この詩人との出会いはそれほど昔のことではない。突然に出会ったのだ。そこで釘付けになってしまった2編です。ある詩人たちの勉強会(?)に、参考資料として用意したものですが、そのまま眠らせるのはもったいないなぁと思いまして、ここに掲載します。
動作 安藤元雄訳
その馬はうしろを振り向いて
誰もまだ見たことのないものを見た。
それからユーカリの木の陰で
牧草をまた食べ続けた。
それは人間でもなく樹でもなく
また牝馬でもなかったのだ。
葉むらの上にざわめいた
風のなごりでもなかったのだ。
それは もう一頭の或る馬が、
二万世紀もの昔のこと、
不意にうしろを振り向いた
ちょうどそのときに見たものだった。
そうしてそれはもはや誰ひとり
人間も 馬も 魚も 昆虫も
二度と見ないに違いないものだった。大地が
腕も 脚も 首も欠け落ちた
彫像の残骸にすぎなくなるときまで。
・・・・・・詩集「万有引力・一九二五年」より。リルケの賞賛を受ける。
灰色の支那の牛が・・・・・・ 堀口大学訳
灰色の支那の牛が
家畜小屋に寝ころんで
背のびをする
するとこの同じ瞬間に
ウルグヮイの牛が
誰か動いたかと思って
ふりかえって後(うしろ)を見る。
この双方の牛の上を
昼となく夜となく
翔びつづけ
音も立たてずに
地球のまわりを廻り
しかもいつになっても
とどまりもしなければ
とまりもしない鳥が飛ぶ。
・・・・・・詩集「無実の囚人・一九三〇年」より。
* * *
シュペルヴィエルは、一八八四年ウルグアイのモンテヴィデオに生まれる。両親は南仏ピレネー地方の出身だがウルグアイに移民、裕福な一族に属していた。しかし一歳を迎える前、ピレネーに帰郷した折りに両親とも不慮の中毒で急死。以後フランスの祖母のもとで育つ。
フランスとウルグアイ両方の国籍を持っており、生涯にわたって両国を往復して一つの国にとらわれない複眼的な視点を養った。創作活動は一貫してフランス語で行っている。以下、簡略な略歴を。
一八九四年(一〇歳) パリのジャンソン=ド=サイイ中学に入学。
一九〇二年(一八歳) パリ大学文学部在籍。法学部聴講。兵役に従事。
一九〇七年(二十三歳) モテヴィデオでピラール・サーヴェドラと結婚。この年から南米に長く滞在し、チリに旅行。また一年間奥地の農場で過ごす。三男三女が次々に生まれる。(上記の二篇はこの時期に書かれたものか?)
一九一四年(三十歳) 第一次大戦、動員される。郵便の検閲に従事。高名な女性スパイ「マタ=ハリ」逮捕のきっかけをつくった。
一九一九年(三十五歳) 大戦が終わり、軍曹で除隊。パリ十六区ランヌ街の自宅に戻り、以後長くここに住む。これ以後は執筆活動に。詩、小説、戯曲などなど。(中略)
一九六〇年(七十六歳) 「ヌーヴェル・リテレール」紙の推挙により、「ポール・フォール」の後継者として「詩王」位を贈られる。五月パリの自宅で死去。
この「詩王」の実態はまだわかりません。想像するにフランスの出版界が決める詩人への称号ではないだろうか?
