はなかったと言える。いっとき、日本のネット社会で「柄谷行人を解体する」とかいうテーマが賑っていたことがあった。今では閑散としている。柄谷行人は今なお変化し続けているにもかかわらず。変化が可能なのは移動の《あいだ》で生じてこないわけにはいかない差異に依存している。この差異が何らかの価値を発生させる。増大であれ減少であれ。差し当たり量的な差異は一定程度を越えるやいなや質的に転化する。しばらくして振り返ってみて始めて一定程度とはどの程度だったのかを推測することができる。だから価値変化の分析はいつも事後的に始まるだけでなく事後的にでしか始めることはできない。このようにして、シニフィエ(意味されるもの)は移動中に変化する、あるいは価値を変動させるということができる。この種の作品は読者を生産する傾向を有する作品であり古典的価値を持つ。難解だからではなく逆に容易だからだ。社会の変容過程をそのままコピーしたような作品でありその意味では筋が通っていない箇所が続出している。それはそのまま明治近代国家の筋の通らなさ、複雑骨折ぶり、同時多発脱臼ならびに圧縮による。しかしそれらはどれもむき出しであって目に見えていた。暴力的だったが余りにもひどく目に見える暴力装置が猛威を振るっていたぶん、逆説的に言い換えれば「健全な/わかりやすい」暴力とでもいえたのも知れない。

漱石を読むとき、最初はなるほど意図がなかなか読みきれず戸惑いはする。けれども読んでいるうちになぜ読者はいずれかの方法論を手に入れることができるのだろうか。それは明治近代国家というものが極めて形式化しやすい、論理的にマッピングしやすい社会だったことを前提として、しかも全裸で横たわっていたからである。その意味ではラカンのいう「象徴界、想像界、現実界」という道具をうまく適用させて語ることすら容易に思えるほど見え見えの社会だったに違いない。帝国主義というシステムは前代未聞の怪物として出現したにもかかわらずその読解のための道具立てはその都度その都度ほぼ同時に出揃っており、社会自身がそれほど複雑でなかったとも言いうる。ところがネット社会はまた全然違っている。作品読解にもしラカン理論を適用するとすればせいぜい帝国主義崩壊までのことだ。そもそも現代社会というとき人々は何を頭に思い浮かべているのだろう。たとえば新型ウイルス問題で全面的に覆い隠されている「8050問題」など。なおこれまでも、あえて「コロナ」と省略しないのは、日本語にありがちな音韻のリズムから考えて、極端なマイナスイメージを与えられたまま差別語として定着してしまいそうな空気で充満しているからであることを断っておきたい。そんなわけで話は宙吊りのまま、今日は今日の風しか吹くことができない。
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なお現在、日本政府が必死になってやっていることについて。確実に言えることだけは言わねばならない。

「労働手段は大部分は産業の進歩によって絶えず変革される。したがって、それは、元の形でではなく変革された形で補填される。一方では、大量の固定資本が一定の現物形態で投下されていてその形態のままで一定の平均寿命だけもちこたえなければならないということが、新しい機械などが徐々にしか採用されないことの原因にもなっており、したがってまた、改良された労働手段の急速な一般的な採用を妨げる障害にもなっている。他方では、競争戦が、ことに決定的な変革にさいしては、古い労働手段が自然死の時期に達する前にそれを新しいものと取り替えることを強制する。このように事業設備をかなり大きな社会的規模で早期に更新することを強要するものは、おもに災害や恐慌である」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第八章・P.276~277」国民文庫)

そして地球環境問題だが、再生エネルギー開発だけを取り出せばそれはそれで悦ばしいことなのかもしれない。しかし最初に取り組むべき課題、原発をどうするのか。原発を廃止しないかぎり再生エネルギーという言葉ばかりを幾ら連呼してみたところで、所詮それは原発の補完装置として、原発の下請けとしての動作環境しか与えられないし、国策として開始された原発をいかに終息させるかということへ移動しなければ時間がない。

さらに。「ロシア革命」を「消化した」資本主義は自分で社会主義的政策を引き受けることでソ連解体に成功したわけだが、今回の新型ウイルス問題で新たな事実が発覚した。少なくとも日本では、国家が引き受けるべきであり引き受けたはずだった公理系の創設は、東京都はともかく、その他膨大な数の地方自治体では引き受けられていなかったことを認めなければならない。五十五年体制を支持した有権者が基礎をつくり、高度成長期に完成し、一九八〇年代バブルであっけなく瓦解した日本。その後、なぜ冷戦終結にもかかわらず公理系の必然的重要性から見る場合、他の先進諸国と比較して圧倒的に多い公理系の誤作動が続出してきたのか。その理由が暴露された。ロシアの脅威に怯えていたわりに、どこまで茶番だったのだろうか。社会福祉部門を資本主義自身が責任を持って公理系化し公理系化されることで資本主義は延々と延命していくことができる。ところが東京都を除く地方都市ではとてもではないが社会福祉部門もともに創設されたというにはほど遠い実態が世界中に知れ渡ってしまった。日本の市民社会は種子も仕掛けもある単なる手品を見せられてものの見事に騙され続けていたのだった。つい前日、滋賀県での実話なのだが、二人の女性高齢者が電車の車内で話しているのを耳にした。女性の夫が高熱のため救急車で病院へ搬送されて検査を願い出たが、出てきた医師がゴーグルと防護服で武装したかのような服装で登場し、検査はされず、問診だけで済ませ、後は保健所へ相談してくれと言われて保健所へ相談すると今は対応できないような話で実質的には検査待ちでありしかもいつになれば検査してもらえるのかわからないとのことだった。連れの女性からいったいどの病院なのかという問いを振られた女性は、病院の実名を口にすればもしかしたら知らないうちに襲撃されて殺害されただ単なる事故で処理されるかもしれないと考えてしまったのかもしれない。恐怖と不安が一挙につのってきたようで途端に無言になり、それきりずっと黙り通していた。肝心の救急搬送先が県内か県外かも言わない。東京都以外の他の地方自治体も似たようなものなのか、それとも滋賀県だけが取り残されているのか、さっぱりわからずただただNHKが政府を代弁していつ何を公式発表するのか、あるいはしないのか、高齢者、とりわけ後期高齢者は恐怖と不安に駆られて震えているばかりのようだった。

