白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて26

2022年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。以前育てていた黒バラは工事のため撤去しました。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.20)

前回撮影は二〇二二年九月十七日。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。前日の九月十九日は台風十四号の接近に伴い半分近く開花しているピンク色のものをチェックしていました。近畿地方通過は夜中とのこと。未明まで風はまだ強く、どうなるか見守るほかなかったわけですが、夜が明けてみるとほぼ開花してくれていてほっとしました。撮影時刻は午前六時四十分頃です。しかし台風は再び上陸した模様。ですが花にはどれほどの暴風に襲われても容易に折れない柔軟性があるので、全国の花々に向けて応援の気持ちを込めたいと思います。なお、地球温暖化と並行して度重なる異常気象の連鎖については九月十九日のブログで触れました。

参考になれば幸いです。

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Blog21・プルーストが捉える<或る種の死>としての睡眠

2022年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>がラ・ラスプリエールから帰宅するのは多くの場合、夜遅く。そして睡眠に入る。「失われた時を求めて」では睡眠についての思考がたびたび挿入されているが、次の箇所で<私>は睡眠のことを指して「自分の住むアパルトマン」に対する「第二のアパルトマン」と捉えている。大変興味深い考察が連発される。「第二のアパルトマントに住まう種族は、最初の人類と同じく両性具有者(アンドロギュノス)である。そこでは男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる」。両性具有者(アンドロギュノス)でなければ一体人間はどこからどうやって生まれ出てきたのかさっぱりわからなくなるのは常識以前の前提として、夢の中で人間は「男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる」のは誰もがよく知っているありふれた現象。もしそれがなければ世界中に散らばる民族創造神話の多くは分類不可能になるほかない。だがより一層注意してみたいのは「睡眠中にながれる時間」。<私>はこう思考する。「ときには時間の流れがひときわ速まって、十五分がまる一日にも感じられる。ときにはその流れが一段と長くなって、ちょっとひと眠りしただけだと思っていても、まる一日眠っていたということもある」。

「この第二のアパルトマントに住まう種族は、最初の人類と同じく両性具有者(アンドロギュノス)である。そこでは男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる。眠っている人にとって、こうした睡眠中にながれる時間は、目覚めている人間の生活がくり広げられる時間とは根本的に異なる。ときには時間の流れがひときわ速まって、十五分がまる一日にも感じられる。ときにはその流れが一段と長くなって、ちょっとひと眠りしただけだと思っていても、まる一日眠っていたということもある。こうしてわれわれが睡眠の二輪馬車に乗せられて深淵へ降りてゆくと、もはや想い出はこの馬車には追いつけず、精神はその深淵の手前でひき返さざるをえない。睡眠の車につながれた馬は、太陽の車につながれた馬と同じで、もはやなにものも止めることのかなわぬ大気圏のなかを一定の足どりで進んでゆくので、われわれとは無縁な隕石のようなものが落ちてくるだけで(いかなる『未知の者』によって青空から投下されたのか?)、規則正しい睡眠はかき乱され(睡眠は、そうした邪魔がなければ歩みを止める理由はなく、いつまでも同じ動きでつづいてゆくだろう)、その歩みはいきなりねじ曲げられ、現実のほうへとひき戻され、生活に隣接するさまざまな地帯ーーー変形されていまだ茫漠としているとはいえすでに微かに感じられる生活のざわめきの音を、眠っている人が耳にする地帯ーーーを一足飛びに通りすぎたうえで、いきなり目覚めへと着地する」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.300~301」岩波文庫 二〇一五年)

様々な生活音を身体がだんだん感知するようになってしばらくさまよった後、「眠っている人が耳にする地帯ーーーを一足飛びに通りすぎたうえで、いきなり目覚めへと着地する」。言語化するばなるほどその通りだろう。だがプルーストがいつも問題にするのは次の箇所に描かれているような事情である。

「すると、そうした深い眠りから夜明けの光のなかに目覚めた人は、自分がだれなのかもわからない。それまで生きてきた過去が頭脳からそっくり消え失せ、自分が何者でもなく、真(ま)っ新(さら)な、なににでもなれる状態にあるからだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301」岩波文庫 二〇一五年)

人間は睡眠から目覚めた瞬間、自分で自分が何ものなのかを自分一人で証明することはできない、という深刻な事情についてだ。たった今生まれたばかりの乳児がいきなり口を開いて「自分は人間である」と言ったとすれば周囲はどう思うだろうか。マルクスはいう。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

さらにスピノザはいう。

「我々は例えばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの身体の状態を《より》多く示しており、したがってパウロの身体のこの状態が維持する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとって現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理十七・備考・P.121」岩波文庫 一九五一年)

