白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義8

2020年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム
罪という点でゴッホは何か刑罰の対象となるようなことをしただろうか。何一つしていない。絵を描いただけのことだ。

「いかなる罪とも別のものであるヴァン・ゴッホの身体は、同様に狂気ともまた別のものであったのだ、もっともただ罪のみが狂気をもたらすのであるが」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114~115』河出文庫)

ゴッホは罪の意識に苛まれていた。人一倍「良心の疚(やま)しさ」を重く受け止めてしまう感性の多様性が一つの身体になって歩いているようなものだ。しかし「良心の疚(やま)しさ」を発明したのはゴッホではない。

「内面化され自己自身の内へ逐い戻された動物人間のあの自己呵責への意志、あの内攻した残忍性である。飼い馴らすために『国家』のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲の《より自然的な》はけ口がふさがれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚(やま)しさを発案した、ーーー良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さとをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。《神》に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。彼は自分に固有の除き切れない動物本能に対して見出しうるかぎりの究極の反対物を『神』のうちに据える。彼はこの動物本能を神に対する負い目として(「主」・「父」・世界の始祖や太初に対する敵意、反逆、不逞として)解釈する。彼は『神』と『悪魔』との矛盾の間に自分自らを挟む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、神の神聖として、神の審判として、神の処刑として、彼岸として、永遠として、果てしなき苛責として、地獄として、量り知ることのできない罰および罪として、自分自らのうちから投げ出す。それは精神的残忍における一種の意志錯乱であって、全く他にその比類を見ることのできないものである。すなわち、それは自分自身を到底救われがたい極悪非道のものと見ようとする人間の《意志》であり、自分の受ける刑罰は常に罪過を償(つぐな)うに足りないと考えようとする人間の《意志》であり、『固定観念』のこの迷路から一挙にして脱出するために事物の最奥に罪と罰の問題の害毒を感染させようとする人間の《意志》であり、一つの理想ーーー『聖なる神』という理想ーーーを樹てて、その面前で自分の絶対的無価値を手に取る如く確かめようとする人間の《意志》である。おお、この錯乱した痛ましい人間獣の上に禍あれ!この人間獣が《行為の野獣》たることを少しでも妨げられるとき、奴は何を思いつくことか!どんな途轍(とてつ)もないことが、どんな乱心の発作が、どんな《観念の野獣性》がただちに勃発することか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.109~110」岩波文庫)

逆にゴッホはそれに従順にしたがい過ぎた。「良心の疚(やま)しさ」を発明した宗教とその蔓延が成立させた社会環境による犠牲者だった。アルトーはいう。

「私はカトリックな罪を信じないが、しかしエロティックな罪は信じており、まさに地上のすべての天才たち、精神病院の本物の精神病者たちは、それに対して警戒を怠らなかったのである、さもなければ、彼らは(真正な意味での)精神病者ではなかったということなのだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.115』河出文庫)

タラウマラ族の儀式(シグリ)の効果が思い出されないだろうか。ペヨトル摂取以前、人間の意識は実にしばしば「非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまう」。

「意識はとりわけ自分という存在がどこまで行くか、どこまでまだ《達していない》か、《どこまでは行く権利を持たないか知っている。さもなければ非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまう》」(アルトー『タラウマラ・P.41』河出文庫)

ところがペヨトル摂取方法をわきまえた上級使用者であるタラウマラ族の司祭の場合、そんなことにはならない。

「意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となる」(アルトー『タラウマラ・P.43』河出文庫)