そしてまた、経済学の一つの理論的分野として数学を基礎に置きこつこつと研究が続けられてきた「数理経済学」について。統計学上の数字をもとに独自に算出された数値を基礎として仮説を設定しそこから新しい経済学を構築する方法として出発した分野だが今なお経済学としては未完のままに自然消滅してしまう公算が高いらしい。その理由だが事情が込み入っているらしくよくわからない。東大/京大の研究室内部のことなので、ということもありはするけれども。それより遥かにこれまで算出されてきた数値というのはここ数年で一挙に明らかになったようにーーーたとえばつい最近発覚した「スルガ銀行」は有名だがーーー改竄まみれであることが判明したからである。改竄だらけの世界であったことが表面化した今、それらの統計を基礎に置いたすべての経済学研究はどのような数式を発明しても信用を維持できない状態のまま空っぽの研究に打ち込むほかなくなる。だからニーチェはすでにいっていた。

「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

改竄の必要などない。数字は、したがって数学もまた、いつもすでに仮説でしかないと。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義2

2020年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム
兵庫県立美術館のホームページから。急遽、ゴッホ展が2020/10/20(金)から24(火)まで中止と発表された。新型ウイルス拡散防止措置とのこと。だがなぜこの日程なのか釈然としない。さらに大都市ではその地域の代表者自身が公式発言の上に公式発言を重ねる。だから何を言っているのかさっぱり、という状態が作り出される。知事や市長クラスになると資本主義の要求に急接近し出す。たとえば春休みに入ると児童/生徒らは学童保育所に丸投げされる。クラスター阻止のため、一方で一メートル間隔を保てと指示し、他方で鮨詰め状態の学童保育所に責任を押し付ける、あるいはたらい回しにする。この、統合失調症的事態の出現。ドゥルーズとガタリが「千のプラトー」まで行きついてより一層軽快な哲学思想への移動を果たしたにもかかわらず「アンチ・オイディプス」の次元へ一挙に巻き戻されてしまった。こんなふうに。

「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)

放置しておけば無限に解離し、ずれにずれを生じさせていく分裂性という点ではなるほど統合失調症者の症状に似てはいるのだが、資本主義という諸力の運動は最後のところで決定的に異なる。

「分裂者については、こういえる。かれがたえず移り歩き、さまよい、よろめき続けているその頼りない歩みからいって、かれは、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく崩壊させながら、たえず脱土地化の道をどこまでも遠くへとつき進んでゆくひとなのだ。恐らく、あの分裂者の散歩は、みずから大地を再び発見し直すかれ自身の独自の仕方なのである、と。分裂症患者は、資本主義の極限に身をおいているのである。かれは、資本主義に内属するその発育の衝動であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、それを殺戮する天使である。かれは一切のコードを混乱させ、欲望の脱コード化した種々の流れをもたらす。実在するものは流れる。<《過程》>の二つの様相が再び結ばれる。〔欲望する生産の〕形而上学的過程と社会的生産の歴史的過程とが。前者は、自然の中にあるいは大地の核心の只中に住まう『ダイモン』にわれわれを触れさせる、あの形而上学的過程であり、後者は、社会機械が脱土地化するのに応じて、欲望する諸機械の自律性を回復させる、あの社会的生産の歴史的過程である。分裂症とは、社会的生産の極限としての欲望する生産にほかならない。したがって、欲望する生産が現われるのは、またこの生産と社会的生産との体制の相違が現われるのは、最後においてであって、最初においてではない。一方の生産と他方の生産との間には、実在の生成というひとつの生成の運動があるのみである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.50」河出書房新社)

両者のどこがどう違うのか。先に引いた部分にある。「分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代える」と。両者の決定的な差異は「置き換え」にある。最も強度の統合失調症では限界を喪失したまま死に至る。ところが資本主義の場合、限界まで突き進むが極限まで達すると「この極限を押しのけおきかえ」る。たとえば、空爆し更地化し再土地化し新しい不動産として商品化し貨幣交換を済ませて剰余価値を実現する。だから資本家ではなく資本主義は自己目的として「極限を押しのけおきかえ」る動作をやめないしやめることを知らない。資本主義は資本家あるいは企業経営者を徹底的に鞭打つことで自己目的を貫徹させて楽しむ。愉快で仕方がない。資本主義は国家の所有物を超越して逆に国家を資本主義のためのただ単なる整流器へ変換することに成功した。さらに資本主義は肯定することしか知らない。資本主義は否定の契機なしに作動することはないが、否定をさらに否定することで肯定へ転化するのである。あくなき超越論的流動運動なのだ。