それらを知った上でより一層思考を進めてプルーストはいうのだ。睡眠と覚醒とのほんの僅かな時間、「自分が何者でもなく、真(ま)っ新(さら)な、なににでもなれる状態にある」と。睡眠は或る種の死である。プルーストが言っていること。それは生きている時間の中に或る種の死というしかない切断が「睡眠」という言葉に置き換えられて差し挟まれている事情には疑いがないということでなければならない。だから次のように切断論的記述が続くのである。

「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)

自分という人間は覚醒以前は何だったか。睡眠前と睡眠中と覚醒後。その間、一貫してたった一つの人格にしか占有されていなかったと、一体どこの誰に言えるのか。「目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか」。

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

切断や再接続が不可能であれば歴史というものはどのように加工=変造することもできない。だが実際はどうか。数えきれないほどの切断や再接続が可能だからこそ歴史もまた様々に加工=変造でき、したがって捏造することが可能になるし、実際、あちこちのマスコミを通して捏造され続けている。

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Blog21・シャルリュスが見せる<ユクセル元帥への生成変化>

2022年09月19日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴェルデュラン夫人からオレンジエードを勧められたシャルリュス。その時の返事とともに出現した余りにも気取った身振り。「優雅な笑みをうかべ、しきりに口をとがらせ腰をくねらせて、氏にしてはめずらしく澄んだ声」。シャルリュスにしてみれば自分が同性愛者だということは秘密にしておきたい。だがプルーストはいう。「ある種の秘密の行為が、その秘密を暴露する話しかたや身振りとなって外にあらわれるのは、不思議というほかない」。

「するとシャルリュス氏は、優雅な笑みをうかべ、しきりに口をとがらせ腰をくねらせて、氏にしてはめずらしく澄んだ声でこう答えた、『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットというのでしょうか、とってもおいしいですね』。ある種の秘密の行為が、その秘密を暴露する話しかたや身振りとなって外にあらわれるのは、不思議というほかない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)

余りにも気取った身振り。それまでシャルリュスが同性愛者かどうかなどまるで気にもかけていなかった人々に「おや、氏は男が好きなのだ」と気づかせる絶好のきっかけを与える。

「その件にさえ触れなければ、その声にも動作にもその男の考えをうかがわせるものはいっさい見出せないだろう。ところがシャルリュス氏が、このような甲高い声で、このように微笑みながら手振りを交えて『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットが』と言うのを聞くと、『おや、氏は男が好きなのだ』と断定できるのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスの身振りは次々と意味内容を増殖させていく点でシャルリュスの用いる言語作用と大変似ている。

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

さらにシャルリュスの気取りについてプルーストは言っている。「ユクセル元帥を気取っていた」。

「大貴族であるとともに芸術の愛好家でもあるという特異な形におのが社交上の姿を融合していた氏は、自分と同じ社交界の人士がやるように礼儀正しく振る舞うのではなく、サン=シモンにならって自分をいくつもの活人画たらしめんとして、このときは興に乗ってユクセル元帥を気取っていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.270」岩波文庫 二〇一五年)

サン=シモン「回想録」の登場人物「ユクセル元帥」。美貌の従僕たちを周囲にはべらせ若い将校たちを集めて「ギリシア風」の放蕩に耽っていたらしい。ギリシア風の放蕩といえば男性同性愛に他ならないが、注目したいのは古代ギリシアではどこにでもあった男性同性愛讃美ではなく、シャルリュスがユクセル元帥を気取るにあたって「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」とある記述。<ユクセルへの意志>と言い換えることができる。そのあいだ、シャルリュスは「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」確かに<ユクセルへの生成変化>を生きているということでなくてはならない。プルーストが述べているのは<欲望のプロセスとしての生成変化>についてだ。

「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

プルーストに限らず、「彼らは書くことによって女性に<なる>」、とドゥルーズ=ガタリは述べている。

「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)