ゴッホの場合「<悪>」は、社会規範の側から、社会規範として、やって来た。それは「良心の疚(やま)しさ」といういかにも敬虔な態度をとって社会的正当性の側に立ち、社会的正当性の名において公然たる暴力を振るう。ゴッホはその敬虔さのあまりダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)に遭う。アルトーの論旨によれば、ゴッホは社会規範によってダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)に遭わされた、自殺へ追い込まれた、ということになる。その意味でアルトーはまったく正しい。しかし問題は、当時の社会規範こそがゴッホを自殺に追い込んだにもかかわらず、なぜか社会規範が罪に問われたことは一度もない、という奇妙な点である。そして百年以上経ち、当時の社会規範ではもうなくなったにもかかわらず、依然として社会規範が罪に問われることは今なお《ない》という現状は確実に《ある》というなお一層奇怪な社会が罪に問われていないという点だろうとおもわれる。犯罪者の場合、犯罪を現行犯で捕らえることができないため、犯罪でなく犯罪者に刑罰が与えられることになっている。そのような前提からして司法はおかしな構造を採用しているわけだが、それならそれで、社会規範を現行犯で捕らえることができない場合、社会規範の創設者が処罰されないのはますますおかしな身振り仕ぐさではないだろうか。誰もそこにある不思議なものを不思議に思わなくなっている。

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)

それほど習慣化の作用は強力だ。数千年もかけて遂行されてきた事業である。さらに資本主義はその作業をたった二〇〇年ほどで成し遂げた。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義7

2020年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホが生きていた時代。一八五三年(嘉永六年)〜一八九〇年(明治二三年)。当時のフランス国家-社会の階級主義的整流器は二つの機関によって集中的に代表されていた。第一に警察機構であり第二に精神医学である。差し当たりアルトーが問題とするのは精神科医である。警察が用いるのはあからさまに目に見える暴力だが精神科医が用いるのはいともやさしげに見える言葉である。暴力という点ではどちらも共通しているが後者の場合、目に見えているのは「やさしげな言葉」であって、そのぶん、よりいっそう狡猾に機能する。次の箇所では性行為が問題とされている。

「性交の際にあなたがご存じの何らかのやり方で、声門から雌鳥のようなコッコという声を出してもらえなかったのであれば、そして同時に咽頭と食道と尿道と肛門からごぼごぼと音を立ててもらえなかったのであれば、あなたは自分が満足していると明言することはできない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.113~114』河出文庫)

同性愛を含む性行為が問題視され、取り締まりの対象として公然と取り扱われ出したのは近代社会に入ってからのことだ。もっとも、キリスト教保守派は長いあいだ、それを「呪われたもの」として弾劾し続けてはきた。ところが一方、古代ギリシア以来のヨーロッパの伝統として同性愛を含む性行為はまた暗黙の裡に了解されてもいた。キリスト教の教義に則って「祝福」されない同性愛を含む性行為が精神病院送りの対象となったのは古代からすれば意想外に最近のことだ。それはヨーロッパ近代社会の成立とともに始まる。次の文章はアルトーが性行為についてさらに述べた箇所だが弾劾する調子が高まっている。

「そしてあなたの内的器官のびくっとする身震いのうちには、あなたが身につけたある癖があり、それは汚らわしい破廉恥行為の受肉した証拠であって、しかもあなたはその癖を年毎にますます培っている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)

アルトーに言わせれば「汚らわしい破廉恥行為」を連日連夜行なっているのはほかでもないキリスト教徒で溢れかえっている市民社会の側であってキリスト教徒としてのゴッホではない。むしろ実際のゴッホは市民社会の「破廉恥ぶり」と比較すれば比較にならないほど極めて禁欲的であった。しかしゴッホの絵画は違うのである。性行為が問題とされているのは、精神医学を用いて国家-社会が封じ込めようとした或る「破廉恥」、社会的な意味で見せてはならないものをゴッホの絵画は丸見えにさせていたからである。ゴッホの絵画は絵画の側から高度の次元で社会的有機体とは何かという問いを問いかける。社会的自明性を問いに掛ける。さらにその問いを加速的に推し進める。それは一般的な性行為とは何の関係もない。ところが慌てた警察-精神医学は、この危険な「問いかけ」の加速化を阻止し市民社会との接触を切断するためゴッホを精神病院送りにして問題を異常性愛という人為的に創設された次元へ閉じ込めてしまった。

「なぜなら、社会的に言ってそれは法に触れるものではないからであるが、しかしそれはもうひとつ別の法の罰を受ける立場にあり、そこで苦しんでいるのは傷ついた意識全体なのである、なぜならそんな風に振る舞うことによってあなたは意識が呼吸するのを妨げているからだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.114』河出文庫)