だから資本主義が日本政府に要求しているのは民主主義の原則に則って果たすべき責任ある政治的決定を各自治体に丸投げし支離滅裂ぶりを公然化させてマスコミを賑わせることではなく政府自身が整流器の機能を果たすことなのだが上手くいっていない。なぜ民主主義が必要なのか。資本主義は自己目的を貫徹するためにいつでも首の置き換えを欲するからである。そのためにわざわざ創設された政治的装置が民主主義と呼ばれているに過ぎない。だから民主主義はもっと柔軟に作動すべきが資本主義延命のために最も好ましいのだが、資本主義は資本主義に隷属する人間を用いてしかこの作業を推し進めることができない。資本主義は人間社会の産物なのだが人間社会の上に立った以上、今度は人間がしばしば邪魔になるのである。人間に特有のヒューマニズムという独占欲が。資本主義はどこまで行ってもキャピタリズムしか知らないのであって間違ってもヒューマニズムと混同されてはならない。ところが人間は実にしばしば資本主義から生じる果実を独占したがるためにかえって人間自身が邪魔になるのだ。神を滅ぼして新しい神になった資本主義。しかし人間は古代の神の前では何度も礼拝してきたにもかかわらず資本主義という新しいだけでなく史上最強の神の前では礼拝ひとつしない。資本主義にすれば「不思議で仕方がない」と言うだろう。しかしこの種の人間の態度は何も今になって突然始まった横着ではさらさらない。有権者はすでに慣れてしまっている。驚くべきときに驚くことをすっかり忘れ去るまでに市民社会の平板化、均質化、凡庸化、家畜化といった資本主義独特の一般化作用が世界中に浸透したからである。資本主義の逆説なのだがそれを狡猾に調整するのが政府に与えられた役割だというのに。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

ところでゴッホ。人間はゴッホの「精神的健康」について驚く。しかしアルトーは驚かない。むしろこう述べている。

「人はヴァン・ゴッホの精神的健康について語ることができるが、その彼は全生涯のあいだにただ片方の手を焼かれただけであるし、それ以外には、あるとき左の耳を自分で切り落とす以上のことはやらなかった」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.110』河出文庫)

アルトーはつまらないスキャンダルには関心がない。というのも、スキャンダルによって思考の邪魔をされたくないということでは必ずしもなく、「ヘリオガバルス」を論じ「タラウマラ」を書き上げたアルトーにとって、逆にゴッホの絵画の側こそが周囲のスキャンダルを一挙に覆い尽くしごみ箱にかなぐり捨ててしまう《現実》だったからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義1

2020年03月20日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネ作品について述べたあと、振り返ってみると、当初の予定が大幅に延長されていたことに気づく。なぜかはわからない。或ることに一旦触れればまた別の或ることについても触れていかないわけにはいかなくなる。だからその種の小説は底なしかというと必ずしもそうだとは限らない。作品という死物。それは読者に委ねられるやいなや書くことへ転化するし転化しないわけにはいかない。その不可避的事情を利用して読者は改めて書くのである。他方、アルトーについてはまだ少し残したままなのだが、とはいっても述べたいとおもう部分は多かれ少なかれ、もう補遺として考えられる箇所を残すばかりになった。

「私はもう、うんざりしながら、私が生きる理由を探しており、自らの身体をたずさえるという義務を放棄していた」(アルトー『タラウマラ・P.147』河出文庫)

脱有機体への旅。あらかじめ与えられた身体の放棄あるいは脱出。アルトーの文章はタラウマラ族の地を訪れた際に彼らと共に経験することができた諸々の出来事の報告に見える。しかしこの場合、報告は詩としてしか述べることができない。ペヨトル摂取が人間の精神をどのように変容させるかはすでに研究され尽くされており大量の報告書が提出されている。だがアルトーによってもたらされた文章が常に新しいのはどうしてだろう。

「私はやっと理解したのだ。私は生をでっち上げており、それが私の役割であり私の存在理由であったということ。また自分がもはや想像力を持たないときには、うんざりしていたこと。そしてペヨトルは私にそれを与えたのである」(アルトー『タラウマラ・P.147』河出文庫)

ただ単なる意識変容というレベルではすでにLSD発見によって頂点は極められた。しかしLSDの効果はただそれだけのことであって植物として語るわけではない。LSD摂取者はLSD摂取者として語ることができるばかりだ。植物として語ることとはまた違っている。アルトーはペヨトル摂取後、経験者として、人間の生について「私は生をでっち上げて」いるに過ぎなかったと語る。何らかの幻覚を出現させるドラッグを摂取した人々はほぼ例外なく一様にそう語る。目に見えている身体とそうでない精神との解離が他者の幻影を巻き込みつつ周辺環境全体として流動しながら変容する。それはペヨトル摂取以前に信じ込んでいた有機体としての世界がいかに「でっち上げられた」ものでしかなかったかを逆に信じ込むほかない意識変容状態に連れ去る。タラウマラ族は西シエラマドレ山脈に残っていた少数民族であり古代の生活様式を比較的多く保存していたがゆえに様々な立場から論じられ、事実上解体されたに等しい。資本主義に取り憑かれた人間は限度を忘れて<他者>が持つ遺産を徹底的に破壊してしまう。過去のものへと葬り去ってしまう。その意味で<他者>の遺産を研究することと破壊することとはいつも同じ一つの動作である。しかし最も注意深いペヨトル経験者は一様に語る。資本主義の脱コード化の運動とペヨトルによってもたらされる意識変容状態はあたかもどちらが「真実」なのかわからないほどよく似ていると。ただ、決定的に違うといえることがあり、それはどういうことかというと、資本主義的脱コード化の運動はペヨトル摂取の効果と比較するとバッドトリップというに等しく、けれども、ペヨトルの効果が終了すればいずれ帰ってこなければならないバッドトリップという現実が資本主義社会なのだと。言い換えれば人間の身体は資本主義というバッドトリップによって支配された生活様式の世界へ戻らなくてはならないと同時にペヨトルによってもたらされる世界、ニーチェの言葉を借りれば「別様の感じ方」を経験させる世界もまた「真実」だという意味で両者は《等価である》と言わなければならないという疑えない事実であるというわけだ。とすれば後のことを決めるのは人間ではなく、資本主義にとってどちらが有利か、という利子増殖を自己目的とする条件がすべてを決定するということになってくる。だから逆説が生まれた。

