ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から、ベルリン郊外のポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(米国大統領ハリー・S・トルーマン、英国首相ウィンストン・チャーチル、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、抗戦を続ける日本への対応と第二次世界大戦の戦後処理について話し合われたポツダム宣言は米国、英国と中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表されたものである。(1945年7月26日)
会談に加わっていたソ連は、日本に対して中立の立場をとっていたため宣言に加わっていない(8月9日のソ連対日参戦後に宣言に参加)。
1945年8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、8月15日に国民に「玉音放送」。
映画「日本のいちばん長い夏」のなかで、再現された対談は、同名の小説を書いた、元文藝春秋の編集者「半藤一利」の司会のもと、約24名の各分野の方々の上記の時期に思ったことを語って頂いたその収録です。
* * *
つまり1945年7月26日から8月14日までの、たったの21日間のうちに日本軍部はあわただしい判断を迫られたことになる。「寝耳に水」のような事態と、英米語と日本語との微妙な行き違い、島国日本は判断に時間をかけ過ぎましたし、「あいまいな日本人」だったわけです。その間に広島と長崎の原爆投下は行われてしまったのですね。米国は人間史上最大最悪の戦争犯罪を犯したことにもなるのです。しかしこれはどこまでも裁かれないままです。
科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤謬にひとつの終止符を打ってゆくことだ。
(ブレヒト・ガリレイの生涯)
当時の戦時下の軍部の主導者たちは、世界全体を見渡せるだけの人物はいなかった。しかし「牢獄」のなかにはいたのだろう。国民はその主導者たちに従い、戦場に駆り出され、最も悲惨な体験をさせられた。
会談に加わっていたソ連は、日本に対して中立の立場をとっていたため宣言に加わっていない(8月9日のソ連対日参戦後に宣言に参加)。
1945年8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、8月15日に国民に「玉音放送」。
映画「日本のいちばん長い夏」のなかで、再現された対談は、同名の小説を書いた、元文藝春秋の編集者「半藤一利」の司会のもと、約24名の各分野の方々の上記の時期に思ったことを語って頂いたその収録です。
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つまり1945年7月26日から8月14日までの、たったの21日間のうちに日本軍部はあわただしい判断を迫られたことになる。「寝耳に水」のような事態と、英米語と日本語との微妙な行き違い、島国日本は判断に時間をかけ過ぎましたし、「あいまいな日本人」だったわけです。その間に広島と長崎の原爆投下は行われてしまったのですね。米国は人間史上最大最悪の戦争犯罪を犯したことにもなるのです。しかしこれはどこまでも裁かれないままです。
科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤謬にひとつの終止符を打ってゆくことだ。
(ブレヒト・ガリレイの生涯)
当時の戦時下の軍部の主導者たちは、世界全体を見渡せるだけの人物はいなかった。しかし「牢獄」のなかにはいたのだろう。国民はその主導者たちに従い、戦場に駆り出され、最も悲惨な体験をさせられた。