アルトーは「もうひとつ別の法の罰」という。それが「神の裁き」であり有機体としての身体への閉じ込めである。有機体というのは何も個々人の身体だけを指すのではない。それ以前に国家-社会体としての有機体が前提されていなくてはならない。その部分的構成要素として個々人の身体のあり方が決定されてくるのであって、その逆ではけっしてない。フーコーから二箇所引いておこう。第一に「獣性」について。近代社会成立以降の監禁社会において、見た目の「獣性」は移動するし実際に移動したという転倒について。

「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)

というように、「狂人」が持ち合わせていると考えられてきた「獣性」というものは「狂人」を監禁するやいなや監禁した側でなく監禁された側の《身体において》ただ単に「そう見える」という形でしか出現しない。その瞬間、「狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した」わけである。と同時に監禁した側の「獣性」は覆い隠されてしまう。監禁というたった一つの動作は施されるやいなや二重の意味を出現させる。「狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである」という意味で。ところが監禁における狂気は出現するにもかかわらずその二重性ゆえに監禁する側の「獣性」はたちまち覆い隠されてしまうのである。ドストエフスキー参照。

「フランス人が、いまから二世紀ほど前に、自分の国の最初の気違い病院を建てたとき、『あの連中は自分たちこそ利口な人間であると自分に納得させるために、その国の馬鹿な人間をひとり残らず特別な建物に閉じ込めてしまったのだ』と言ったという、スペイン人がフランス人を皮肉った言葉が思い出される。まさにそのとおりで、いくらほかの人間を気違い病院に閉じ込めたところで、自分の賢さを証明することにはならないのである。『Kが気違いになった、するとつまり、いまではわれわれは賢い人間ということになる』どういたしまして、すぐにそういうことにはならないのである」(ドストエフスキー「作家の日記1・P.124」」ちくま学芸文庫)

さらにパスカル参照。

「人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである」(パスカル「パンセ・四一四・P.255」中公文庫)

第二に監禁の非人道性から病人を解放したフロイトという名の機能について。

「十九世紀の精神医学全体が実際にフロイトという一点へ集中する。彼こそ、医師-病人の組み合せの現実をまじめに受けいれた最初の人であり、その現実から自分の視線と研究とをそらせないことに同意し、その現実を多少とも他の医学的認識と釣合いを保っている一つの精神医学理論のなかに隠そうと努めなかった最初の人、この現実のもたらす結論をきわめて厳密にたどってきた最初の人である。フロイトは、保護院の他のすべての構造の欺瞞を解いた。すなわち、例の沈黙と視線をなくしてしまい、自分自身の光景をうつす鏡のなかでの、狂気じたいによる狂気の認識をやめさせ、有罪宣告をおこなう審判を中止させた。だがそのかわりに、医学的人間をつつむ構造を充分に活用して、その人間の魔術師としての力を増加し、その全能の力にほとんど神のごとき地位をあたえた。この医学的人間のうえに、つまり、完全な現存であるのに不在という形をとって、病人のかげで、そして病人のうえに目をつかむようにしているこの唯一の現存のうえに彼が移しかえたのは、狂人保護院の集団生活のなかにばらばらに区分けされてきた、すべての力であった。彼はそれらを、絶対的な<視線>、純粋でいつも表に出さぬ<沈黙>、言語活動にまで達しない審判によって罰し償う<審判者>に化した。彼はそうした力を鏡、そこでは狂気がほとんど不動の動きのなかで自分に夢中となり、そして自分から離れる鏡と化した。ピネルとテュークが監禁のなかで模様替えしてしまったすべての構造を、フロイトは医師のほうへ移動させたのである。彼ら《解放者たち》が実は病人を疎外してきた保護院の生活から、フロイトは病人を解きはなった。とはいっても、この生活のなかにあった根本的なものから解きはなったのではない。彼はその生活のさまざまの力を集めなおし、それらを最大限に緊張させて、医師の手のなかで結びあわせた。彼は精神分析という状況をつくりだしたのであり、そこでは天才的な一種の短絡的手段によって、錯乱(=疎外)がその解消になるのである。なぜなら、医師において、それは主体となるのだから」(フーコー「狂気の歴史・P.530」新潮社)