さらにプルーストの場合、或る記号=身振りがますます増殖していくとともに、新しい次元を切り開いて見せる場面に遭遇していかなくてはならない。

なお、地球温暖化と並行して度重なる異常気象の連鎖について。ジジェクはいう。

「左派はトランプからも学ぶことを恐れるべきではない。トランプの方法とはどのようなものだったのか。多くの明晰なアナリストが指摘していたように、トランプは(すべてと言わずとも大抵の場合)成文律や規則を破ることはしないが、こうした法律や規則はかならず豊かに組み立てられた不文律や習慣に支えられており、それによって運用の仕方が規定されているという事実を最大限に活用するーーー彼はこの不文律の方を、めちゃくちゃに無視してしまうのである。こうしたやり口の直近の(そして今のところ最も極端な)事例は、トランプが国家非常事態宣言を宣言したことだ。批判者にとって衝撃だったのは、戦争や自然災害の脅威といった大規模災害に限定した目的で作られたことが明白なこの措置を、でっちあげの脅威からアメリカの国土を守る境界の建造のために実施したことであった。しかし、この措置に批判的だったのは民主党員だけではなく、右派にもトランプの宣言が危険な前例を作ってしまうことを恐れる人たちがいた。未来の左派民主党大統領が、例えば地球温暖化を理由に、国家非常事態を宣言したらどうするのか、と。わたしが言いたいのは、左派の大統領がまさにこうした手段を使って迅速な特例措置を合法化すべきだということだーーー地球温暖化は実際、(国家に限定されない)非常事態《なのだ》。宣言があろうがなかろうが、わたしたちは間違いなく非常事態下に《いる》。地球温暖化関連の最近のニュースを見るかぎり、温暖化はあきらかに悲観論者が予想していたよりもずっと速く進行している。このことを踏まえると、幾人かの評論家が第二次世界大戦との類似を指摘しているのは正しいーーー当時と似たような地球規模での動員が必要なのだ。そうした動員の必要性を無視するなら、わたしたちはある病院のジョークに出てくる患者と同じようにふるまうことになる。その患者は混雑した病室で横になり、看護師に『他のベッドの患者がずっと泣いたり呻いたりしているんですが、もう少し静かにしてくれるように頼んでもらえませんか』と文句をいう。看護師は『他の患者さんのこともわかってあげてください。末期の患者さんなんです』と答える。患者は言い返す。『わかりましたよ。でもそれならどうして末期患者用の特別室にいれないんですか』。『いえ、ここが末期患者用の部屋なんですよ』。ラディカルな環境保護論者はわたしたち人類が末期患者だと言わんばかりに不満を言い過ぎだという『リアリスト』はみな、このジョークと同じことになっているのではないだろうか。彼らが無視しているのは、わたしたちが実際に末期患者《である》ということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.111〜112」青土社 二〇二二年)

だからといってその解決策の一つに新型原発増設を上げるなど論外である。チェルノブイリ事故について。

「問題は、(パニックをあおる主張に反対する人たちのいうような)事実の不確実性にあるのではない。この問題に関するデータにもかかわらず、それが実際に起こる可能性をわれわれが信じられない、ということにあるからだ。窓の外をみてごらん、そこには依然として緑の葉と青い空がある、生活は続き、自然のリズムは狂っていないーーーというふうに。チェルノブイリ事故の恐ろしさはここにある。事故現場を訪れると、墓石がある以外、その土地は以前とまったく変わらないようにみえる。すべてを以前の状態のまま残して、人々の生活だけが現場から立ち去ってしまったようにみえる。それにもかかわらず、われわれは何かがとてつもなくおかしいということを意識している。変化は、目に見える現実のレベルにあるのではない。変化はもっと根本的なものであり、それは現実の肌理そのものに影響する。チェルノブイリの現場周辺に昔通り生活を営む農家がぽつんぽつんと数軒存在するのは、不思議ではない。そう、彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の『選択社会』の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由《であり》それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる、ということである」(ジジェク「大義を忘れるな・第3部・9・P.680~681」青土社 二〇一〇年)

ジジェクの理論を今の日本に当てはめてみるとよくわかるかもしれない。日本を蝕んでいるだけでなくこれまでも一貫して蝕んできたのは、他でもない日本政府中枢だということが。

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Blog21・ドビュッシーとマイヤベーアとを横断するモレル/シャルリュスの「かわり」にモレル/モレルの「かわり」にシャルリュス

2022年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスの同性愛についての記述は作中あちこちで頻出する。例えば妻の喪中、それも「葬儀のあいだに聖歌隊の少年に名前と住所を訊ねる手立てを見つけたとほのめかす始末だった」。プルーストがそう書くのは社交界で飛び交う数知れぬ身振り(言語)とその内容とが織りなすトランス記号論的アナーキー性(横断性)について、明確に<暴露>しておかなければ何一つ事実を描いたことにはならないからである。

「シャルリュス氏は、妻の死後、悲嘆に暮れている最中でも、嘘をつくのが習い性(せい)となっていたために、喪中にふさわしからぬ生活を排除することはなかった。ずっと後には、浅ましいことに、葬儀のあいだに聖歌隊の少年に名前と住所を訊ねる手立てを見つけたとほのめかす始末だった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.240」岩波文庫 二〇一五年)