資本主義は資本主義に隷属する人間を通して国家を樹立させペヨトルを取り上げた一方で、徐々に、しかし着々と、アッパー系の薬物、具体例の一つとしてアメリカのような新自由主義一辺倒社会ではコカインの闇ルートが半ば公然と創設された。アメリカが世界一の経済大国でいるためには圧倒的な量のコカインが必要とされた。しかし闇ルートでは確実な税収に繋がらない。あくまでもコカインがもたらす労働量の増大を通して達成された利潤から改めてトップダウンという形式へ転倒させてすべての利潤を合法的に資本還元させる必要性が生じてきた。ところがそのために労働現場では故障者が続出し出した。コカイン以外にも様々なドラッグが開発され市場を流通するようになった。こうして経済大国としてのアメリカとメンタルヘルス大国としてのアメリカという二つのアメリカが存在するという事実を認めないわけにはいかなくなってしまった。タラウマラ族もまた古代から何度もオーバードーズによる失敗者を出してきた経験の上に立ってその使用法に関し儀式化を採用することで新しい身体を年に一度与え直す方法を開発していたのである。

タラウマラ族は「ノアの大洪水」以前からの上級使用者として語る。だが後からやって来た資本主義近代社会は資本の常として疑似的ペヨトルを大量生産し商品として引きずり出し現金化する。資本主義は一方で奪い他方で販売しさらに調整弁として国家を動かし社会復帰過程を創設し一人の人間から可能なかぎり搾取することしか知らない。人生百年時代の内実とはいったいなんだろうか。それは合法的医薬開発を含むドラッグカルチャーから生まれた。そしてその同じ合法的ドラッグカルチャーが大半の労働者にとって延命装置として作用するのなら、その限りで、わざわざ発明された搾取反復装置の別名あるいは本名でしかない。「ノアの大洪水以前」という言葉はしばしば用いられる手垢まみれの評論家用語でしかなくなってしまったが、少なくとも日本では小林秀雄がマルクス=エンゲルスから引用したことで奇妙な形で流通するようになった。今はまだその部分を改めて見ておくに留めておくことにしよう。ちなみに小林秀雄はもちろんだがその後の世代にあたる太宰治や檀一雄らはみんな、阿片系薬物の常習者である。阿片の効果は両義的だ。本来的には精神を落ち着けるダウナー系薬物として用いられていたし今でも主流はそうである。だが資本主義の加速化とともにダウナーの面が削ぎ落とされアッパー系効果が求められるようになってきた。そのような社会的要請に関し阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)では間に合わない。だから直接的にアッパー系薬物として作用するアンフェタミン、メタンフェタミンといった覚醒系合成薬物が市場で優位を獲得することになった。しかしこれまた大量の故障者を続出させてしまうという事態で国家は困惑した。社会福祉分野の支出ばかりがうなぎ上りにかさんでくる。労働者は労働のための覚醒剤使用から覚醒剤使用のための労働賃金獲得へと次々に転倒していく。同じ種類のドラッグが一方から他方の用途へ変化するわけではない。公理系創設以前の資本主義的生産様式が当初は想定されていなかった他方の用途への使用を自分の手で不可避的に招き込むのである。しかし増殖するばかりのその流れは二度にわたる原爆投下によっていったん終止符を打たれた。以下はほんの僅かだが小林秀雄が引用した部分。

「カテゴリーとしては、交換価値はノアの洪水以前からある。だから意識にとっては、ーーーしかも哲学的意識は、概念する思考が実際の人間であり、したがって概念された世界そのものこそがはじめて実際の世界である、というように規定されている、ーーー諸カテゴリーの運動が実際の生産行為ーーー残念ながらそれは刺戟だけは外部からうけるーーーとしてあらわれ、その結果が世界なのである、そしてこのことは、ーーーこれもまた同義反復ではあるがーーー具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。あたまのなかに思考された全体としてあらわれる全体は、思考するあたまの産物である、そしてこのあたまは自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものにする仕方とはちがうひとつの仕方である。現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける、つまり、あたまがただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.311~314』岩波文庫)