フロイトは病者が語ろうとする散り散りばらばらな言語的破片を「結びあわせ」、或る種のモンタージュ(奇妙な合成物)を捏造する。言語化する。言語化なしに「治療」は不可能とされる。この場合問題となっている「治療」とは何か。国家-社会からの要請としての再領土化あるいは国家-社会が精神医学を用いて施す精神的整形手術であるといえる。というのも、言語化するのは病者ではなく、その目の前にいる精神医学者だからである。病者自身の言語は奪われてしまう。病者の振る舞いを押しのけ置き換え上に立ち、今度は精神医学者が病者の主体として語る。病者は《病者自身において》ではなく目の前にいる《医師において》主体化される。病者のすべての振る舞いは国家-社会から派遣された精神医学者が用いる言語によって別物へと変換されて始めて社会的承認を得るほかなくなる。ニーチェ、ゴッホ、アルトーらが生きた時代の精神医学はそのような役割を与えられた国家-社会の権力装置として機能していた。なぜそういうことが可能なのか。或る商品の価値は他の商品の《身体において》始めて出現することができるという不可避的事情を参照しなくてはわからない。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

というふうに。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義6

2020年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホの絵画はニーチェのいう「別様の感じ方」をした人間によって描かれたものだ。それは他の様々な意味で突出した芸術家の作品同様、社会の側から「手ひどい」攻撃にさらされる。というのも、「別様の感じ方」をした人間によるあらゆる作品は、最初、社会の側に「手ひどい混乱を与える」からである。ゴッホはしばしば精神的不調に苦悩する人間の一人ではあったもののアルトーのいうように「狂人ではなかった」ということができる。

「ヴァン・ゴッホは狂人ではなかった、だが彼の絵画はギリシアの火炎砲、原子爆弾であって、そのヴィジョンのアングルは、当時のさばっていた他のすべての絵画に比べて、第二帝政期のブルジョワジー、ならびにナポレオン三世のそれと同じく、ティエールやガンベッタやフェリックス・フォールのごろつきどもの芽生えたばかりの順応主義に手ひどい混乱を与えることができるようなものだった」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

しかしゴッホにすれば、そう見えるものをその通りに描かずにはおれないし、ただそう思う通りに描いたに過ぎないわけだが。極めて自然に振る舞った。しかし社会の側はゴッホに何かを見抜かれたと感じた。ゴッホの絵画は社会風刺ではまったくない。社会を攻撃しようとしたわけではなおさらない。ゴッホは書簡の中でこう書いている。

「ミレーの複製を送ってくれてとてもうれしかった。熱心に製作中だ。芸術的なものを見ないと、僕はたるんでしまう、元気が出た。《夜なべ》を仕上げ、《土を掘る人》、《上着をきる男》はいずれも三十号画布だが、《種まき》はもっと小さい。《夜なべ》は紫色と柔らかいリラ色の色調だし、薄いレモン色のランプの光、それにオレンジ色の炎と、赤茶色(オークル・ルージュ)の男がいる。君にも見せたい。ミレーの素描から油絵にするのは、模写するというよりも他国の言葉に翻訳するようだ」(「ゴッホの手紙・下・P.216」岩波文庫)

ミレー「種まく人」は多くの人々に親しまれている。ゴッホもまた何度もミレー「種まく人」を模写し「油絵」に置き換えて反復している。しかし素材は同じでもミレーのそれは社会に容易に受け入れられていた一方、ゴッホのそれは誹謗中傷を浴びた。なぜだろう。

「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

しかしミレー「種まく人」が「体制の順応主義」に沿ったものだったわけではない。国家の許容範囲の内部に収まった、創成期の資本主義によって回収可能だったからである。ところがゴッホの場合、国家-社会はもとより、資本主義にとってはまだまだ回収不可能な領域を丸見えに晒してしまっていた。ゴッホ作品の中で何かを攻撃しようとして描かれたものなど一つもない。しかし一般大衆はともかく、国家-社会の側からみると、アルトーのいうように「体制の順応主義そのもの」を攻撃しているかのように映って見えた。ゴッホは社会の無理解に困惑した。

