「上野の山は東叡山」のつづきも、東京国立博物館(東博)の総合文化展からお送りします。
順不同で行きます。
まず、いつも楽しみにしているお侍さんの身の回り品が2品
こちらはいかがでしょうか?
説明プレートには、
鼓透鐔(つづみすかしつば)
無銘 京正阿弥 江戸時代・17世紀
とあります。
「武」に精進すべきお侍さんが、「武士の魂」とされる刀の鍔に、精緻な金の象嵌
が施された鼓の意匠とは…
なんと軟弱な と憤慨する人もいるかもしれませんな。
でも、考えようによっては、お侍さんも歌舞音曲に浮かれる太平の世がやってきたという江戸時代初期の開放的な気分
が伝わってくる気がしませんか?
ところで、「無銘」としながらも、「京正阿弥」とはどういうこと
ヒントは説明プレートの英訳に隠されていました(この方面に造詣の深い方々、笑わないで
)
Sword Guard
Dram design in openwork
By Kyo-Shoami school
Edo period, 17th century
「鐔」が「Sword Guard」なのはすんなり来ますが、「透かし」が「openwork」って、これで正しいのですか?
その辺は置いといて、「京正阿弥」は「Kyo-Shoami school」と訳されています。
っつうことは、「正阿弥」というのは個人の名前ではなく、工房のようなものなのでしょうか
さっそく調べてみますと、コトバンクに答を見つけました
しょうあみ 〔シヤウアミ〕 【正阿弥】
鐔工(つばこう)の一派。また、その手になる鐔(つば)。室町末期に京で興り、初期のものは古正阿弥という。伊予・阿波・会津ほか各地に分派が生じ、鉄地に金象眼を施した作品が多い。
だそうです
なるほど…、とすれば、京都を本拠地とする正阿弥一派のどなたかの作品というわけだ
おぉ、理解できました
「鉄地に金象嵌を施した作品が多い」という説明も、「鼓透鐔」にピタリと一致しています。
ここでふと思い出しました
今年1月に東博で観た、私の故郷でつくられたという鐔(下の作品)
1月14日の記事で紹介した「雲龍透鐔 銘 出羽秋田住正阿弥伝七」です。
この記事を書いたときは、
作者の正阿弥伝七さんは秋田市の旧鍛冶町(私が小学校低学年の時に通っていた学校の学区内 )に住んでいらっしゃったのでしょうか?
であっさりと通り過ぎてしまった「正阿弥」、こんな広がりを持った名前だったんですなぁ…
もう一歩踏み込めば、未知の世界に触れることができていたはずなのに、もったいないことをしましたなぁ~
でも、まぁ、結構早く気がついて良かった…
おっとっと、最初の一品で長居してしまいました
次はこちらの兜。
と思ったら、
白糸威富士山形兜 江戸時代・17世紀
(しろいとおどしふじさんなりのかぶと)
だそうです。
イカではなく、富士山…
失礼しましたぁ~
こちらの兜(英訳では "Helmet")には詳しい説明がありましたので、転載いたします。
丈の高い鉢と末広がりの脇立(わきたて)を黒漆塗とし、頂辺(てへん)には銀箔を押して富士山を表した兜。革毎(ホントは一文字で"しころ")は両肩を短く、後中央を長くした日根野形(ひねのなり)といわれる形式で、帯状の板の上端に刻みを入れ、表面を伝統的な札仕立てのように見せかけた切符札(きっつけざね)を白糸で五段に威している。
これほど短い一文の中に専門用語が出てくる出てくる…
この説明にある「日根野形」「切符札」が判るように、「しころ」を写真には撮ったのですが、ケースのガラスのおかげでクリア
にとれませんでした
残念…
なかなか先に進めません…
他にやらなきゃならないことがあるし、寝不足だし、で、今日は辺りで…。
to be continued デス。