小林が問題としているのは言語である。一方にマルクスを、他方にドストエフスキーを置いて、両者を共に「言語という問い」に対する二種類の「達人」として述べた差し当たっての結論として。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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ちなみに今回のBGMは選曲にあたって新自由主義が自然界に対して地球規模でどれほどのダメージを与えているかを人間の身体を用いて実験的に表現して見せた楽曲も盛り込んだ。その楽曲の仕上がりは相変わらず稚拙なレベルでしかないとはいえ、さらに実験的にしか行われ得ない資本主義という極めて不自由な条件の縛りがあるわけだが、少なくともまったく考えないより少しは考えている人々がいるということが救いといえば言えるかもしれない。しかしなお、一度視聴すればもうわかってしまうといった消費社会の底辺をさまようほかない現実社会が病的社会としてどのレベルの深さまで浸透しているか、その一端には触れているとおもわれる。地域紛争を一時中止させて更地化し再土地化し不動産商品として転売する空爆は目に見える空爆である。だが地球環境への空爆はそれとは違っている。顕著な違いとしてそれは、徐々に、けれどもそのぶん確実に行われるし実際に行われてきた。地球は自分で「痛い」とか「傷ついた」とか「リンチされた」とか、けっして言わない。しかし無謀な暴力的問いに対する答えは必ず出すのである。なお、それが暴力的かどうかという答えは事後的にしか理解できないものであり、人間が地球環境に与えた行為が自然循環の処理能力を越えてのさばった証拠として常に後から暴力として出現してくるほかないという不可逆的事情による。

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言語化するジュネ/流動するアルトー153

2020年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム
少年時代に苦労すればするほどその後の人生は豊かなものになるとはまったく限らない。豊かさとは何か。個々人によって考え方は異なる。だから豊かさということをどう考えるかも異なってくる、という安易な理屈だからではけっしてない。多くは一人一人がどのようにして自分で豊かさとは何であり何でないかを発見していく終わりなき作業に費やされて死を迎えるのが常だ。なぜなら、豊かさの基準というものは《ない》からである。逆に《ある》と思えるのは或るとき、或る瞬間にかぎり、不意に安堵の思いが身体のどこかをかすめて過ぎるやいなや生じてすぐに消えるそのとき《のみ》の錯覚に過ぎない。多大な苦労にまみれた少年時代をもった人々はほんのちょっとした安堵の瞬間を感じるやいなや、その瞬間、豊かな収穫、豊漁を実際に手に入れたかのように錯覚する。僅か数秒ほどもない錯覚によって自分は自分自身の人生のどこかで豊かな経験を得ることができたと思えるとしたらその人間は豊かさの意味をわざと「取り違える」ことで自分で自分自身を自己瞞着して見せたに過ぎない。少年時代に苦労を知らないまま上層階級や中産階級の相続人となった人々はそれを見てただただほくそ笑んでいるのであり、なぜ大いなる健康な笑いでなくほくそ笑みでしかないのかという理由は、それを表に出しているところを目撃され殺害されることを巧みに避けているに過ぎない。ところがキュラフロワの場合、例外的に誠実な後半生を送ることができた。というのは、汚辱にまみれた人生を能動的に引き受けたからである。するとたちまちそれは詩に変わる。苦労はこの「能動的転回」にある。それはコペルニクス転回という意味での転回であって、打ち続く苦労がそれを可能にしたわけではまったくない。ときおり例外的に生じる事例、言い換えれば通例からの逸脱による例外、というより遥かに特異的というべき次元において生じるコペルニクス的転回が生じたからである。だから少年時代の苦労が大人になって大きな肥料になったという意味では全然ない。キュラフロワのような転回はほとんど多くの場合、誰もが避けたがる次元において生じた宗教用語でいう「奇蹟」のようなものだ。

「キュラフロワは悲惨な運命をもったし、そのせいで彼の人生はあれらの秘密の行為によって構成されたのだが、それらの行為はそれぞれが本質におけるひとつの詩なのである、ちょうどバリ島の踊り子の指の微妙な動きが世界を揺り動かすことのできるひとつの記号であるように、なぜならその記号は、その多くの意味が明かし得ないものであるひとつの世界から生じているから」(ジュネ「花のノートルダム・P.346~347」河出文庫)

したがってジュネの小説は所詮「オナニスト」のマスターベーションに過ぎないと一蹴されてしまうのが常なのだ。日常生活を詩に変えて食べていくことはできない。それこそ幻想でしかない。作品前半で少しばかり記述されているようにディヴィーヌ(彼女)になってからも周囲から浴びせかけられる誹謗中傷や揶揄に対して男性特有の野太い声に帰り、それこそジュネたちの世界ではどこでも見られる「どす」の効いたごろつき特有の態度で自分が何者であるかを見せつけて周囲を震え上がらせてやることも可能だった。しかしディヴィーヌは何度も繰り返しそれをこらえてきた。キュラフロワ(彼)は二十年をかけてこの試練を自分に課すことでようやくディヴィーヌ(彼女)として変身することができたのであって、もし途中でごろつき特有のこわもてな面貌を表面化させていたとしたらキュラフロワは遂にディヴィーヌとしてパリの街路に登場し有名な同性愛者として君臨することはできなかったに違いない。タイトルはなるほど「花のノートルダム」であるけれども内実は「ディヴィーヌ記」である。本文中には何度か「ディヴィーヌ記」と題された数行が差し挟まれて出てくる。ゆえに、すべてはジュネの創作であり、ディヴィーヌは、したがってそもそもキュラフロワという少年は実は一度も存在したことがない。キュラフロワ(彼)とはジュネ自身の想像力に満ちた少年時代の別名であり同時にディヴィーヌ(彼女)はジュネ自身が大人になって梃子(てこ)でも動かぬ「泥棒、裏切り者、性倒錯者」へと華麗な変身を果たした後に創作された、もしかしたらあったかもしれないし、また実際そのように振舞うことが少なくなかったジュネの分身の記録である。だからこそ汚辱と悲惨とで矛盾だらけの前半生について、たまたま持ち合わせることになった言語的怪物的想像力あるいは創造力によるコペルニクス的転回を自分自身の日常生活において実現させ、稀に見る瞠目すべき詩(ポエジー)へと変貌させ、ただ単なる詩文ではない《生きられた》詩(ポエジー)へと転倒させることができた。その意味ではなるほど二十年のどん底生活は無駄ではなかったと言える。しかし払った代償に見合うような後半生であったとは決して言えない。釣り合っていないしそもそも釣り合わない。にもかかわらずその後半生が正当性を帯びてそびえ立つことができるのはそのような打ち続いた汚辱的否定的人生がジュネによって注意深く慎重この上なく用いられる言語の巧妙精緻を極めた倒錯的活用によって丸ごと肯定された瞬間においてのみである。