ゴッホの動作には二つの理由が認められる。第一に、ミレーやゴーギャンにはなるほどそう見えるかもしれない。だが自分には「別様に見える」という身振り仕ぐさ。この身振り仕ぐさは《他者》のものだ。国家-社会の側がゴッホの絵画を認めなかったのはゴッホの絵画が見えなかったからではなく逆に或る《他者性》を見たからである。当時のヨーロッパ中心主義から見れば明らかに危険なもの、アルトーの言葉にしたがえば「ギリシアの火炎砲」、「原子爆弾」に見えた。第二に、ゴッホが書簡で述べるのではなく、ゴッホの絵画を見る側に向けて、絵画が絵画自身で語りかけてくることだ。たとえば有名な「アルルの寝室」。ゴッホにはこう見える、だからこう描かれたというだけではない。むしろゴッホはこうであろうと《欲する》がゆえにこう描いた。ゴッホは知らず知らずのうちに絵画の世界に《欲望》を導入し《生産》したのだ。ゆがんで見えると人はいうかもしれない。そんなことは承知の上でこう描くことを欲した。ミレー「種まく人」は風景として受動的な態度に立って描かれているように見える。それを模写したゴッホ「種まく人」はミレーのただ単なるレプリカではなく能動的模写である。だからデジャヴュはあるものの、全然別ものに仕上がっている。ただそれだけのことに過ぎない。しかし国家-社会の側はこの、「ただそれだけ」であっても確実にそこにある《他者性》に関して我慢ならなかった。異端者には容赦のない社会だったというより、当時の国家-社会というものはそもそも、異端者に出くわすやいなや容赦のない迫害者へと急変し団結する。

「そして外部の自然でさえも、その気候風土、その潮汐、そしてその彼岸嵐ともども、ヴァン・ゴッホが地上を通過した後では、もはや同じ引力を保つことはできない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)

そうアルトーは述べる。事実、その通りだとしよう。するとゴッホの絵画は欲望する諸機械の部分として極めて資本主義的な流れを形づくってはいないだろうか。流動してはいないだろうか。あちこちアナーキーな部分だらけであるがゆえにそのアナーキーをこそ自分の動力として見る者を次々と直撃し打ち倒しいつまでも吹き荒れる暴風あるいは稲妻のようではなかろうか。資本の人格化としての資本家が、ではなく、資本主義は一方でアナーキー(無政府性)しか知らないし、ところが他方でアナーキー(無政府的)なものの奇妙な統一性であるように。ゴッホは社会とかその構造を対象化しようとしたことなど一度もない。ところがゴッホは欲望の生産に成功した。その自画像は解体している、少なくとも歪んでいる、と言われる。それはゴッホがそう《欲した》からにほかならない。解体せずして再び循環し回帰することはできない。だからといってゴッホが永遠回帰を願ったなどと考えるとしたらそれもまた勘違いなのだ。ゴッホの絵画は欲望を導入しそれを生産再生産していく諸力の運動であり同時に実践である。ゴッホは引き裂かれたのではなく引き裂いた冒険者の中の一人であり、その意味で歴史的人物だといえる。引き裂いたがゆえに引き裂かれた人々の中の一人なのだ。だから民主主義はいつも後になって、少し遅れてやって来る。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義5

2020年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム
そう簡単に阿片が手に入らなくなるとそれまでは第二、第三の選択肢だったマリファナが俄然注目を浴びるようになったのは自然の経過だった。阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)の場合よりも気分を爽快にし、阿片抽出物(モルヒネ、ヘロイン、コデイン)の場合よりも実にしばしばアッパー系効果あるいは意識変容効果を長時間維持できるからである。今のような資本主義の世界化ならびに世界的流通網出現にともなう多彩な合成麻薬の同時多発的出現以前の状況についてはそのように単純化して述べることができる。なお、かつてコクトーは阿片について、アルトーが植物(ペヨトル)として語ること、植物(ペヨトル)に《なる》とはどういうことかを述べたように、植物としての阿片に《なる》とはどういうことかを次のように語っている。二箇所見てみよう。どちらも「別種なスピード」について述べられている。ニーチェ流にいえば「別様の感じ方」について語っている。第一はアルトーが言っていることと変わらない。

