ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

吉原幸子詩集「幼年連祷」より

2013-05-10 20:46:15 | Poem



  喪失ではなく  吉原幸子(1932~2002)


  大きくなって
  小さかったことのいみを知ったとき
  わたしは〝えうねん〟を
  ふたたび もった
  こんどこそ ほんたうに
  はじめて もった

  誰でも いちど 小さいのだった
  わたしも いちど 小さいのだった
  電車の窓から きょろきょろ見たのだ
  けしきは 新しかったのだ いちど

  それがどんなに まばゆいことだったか
  大きくなったからこそ わたしにわかる

  だいじがることさへ 要らなかった
  子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
  そのなかにゐて 知らなかった
  雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
  いちどのかなしさを
  いま こんなにも だいじにおもふとき
  わたしは〝えうねん〟を はじめて生きる

  もういちど 電車の窓わくにしがみついて
  青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
  わたしは ほんたうの
  少しかなしい 子供になれた――


  あたらしいいのちに   吉原幸子


                          
  
  おまへにあげよう
  ゆるしておくれ こんなに痛いいのちを
  それでも おまへにあげたい
  いのちの すばらしい痛さを
  
  あげられるのは それだけ
  痛がれる といふことだけ
  でもゆるしておくれ
  それを だいじにしておくれ
  耐へておくれ
  貧しいわたしが
  この富に耐へたやうに――

  はじめに 来るのだよ
  痛くない 光りかがやくひとときも
  でも 知ってから
  そのひとときをふりかへる 二重の痛みこそ
  ほんたうの いのちの あかしなのだよ

  ぎざぎざになればなるほど
  おまへは 生きてゐるのだよ
  わたしは耐へよう おまへの痛さを うむため
  おまへも耐へておくれ わたしの痛さに 免じて



  (幼年連祷・1964年・歴程社刊)より



子供は初めに大人の世界に産まれ出てくる。そこはなにもかにも子供には大きすぎる世界だった。
この巨人の国で、子供は少しづつ大きくなる。
そして大人の背丈に近づくにつれて子供は脱皮の季節を迎える。これは「自然」なことではないか。
人生はそれからの時間の方がはるかに永い。
その時間のなかで人間はどこまで「内なる子供」を養いつづけることができるのだろうか?

子供が育ってゆく期間、母親も同時に二度目の「子供の時間」を生きてきたのではないだろうか?
それは、かがやくような「時間の子供」を内部に育てたのだといえるかもしれない。
こんなことを考える時に必ず思い出すのは、この詩です。
そして、三度目の子供時代も生きてみようと思う。

最も自覚的でなかったのは、自らの子供時代ではなかったろうか?

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