「キュラフロワはディヴィーヌになった。したがって彼は、もっぱら彼のためだけに書かれた、その鍵をもたない者には誰であれ難解なひとつの詩だった」(ジュネ「花のノートルダム・P.347」河出文庫)

そこで始めて花のノートルダムという登場人物がなぜ必要とされたのかも理解できる。キュラフロワ(彼)をディヴィーヌ(彼女)でありたいと決定づけるには是非とも最高に美しい年少の殺人者が必要だったし、ともすればついついキュラフロワ(彼)時代の怪物的幻想世界へ舞い戻ってしまっていたずらに時間を無駄にしてしまうことがしばしばだったディヴィーヌにとってノートルダムはディヴィーヌをいつもディヴィーヌたらしめておくための舞台装置として不可欠な殺人者、血も涙も持ち合わせない本物の若年殺人者として用意されたのである。

「葬儀」における《女中》ジュリエット。「ブレストの乱暴者」における《淫売屋の女将》リジアーヌ。「花のノートルダム」における《男性同性愛者の女方》ディヴィーヌ。そして「泥棒日記」における作者であり同時に《泥棒、裏切り者、性倒錯者》として書くジュネ。これら《異形者》の不意打ちによって始めてジュネの諸作品は総括される余地を与えられ、彼らによってのみ総括は果たされる。彼らはニーチェのいう《距離の感じ》を無意識の裡に受け持たされている。しかし彼らにそれを受け持たせるのは作者ではない。作者ジュネが社会の中で置かれた位置から見るかぎりで、無意識の裡に彼ら《異形者》がいつも《距離の感じ》とともに取らざるを得ない社会的布置によって総括はようやく可能になるのである。ニーチェはいう。

「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)

マルクス=エンゲルスもまた同じことを語っている。

「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)

ジュネ作品の総括部分、とりわけ「花のノートルダム」では総括というより「総括《者》」が問題になると述べておいたのはそういう意味だ。ところでついでながら、これらのことは二〇二〇年前半期を通過中の日本にも当てはまるに違いない、と言っておくのは必ずしも無駄ではないだろう。
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さて、アルトー。翻訳で「鉢巻」と訳されているのは正しい。だが「髪型」として考えたほうが理解しやすくまた一九九〇年代以降の世界では加速的に共通性を帯びてきた事情によってあえて「髪型」として述べてきた。一方でネット社会実現、他方で年中行事という形式へ封じ込まれ形骸化した古代儀式のシミュラクル(模倣、見せかけ)として考えるしかもはや方法を失った現代社会の場合には特に。次の報告は民族創世神話の例に漏れない。結局のところカオスから生じたとしか言えないのだが、カオスから生じたということは言えるからである。

「タラウマラの種族が、あるときは白あるときは赤の鉢巻をするのは、二つの対立する力の二重性を肯定するためではない、それはむしろタラウマラの種族の《内部には》自然の<雄>と<雌>が同時に存在し、彼らはこれらの合体した力から恩恵を得ているということを示している」(アルトー『タラウマラ・P.109~110』河出文庫)

アルトーのいう「自然の<雄>と<雌>が同時に存在し」、という記述。自然界の受精とは違い、人間の場合はやや事情が異なる。ただ単なる男女の性行為ではないのだ。人間の男女の性行為が言いたいのならその前に人間の目で観察済みの「蘭と雀蜂と」が果たす花粉の受精という目に見える事実だけでこと足りる。むしろそちらの側が神秘的にさえ思える。だがなぜ人間の場合は異なった記述を欲するようになったのだろうか。必要性に迫られ、いまこのときも常に迫られていなくてはならなくなったのだろうか。動植物と人間とは違うからというイデオロギーが先にあったわけではないのである。そうではなくて、どういうことかというと、ドゥルーズとガタリがスピノザにならって述べたように人間の場合、問題は「緯度と経度」になるほかないからである。人間は<ものそのもの>を認識することはできない。古代人もまたそうだった。常に流動している諸力の運動を現行犯で捕らえることはできない。古代人はそんなこともわからないほど鈍感だったと考えるとすれば現代人の側こそさらに鈍感だというほかない。むしろ古代人はいつ何が自分たちの共同体を襲来するかわからないという不安感情を抱え持っており、共同体内部には絶えず緊張感がみなぎっていた。現代の数学とは異なった測量器で絶え間なく世界の事情を測量し注視しているのが常態だった。その反復性がいつも同じかどうかが問題だった。ところが近代社会の到来は事態を劇的に変えた。タラウマラ族が近代へ編入される以前は次のように言える。