「阿片は、僕等に植物の生活を感知させる唯一の植物質だ。阿片によって、僕等は、草木のあの別種なスピードを、おぼろげながら知ることが出来る」(コクトー「阿片・P.100」角川文庫)

第二は精神と身体との解離について。

「普通人。ーーーのらりくらりしている阿片喫煙者(あへんのみ)よ、何故そんな生活をしているのか。一層(いっそ)窓から身を投げて、死んだ方が増しではないか。

阿片喫煙者。ーーー駄目、僕は浮くから。

普通人。ーーーいきなり君の身体(からだ)は地べたへ落ちるから大丈夫死ねるよ。

阿片喫煙者。ーーー身体のあとから、ゆっくり僕は地べたへ行く筈だ」(コクトー「阿片・P.102」角川文庫)

しかし問題は、精神と身体との解離ではない。コクトーの文章が二項対立という対話形式を採用していることにある。一方に「阿片喫煙者」を置いており、他方に「普通人」を置いている。「阿片喫煙者」と書くのは正しい。だからといって、もう一方に「普通人」と書いてしまうやいなや「普通人とは何か」という問いがいきなり出現する。「非-阿片喫煙者」あるいは「非-阿片喫煙状態」なら対立する両項として述べることに問題はないものの「普通人」と言ってしまうとそれは必ずしも対立する両項でないにもかかわらず、あたかも対立する両項として述べることができるかのような錯覚が生じる。しかし読者はその記述について錯覚であるとは気づかないまま違和感を感じることなく読んでしまう。「普通人とは何か」という前提の検証がなされていないという致命的状況を前提にするという殺人的誤解が犯されているにもかかわらず何らの間違いもないと思い込まれたまま読み流し飲み込んで了解してしまう。「普通人」とは何か。たとえばゴッホは「普通人」なのかそれとも精神病者なのか。タラウマラ族の儀式を経験し、ペヨトルのダンスと化し、植物(ペヨトル)としての身振り仕ぐさを通過したアルトーは、ヴァン・ゴッホについて次のように述べることができる。

「どれほどこの主張が気違いじみたものに見え得るとしても、こんな風に淫蕩、無政府状態、無秩序、妄想、乱脈、慢性の狂気、ブルジョワ的無気力、精神異常(というのも一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方であるからだ)、意図的な不誠実ととてつもない偽善、すぐれた素性を示す一切のものに対する卑しい軽蔑、まるまるすべてが原初の不正の遂行に基づいたひとつの秩序の要求、最後に、組織化された犯罪、等々からなるその古色蒼然たる雰囲気のなかで、現在の生は維持されている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.110~111』河出文庫)

ゴッホの絵画は何も言わないがそれを見る側の《人間について》次の事情を単刀直入に伝達する。「一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方である」と。「病んだ意識」と名指された社会の側はこう考えた。

「そいつは都合が悪い、なぜなら病んだ意識は、いまこのとき自分の病気から抜け出さない方がはるかに得だからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.111』河出文庫)

だから社会の側はゴッホの絵画を次々と買い取り美術館の中へ閉じ込めてしまうことにした。ゴッホの絵画はその純粋性を奪われ、利潤を生んで資本へ還流する商品へと変換されてしまった。しかしこの操作は常に両義性を孕むことになる。商品として世界中を駆け巡ることでゴッホの絵画は一方で絵画という物でありながら、同時に他方で「一個の異常者になったのは人間ではなく世界の方である」と伝達することをやめられなくなったからである。あえて「伝達」と述べたのは次のことを踏まえてそう述べた。

「《機械時代の諸前提》。ーーー新聞や出版、機械、鉄道、電信は、それが千年先にもたらす結論をまだ誰ひとりあえて引き出そうとしたことのない諸前提(プレミス)である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・漂泊者とその影・二七八・P.465」ちくま学芸文庫)

