ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

オルフォイスへのソネット第二部・26

2010-03-09 23:31:15 | Poem
なんと鳥の叫びは私たちの心を捉えることか・・・・・・
そしておよそひとたび創り出された叫びは。
だがすでに子供たちは 自由な戸外で遊びながら
真実な叫びのかたわらを叫び過ぎるのだ。

偶然を叫んでいるものよ。子供たちはこの
(そのなかへすこやかな鳥の叫びが 夢のなかへ
人びとが落ちるように入ってゆく――)世界空間の、
その間隅に、彼らの、金切り声の、楔を打ちこむのだ。

おお 私たちはどこに存在する?さらにますます自由に
糸の切れた凧さながらに
私たちは中空をかけめぐる、風に引きちぎられた

笑いの縁を震わせて。――叫ぶ者たちを秩序に引きいれよ、
歌う神!さわだちつつ彼らが目覚め、
水流となってあなたの頭と竪琴をになうよう。

 (田口義弘訳)


 1914年、ルー・アンドレアス・ザロメ宛ての手紙のなかでも、リルケは独特の「鳥」の捉えかたを書いています。「自然のなかで、あたかも自分自身の内部で歌うかのように歌い、それゆえ私たちは鳥の啼き声をきわめて容易に内部の世界に引き込むことができる。」と。これは「内部への転向」とも言えるだろう。それは「鳥」に限らず過去のソネットに書かれていた「子供の眼差し」や「暖炉の火」にも通低するものでせう。また、リルケの詩作によく見られることですが、繰り返し同じテーマが書かれていることです。この場合の「鳥」についても下記の詩があります。


もの怖じ  リルケ(生野幸吉訳)  形象詩集(1902~1906)より

枯れた森に、鳥のさけびがひとつあがる、
そのさけびは無意味に思える、この枯れた森のなかでは。
そしてしかも、円い鳥のさけびが、
その声をうみだした刹那にあって、
まるでひとつの空のように、枯れすがれた森のうえにひろがる。
あらゆるものが素直に、そのさけびのなかにしまいこまれる。
風光の全体が、そのなかで無言に存在するかのよう、
大風が、その円さのなかへおとなしくはいりこむかのようだ。
そして先にすすみつづけようとするひとときが、
蒼ざめてしんとしている、もしもこの声から外へひとあし出れば、
そんな物らを、そのひとときが知ってでもいるかのように。


 「もの怖じ」は田口義弘訳の場合「怖れ」と訳されています。念の為。

 さらにエッセー「体験」のなかでは「鳥の啼き声が彼の外部にも内部にも同一のものとして存在しているのが感じられた。」と記されています。

 第4節で「歌う神!」と呼び出されるオルフォイスは、マイナデス(叫ぶ者たち。)の復讐によってからだを分断されながらヘブルスの河に運ばれ、やがてレスボスの島へと流れていったのですが、叫ぶ者たちは目覚めて、歌う水流となって、オルフォイスの頭と竪琴に仕える者となる可能性を担っているものとされているのではないだろうか?子供の金切り声も含めて?

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