「結局彼らはみずからの頭でみずからの哲学を支えており、この哲学は二つの相反する力の作用を、ほとんど神格化された均衡において結合している」(アルトー『タラウマラ・P.110』河出文庫)

しかし「結合」は解かれた。資本主義がやって来た。かび臭い「宗教」教義では途端にやっていけなくなった。古い宗教教義は「一即多」=「多即一」で済んだ。なにごとであれ年々歳々増大減少するものは予想の範囲内で増大減少していた。その意味ではなるほど安定していたと言える。ところが資本主義化されるやいなや世界各地の村落共同体は急速に「一即多」=「多即一」の原理は考古学博物館入りを余儀なくされた。「一と多」という対立をまったく越え出て脱コード化する世界が出現したからである。何が起こったか。

「問題は一と多ではない。一と多の対立をまったく超えてしまう融合状態の多様体こそが問題なのだ。実体的属性の形相的な多様性は、このようなものとして実体の存在論的な統一を達成する。同一の実体のもとにあるあらゆる属性の、またはあらゆる種類の強度の連続体。そして同一タイプまたは同一の属性のもとにある、一定種類の強度の連続体。あらゆる実体の、強度における連続体、さらにあらゆる強度の、実体における連続体。器官なき身体の、中断のない連続体。器官なき身体、内在性、内在的な極限。麻薬中毒者、マゾヒスト、分裂病者、恋人たちなど、すべての器官なき身体はスピノザをたたえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.316」河出文庫)

この中でアルトーのいう「器官なき身体」についてはこれまで何度も触れてきたし前回もだめ押しのように触れておいたのでもはや説明の必要もないだろう。問題は、ドゥルーズとガタリが述べたように近代資本主義が「ロシア革命」を「消化する」ことができたのは何によってかが東西冷戦の崩壊と同時にすっかり忘れ去られてしまったことにある。近代資本主義は旧ソ連との長い対抗のあいだに学んだ。それが公理系である。ところが冷戦崩壊とともに公理系まで放棄してしまうという横着をやらかした。資本主義がやらかしたのではけっしてない。資本主義の上に立つことができたと錯覚した馬鹿丸出しの資本家という人間である。資本家の苦しみは自業自得である。幼稚な想像力を制御することができず無制限に意識を拡張した夢見心地の資本家は、自分で自分自身のことを資本のただ単なる人格化に過ぎないということをすっかり忘れ去ってしまった。そのとき資本主義は神格化完了していたがゆえに鬼と化すこともまた可能であり実際鬼あるいは悪魔と化した。結局、神と悪魔あるいは鬼は同じものを別々の立場から見た歴史的制度の一つに過ぎない。すかさず変化して見えるというだけのことだ。陰翳豊かであるとも言える。それはそれとして資本主義は、人間などという横着な隷属者の側から馬鹿にされたことを本当に忘れたりするだろうか。今なお、むしろ日増しに、鬼の形相で自己破壊を加速化させていくばかりである。資本主義が「ロシア革命」を「消化する」ことができたのは創成期の資本主義が持ち合わせていなかった社会的医療福祉部門を資本主義自身が引き受けることによってだった。もう何度も言ってきたけれども、肝心の資本主義大手メーカーからしてやる気がないのなら言っていても仕方がない。しかしそのたびにドゥルーズとガタリによる「アンチ・オイディプス」はまたしても蘇ってくるほかないのである。一九八〇年代には学生時代のうちにとっとと消化しておくべき必須の書だった。今や日本では文庫化(河出文庫)もされているので是非なく、もっと速く、もっと高速で、繰り返し読み直さなくてはいけない。とはいえ読み直すには三種の神器ともいうべきマルクス、ニーチェ、フロイト理解が最低限必要なのだが素早い生徒らは中学高校生のうちにすでに繰り返し読み終えている。少なくとも平均的高校生レベルの読解力があれば簡単な作業だ。時間はかかるがそれでも夏休みが一回あれば終えることができる程度。ところが日本という村社会では、ネット社会にもかかわらず、依然として就職への過程があれこれとわざわざ捏造され詰め込まれていて最低限度の教養習得の妨害になっている。周囲の状況が許さないという事情を日本政府自身が政財官界を上げて作り上げてしまった。百年もかかってようやく「消化する」ことに成功した「ロシア革命」だったにもかかわらず、実態はただ単に「消化しました」という小学生の作文レベルでしかなかったのであり、その成果はすでにトイレですべて脱糞して流してしまいましたという事実が今になって丸裸にされている始末なのだ。日本には今なお形を変えた切腹の伝統がありありと残っているのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー152

2020年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネの詩論が述べられている部分。ポエジーとは何か。実にしばしば語られることだがジュネは恐らく難解に思われて敬遠されることへの不安から様々な語彙を動員して理解者を求めているかのようなのだ。

「ひとりの人間の偉大さは、ただ単に彼の能力や、彼の知性や、それが何であれ彼の天賦の才の作用ではない。それはまた諸々の状況からなっていて、それらの状況は自らにとって支えの役目を果たすために彼を選び取ったのである」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)