まだ想定すら不可能な「千年先にもたらす結論」について差し当たりこれ以上踏み込んで語ることはできない。さらに同じ条件下の現時点で言えることは新型ウイルス問題についても当てはまる。日本では病院も保健所も検査体制が整わないまま、整えていなかったがゆえに、検査自体が事実上凍結されているというに等しい。感染者数の増大がほぼ見られないすべての報道は検査体制が整っていないことの十分な証明として機能している。一方、一挙に検査を進めたヨーロッパでは感染者数が飛躍的に増加した。検査を受けた人数が増加すれば感染者が増えていたことも同時に判明するのは当然の成り行きだ。ところが日本ではなぜか検査自体がほぼ凍結されたような状況であるため増えているのか減っているのか定かにできない。わからないとしか言えない。しかしこの奇妙な混乱の中で東京五輪だけは着々と推し進められている。不可解に思える。水際阻止に失敗したと発表したにもかかわらずなぜ東京五輪だけは安全だといえるのか。さらに原発検査体制も不十分なまま着々と稼働している。しかし同時に沖縄基地問題や北方領土問題や拉致問題は逆であって、さらなる闇の奥へ押し込まれ窒息させられようとしている。封じ込めるものと封じ込める必要性のないものとを「取り違える」可能性を帯びたまま推し進められる東京五輪。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

東西冷戦時代に資本主義が学んだ「常に種々の公理を付け加える用意」に関し、少なくとも日本はこの「用意」を怠ってきた。怠ってきたがゆえに検査体制は整わない。整わないので事実上凍結されたに等しい。だから少しづつ感染者数を発表していくほかない。この《あいだ》。事実上の凍結期間の《あいだ》に東京五輪は開催されようとしている。場所移動の《あいだ》に発生する価値〔意味〕の変化は時間的移動の《あいだ》に発生する価値〔意味〕の変化を伴う。場所移動自体が価値増殖装置として準備される。

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)

東京五輪と公理系(とりわけ社会的福祉部門)再構築とは今回、時間的に重なっている。同時進行する。どういうことか。

「資本は全体としては同じときに空間的に相並んで別々の段階にあるわけである。しかし、各部分は絶えず順々にすべての段階、すべての機能形態で機能して行く。すなわち、これらの形態は流動的な形態であって、それらの同時性はそれらの継起によって媒介されているのである。どの形態も他の形態のあとに続き、また他の形態に先行するのであって、ある一つの資本部分が一つの形態に帰ることは、別の資本部分が別の形態に帰ることを条件としている。どの部分も絶えずそれ自身の循環を描いているのであるが、この形態にあるのはいつでも資本の別々の一部分であって、これらの特殊な循環はただ総過程の同時的で継起的な緒契機をなしているだけである」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第四章・P.177~178」国民文庫)

資本主義は時間的な形態を空間的な形態へ置き換えることができる。日本では東京五輪が新型ウイルス問題の実態を覆い隠し、東京五輪修了と同時に新型ウイルス報道がさらに「沖縄基地問題」、「原発問題」、「北方領土問題」、「拉致問題」、「老後資金二〇〇〇万円問題」、「8050問題」、「定年延長問題」、またただ単なる「寿命」ではなく「健康寿命」が平均して二倍に増大したわけではまったくないにもかかわらずイギリスのごろつきに等しい女性経済学者が言い出した「人生百年時代」等々を覆い隠すことになるのだろう。少なくともそう考えておくのはけっして無駄ではない。一方で市民社会の側があらかじめ準備しておくのは政府の思い通りに事態の進行を促進することになるわけだが、他方、政府が蓄積している持ちこたられない諸問題を一気に押し付けられて市民社会の側が絶滅することをあらかじめ阻止することにも繋がる。「政府が蓄積している持ちこたられない諸問題」は今の日本型資本主義ではいつもと同様「破壊的に流れ落ちる」からである。