* * *
この2編の詩に共通することは「永遠」と「瞬間」という「時間」ではないだろうか?そしてそれは「人間」ではなく(いや、人間も含まれているのか?)、素朴な生き物の「馬」や「牛」の何気ない「うしろを振りかえる。」という行為が、時間軸となっているのだ。壮大な詩に出会ったという思いが深い。
動作 安藤元雄訳
その馬はうしろを振り向いて
誰もまだ見たことのないものを見た。
それからユーカリの木の陰で
牧草をまた食べ続けた。
それは人間でもなく樹でもなく
また牝馬でもなかったのだ。
葉むらの上にざわめいた
風のなごりでもなかったのだ。
それは もう一頭の或る馬が、
二万世紀もの昔のこと、
不意にうしろを振り向いた
ちょうどそのときに見たものだった。
そうしてそれはもはや誰ひとり
人間も 馬も 魚も 昆虫も
二度と見ないに違いないものだった。大地が
腕も 脚も 首も欠け落ちた
彫像の残骸にすぎなくなるときまで。
・・・・・・詩集「万有引力・一九二五年」より。リルケの賞賛を受ける。
灰色の支那の牛が・・・・・・ 堀口大学訳
灰色の支那の牛が
家畜小屋に寝ころんで
背のびをする
するとこの同じ瞬間に
ウルグヮイの牛が
誰か動いたかと思って
ふりかえって後(うしろ)を見る。
この双方の牛の上を
昼となく夜となく
翔びつづけ
音も立たてずに
地球のまわりを廻り
しかもいつになっても
とどまりもしなければ
とまりもしない鳥が飛ぶ。
・・・・・・詩集「無実の囚人・一九三〇年」より。
* * *
シュペルヴィエルは、一八八四年ウルグアイのモンテヴィデオに生まれる。両親は南仏ピレネー地方の出身だがウルグアイに移民、裕福な一族に属していた。しかし一歳を迎える前、ピレネーに帰郷した折りに両親とも不慮の中毒で急死。以後フランスの祖母のもとで育つ。
フランスとウルグアイ両方の国籍を持っており、生涯にわたって両国を往復して一つの国にとらわれない複眼的な視点を養った。創作活動は一貫してフランス語で行っている。以下、簡略な略歴を。
一八九四年(一〇歳) パリのジャンソン=ド=サイイ中学に入学。
一九〇二年(一八歳) パリ大学文学部在籍。法学部聴講。兵役に従事。
一九〇七年(二十三歳) モテヴィデオでピラール・サーヴェドラと結婚。この年から南米に長く滞在し、チリに旅行。また一年間奥地の農場で過ごす。三男三女が次々に生まれる。(上記の二篇はこの時期に書かれたものか?)
一九一四年(三十歳) 第一次大戦、動員される。郵便の検閲に従事。高名な女性スパイ「マタ=ハリ」逮捕のきっかけをつくった。
一九一九年(三十五歳) 大戦が終わり、軍曹で除隊。パリ十六区ランヌ街の自宅に戻り、以後長くここに住む。これ以後は執筆活動に。詩、小説、戯曲などなど。(中略)
一九六〇年(七十六歳) 「ヌーヴェル・リテレール」紙の推挙により、「ポール・フォール」の後継者として「詩王」位を贈られる。五月パリの自宅で死去。
この「詩王」の実態はまだわかりません。想像するにフランスの出版界が決める詩人への称号ではないだろうか?
* * *
この2編の詩に共通することは「永遠」と「瞬間」という「時間」ではないだろうか?そしてそれは「人間」ではなく(いや、人間も含まれているのか?)、素朴な生き物の「馬」や「牛」の何気ない「うしろを振りかえる。」という行為が、時間軸となっているのだ。壮大な詩に出会ったという思いが深い。
「動作」より「振り向いて」の方がたしかにいいですね。さすが翻訳者だなぁ。
英語のmovement、motionに相当するので、詩の内容から「動作」は妥当な訳でしょうね。
ただ、日本語にすると、なんだか、動きが止まって硬い感じになるので、「振り向いて」と具体的に訳すのもいいかもしれませんね。
堀口大学、安藤元雄、2人とも「動作」と邦訳していますが。
木守柿万古へ有機明かりなれ 志賀康
この俳句の解説のなかで「動作」を取り上げていらっしゃいました。不思議な取り合わせでしたが納得のいくお話でした。そしてもっと驚いたのは、哲男さんが「詩を書かなければ」と書かれていたことでした。
このシュペルヴィエルという詩人の存在感を実感する言葉でした。
ひそかな海
だれも見ていないとき
海はもう海ではない
海は同じものだ
だれも見ていないときのわたしたちと
魚は別の魚
波も別の濤
それは海のための海
そして海を夢見る者のための海
わたしがこうして夢見るように
(吉田加南子訳)
これも、いい詩だと思いますね。フランスのアンソロジーの中で、シュペルヴィエルは、アルトーなどと並んで、光彩を放っています。