一人の人間が社会から或る種の才能を認められるとする。しかしそれはその人間が単独で手に入れたものだけで成立するわけではない。少なくとも二つある。内的条件と外的条件との二つである。周囲の人々あるいは社会自身の側から見れば、何らかの突出した才能を発揮する人間が出現した場合、それを本人の才能に基づいて賞賛することがほとんどである。ところが他方、そのときの外的諸条件、言い換えれば賞賛している側あるいは社会自身が本人を含んでいる以上、その人物の才能を創作し開花させたのはほかならなぬ外的諸条件の側でもある。ジュネは作品「花のノートルダム」において、このような機会に遭遇する人生を自分で自分自身に与えるとともに周囲の社会的環境から否定という形で与えられたことについて、二重化された「断絶の地点における出会い」であると考えており読者の側から見てそう思えることがもしあるとすれば「そのときそれは詩的である」と述べるのである。

「偉大な運命をもっているならば偉大であるが、この偉大さは、目に見える、測定できる大きさの領域にある。それは外から見た華麗さである。内側から見れば恐らく哀れなものだが、もしあなたたちにポエジーとは目に見えるものと見えないものとの断絶(というかむしろ断絶の地点における出会い)であると認めてもらえるならば、そのときそれは詩的である」(ジュネ「花のノートルダム・P.346」河出文庫)

言語表現はいつも作者を裏切るようにできている。それは或る種の詩を出現させると同時に一方で大変多くの他のものを覆い隠してしまうからである。作者は創作する側なのでいつもその事情について敏感にならざるを得ない。とりわけジュネのような書き手が小説に取り組んでみると思いのほか途切れることなく延々と引き続いていってしまうものだ。誤解を避けようとすればするほど文章は細かく文節されどこまでも長々と深くなる傾斜の縁ばかりをどんどん下っていく。この傾斜をもっと詳細に理解されるよう努力すればするほどかえって難解で長大な深淵の縁をぐるぐる廻り続けるといった悪循環へおちいってしまう。求めていた理解はなぜか急速に遠ざかることになるという逆説を出現させる。下っていくことを上がっていくという言葉へ置き換えてみても事情が変わるわけではない。言語はそもそも発明されるやいなやそのようなものとしてしか機能しないようにできている。ところが作者の内的な作業と社会的な外的諸条件とが「断絶の地点における出会い」という形を取ったとき、それは「詩」として出現することができる。ただそれがまさしく「詩」だと認識された瞬間、すでに両者の「断絶の地点における出会い」は一瞬の閃光として瞬発した後なのだ。ジュネはそれをポエジーと呼び、だからいつも瞬間における郷愁(ノスタルジー)としてしか出現することのないものへの愛しみを伴うかのような深い慈愛の情を滲ませた文体でのみ、それ(詩)は作品として描かれるという事情について述べることをしばしば繰り返すのである。ところで残されているのは作業はほとんどない。総括を残すばかりである。次が最後だ。「葬儀」、「ブレストの乱暴者」、「泥棒日記」といった代表作において共通している総括。それは個々の小説はばらばらなのだが総括というより総括者の質的一致において現れる。
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さて、アルトー。タラウマラ族について歌うことに忙しい。というのもアルトーはタラウマラへの旅を通して、さらに彼らの儀式に参加して、半分はタラウマラへ変化したからである。この事情は悲劇ではない。しかし喜劇ではなおさらない。身体の半分をタラウマラへ変化させたアルトーが語っている。アルトーの手がそう書かせるからだ。

「タラウマラ族が文明を持たないなどというのは嘘である。人はそのとき文明というものを単なる肉体的安逸、物質的便利さに還元しているが、タラウマラの種族はいつもこうしたことを軽蔑してきた」(アルトー『タラウマラ・P.106』河出文庫)

次に「観念の高度な生」という表現が出てくる。それは難解なものではない。「神の裁きと訣別するため」について述べられていることの最初の反復というべきだろう。生まれながらの俗世間の身体からの脱有機体運動というべき「器官なき身体」。強度しか残されていないが強度なしには動きもしないしとりわけ動くことはできない絶え間なく流動する力のことだ。アルトーは「観念」と呼ぶのでわかりにくいのだが。器官というものはそもそもばらばらであって死の別名でしかないが、流動する力と合体することで目に見える身体は様々な身振り仕ぐさを演じることができる。そこからあえて「文明」の名で枷を科された束縛に等しい器官をさらに振るい落とす作業に相当する脱有機体化を目指す。

「真実なのは、タラウマラ族が自分の肉体の生を軽蔑し、もっぱら彼らの観念によって生きているということである。彼らはこれらの観念の高度な生と、たえまない、ほとんど魔術的な交信状態にある、と私は言いたい」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)

タラウマラ族の集落について少しばかり記述がある。

「タラウマラのそれぞれの村の入り口にはまず十字架があり、山の四方位に立つ十字架で囲まれている。これはキリスト教の十字架、カトリックの十字架ではなく、空間に分散した<人>の、両腕を開いた不可視の、四方位に釘付けされた<人>の十字架なのである」(アルトー『タラウマラ・P.107』河出文庫)

広い意味ではタラウマラの山脈全体がこのような記号で処理され得るものとして古代から連綿と定義づけられているのだが。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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