「人々は、諸激情そのものによってよりも、諸激情に関するおのれの諸意見によって、より多く苦しめられる。ーーー人間たちが、或る衝動の目的を、排便や排尿、栄養摂取等々のさいのように、〔生の〕保存のために必要だと明白にとらえない場合には、彼らは、その衝動を、たとえば、嫉妬や、憎悪や、恐怖の衝動を、余計なものとして《除去し》うると、信じている。そして厄介払いしえないことを彼らは、或る不正だと、少なくとも不幸だとみなすが、一方人々は飢えや渇きのさいにはそうは考え《ない》のだ。私たちはそうした衝動に私たちを《支配》させようとは思わないが、しかし私たちはそうした衝動を必要なものだととらえて、その力を私たちに有用なように支配しようと欲する。そのためには、私たちが、そうした衝動、水車を動かすのに利用される小川のように、その《全体的な、完全な》力のままには保存し《ない》ことが、必要である。そうした衝動のことを充分には心得ていない者の身の上には、冬季のあとで渓流が破壊的に流れ落ちてくるように、そうした衝動がどっと襲いかかるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三九四・P.202」ちくま学芸文庫)

というより、あたかも日本政府の側から市民社会に向かってそう脅しているようなものだ。政財界自身ではなくその代弁者らの言語がそれらの実態をいつも覆い隠す。

「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)

というふうに。けれども新型ウイルス感染者数はまったく発表されていないわけではない。日々、ほんの僅かづつ、発表される。なぜそうなのか。

「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)

ということなのだろうか。そうでないならどういうことなのだろうか。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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延長される民主主義4

2020年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ドゥルーズとガタリが麻薬の薦めを述べたことは一度もない。問題はどの薬物にしても、とりわけ現在の日本で違法とされている「ドラッグ」がかつて合法だった頃、アルトーが訪ね詩文へ変換して書き残したメキシコのタラウマラ族のような少数民族の伝統のように、生成変化である。

「運動、生成変化すなわち速さと遅さの純粋な関係、そして純粋な情動ーーーこれは知覚閾の手前か、その向こう側にある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.252」河出文庫)

とはいえ、「速さと遅さ」とはどういうことなのだろう。どのような知覚変容のことを取り上げて述べているのだろう。コクトーはこう述べた。

「すべてはスピードの問題だ(不動のスピードは即ちスピードそのものだ。《阿片》は即ち絹のスピードだ)。僕等のスピードと別なスピードを有し、僕等にとって、単に相対的不動性をしか示さない植物と、それ以上の相対的不動性を示す鉱物との次に位して、あまりにスピードが速い為、また遅(のろ)い為、僕等の眼にもとまらないさまざまな世界が始まる(喜望岬、天使、扇風機)」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)

しかしそれはいずれ、阿片なしに体感できるようになるだろうという。

「やがてシネマが、僕等の眼に見えないものを撮影して、見えるようにし、すでに今日花の身振りを僕等のリズムに置き換えて見せて呉(く)れたと同じく、それを僕等のリズムに置き換えて見せて呉れる日が来ることも不可能ではない」(コクトー「阿片・P.94」角川文庫)

実際、そんな時代が訪れた。映画という或る種の麻薬的装置の全盛期とともに。要するにニーチェ風にいうと、「別様の感じ方」で認識する方法の社会的規模での登場である。人々はただちに映画館へ殺到した。そこで次の事情に気づいた人間が居合わせていた。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

そして、なぜか世界はネット社会の実現と同時にこの映画的世界を再び欲するようになっている。とはいえ事情はまったく変わった。社会的条件が異なると映画だけでなく映画を見ている観客の認識の仕方も変わってくる。差し当たり最も大きな違いについて第一に述べておかないといけない。人間はスマートフォンの普及によって屋外へ外出しつつ閉じこもる方法を覚えたということ。外へ出たわけでない。むしろ見た目には外出しているかのように映って見えるぶん、なおいっそう「たちが悪い」と言わねばならない。また今日の午前中、NHK報道を見ていた。けれども想定外の展開などどこにもなかった。ただひたすら政府見解の代理装置として機能したに留まっていた。この異様な状況をどのように判断するかは今この時も市民社会の側、視聴者の側、有権者の側に委ねられている。しかし市民社会の情報は、インターネットによって世界化された情報産業社会では、常に漏洩する危険と共にでなければ動くこと一つできないということはすでに確かだ。だからカフカの時代に戻ったともいえる。こうして再び日本は、今度はNHK報道というフィルターを通して管理社会化の一端を垣間見ることができる。カフカはいう。

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)

まるでそのような具合なのだ。加速化しているのはトリップではなく、バッドトリップだと言われなくてはならないだろう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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