フォーレ「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」を演奏し終えたモレル。次にカンブルメール夫人がモレルにリクエストしたのはドビュッシー「祭」。演奏が始まり「最初の音が弾かれたとたん、夫人は『ああ!これは崇高!』と大声をあげた」。そこで注目すべきは次の一節。「ところがモレルは、最初の数小節しか憶えていないことに気づき、だますつもりは微塵もなく、ただのいたずら心から、つづけてマイヤベーアの行進曲を弾きはじめた。あいにくモレルはこの転換にほとんど間(ま)を置かず、予告もしなかったので、だれもがいまだにドビュッシーが演奏されているものと想いこみ、『崇高!』の声もつづいていた」。

「そのかわりに夫人が頼んだのはドビュッシーの『祭』で、最初の音が弾かれたとたん、夫人は『ああ!これは崇高!』と大声をあげた。ところがモレルは、最初の数小節しか憶えていないことに気づき、だますつもりは微塵もなく、ただのいたずら心から、つづけてマイヤベーアの行進曲を弾きはじめた。あいにくモレルはこの転換にほとんど間(ま)を置かず、予告もしなかったので、だれもがいまだにドビュッシーが演奏されているものと想いこみ、『崇高!』の声もつづいていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.240~241」岩波文庫 二〇一五年)

モレルはドビュッシーからマイヤベーアの楽曲へ瞬時に移動したためヴェルデュラン夫人のサロンでは依然としてドビュッシーの楽曲が続いているものとばかり信じて誰一人疑っていない。しかしもしその場に音楽大学の教授がいたとすればすぐさま気づいたに違いない。だとしてもプルーストが言っているのは専門家なら気づくことであって逆にヴェルデュラン夫人のサロンの常連客だったから気づかなかったとか、そういうことでは全然ない。モレルがやって見せたのはドビュッシーの楽曲とマイヤベーアの楽曲とを接続することは可能だということであり、<或る価値体系>と<別の価値体系>との間を切断・再接続するのはいとも容易だという無数の横断性の実例である。次のように。

「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)

ところでヴェルデュラン夫人はもう少しサロンに残っていかないかと招待客たちに声をかける。なかでも実質的実力者シャルリュスに賛同を得たいのだがそこまで勇気の出ない夫人はシャルリュスの「かわり」にモレルにいう。「わたくしのかわいいモーツァルトさん」、「あなたはお残りになりません?」。シャルリュスの「かわり」にモレル。ゆえにモレルの「かわり」にシャルリュスが答える。「夜中の十二時までの外出許可しかもらっていませんので。帰って寝なくちゃならんのです、聞き分けのいい、おとなしい子供のようにね」。

「『あなた、みなさんにはゆっくりしていただかなくては、まだ時間はたっぷりあるんですから。一時間も早く駅に着いたってなんの得にもならないでしょう。ここにいらしていただくほうが快適ですからね。で、あなた、わたくしのかわいいモーツァルトさん』と、あえて直接シャルリュス氏に話しかける勇気の出ない夫人は、モレルに言った、『あなたはお残りになりません?海に面したすてきな部屋がございましてよ』。『それができないんです』とシャルリュス氏は、トランプに没頭して聞こえなかったモレルに代わって答えた、『夜中の十二時までの外出許可しかもらっていませんので。帰って寝なくちゃならんのです、聞き分けのいい、おとなしい子供のようにね』と氏が、甘すぎる父親のような、気取った、しつこい声を出したのは、相手をこうして清純な子供になぞらえたり、たまたまモレルの話題になると自分の声に力をこめたり、手で触るかわりにことばで相手に触れている気になったりすることに、どうやら加虐的な快楽を覚えていたらしい」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.266」岩波文庫 二〇一五年)

ここでさらにシャルリュスの身振り(言語)にプルーストの言及が見える。「手で触るかわりにことばで相手に触れている」点。「手で触る」<かわりに>「ことばで相手に触れている」というのは「手で触る」ことと「ことばで相手に触れている」こととはいつでも置き換え可能だというプルーストの観点と矛盾しない。もっとも、シャルリュスとモレルとの場合は同性愛的次元の行為だが、それより遥かに多く見られる陰湿なケースは身体的接触がなくても言葉による暴力が可能なこと、言葉による暴力の被害(いじめ、過労死、自殺など)が可能なのは一九〇〇年当時すでに常識に属していた。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて25

2022年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。以前育てていた黒バラは工事のため撤去しました。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.17)


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.17)

前回撮影は二〇二二年九月十三日。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。今回は今のところ薄ピンク色のものを二輪撮影しました。台風十四号の接近に伴い進路上に当たっているため、どう変化するのか見守るほかないのが実情という感じです。

参考になれば幸いです。

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