馴れ合いの受身形は、奴隷の始まりでしたね。それじゃあ、その能動形は? が今日の話題です。p.18最終行から。
馴れ合いの能動態は、支配です。あるいは、マゾと対の心理の言葉で申し上げれば、サドです。サドの人って、一人ぼっちでいることや閉じ込められた感じから逃げ出すときに、他の人を自分の手下や部品にします。サドの人は、自分を大きく立派に見せようとします。それも、自分を崇めまつるだーれか他の一人を自分の手下、部品にすることでそうするのです。
サドとマゾと言ったら、特別に異常な人たち、自分と何のかかわりもない人たちだと思われるでしょう? でもね、果たしてそうでしょうか?
これは、私たちのことをフロムが教えてくれている所なのです。いつでも、どこでも、私たちは、すぐに、極めて迅速に、サドとマゾになることができます。大人でしたら、子どもを目の前にしたら、サドにすぐなれます。「勉強しなさい」といって、子どもがテレビを見続けているときに、腹も立てずに、「子どもは一人格だから、子どもの自主性を大事にしよう」などと言って、矛を収められる人がいるでしょうか?攻撃的な子どもを前にして、怒鳴りつけたり、説教したりせずに、その子の気持ちに寄り添い続けて、その子の個を認め続けられる大人が何人いるでしょうか? あるいは、上司や組織や権力を前にしたら、すぐにマゾになれます。会社や役所にお勤めの日本人で、上司や組織の意向がウソとゴマカシで満ちているときでさえ、そのウソとゴマカシの意向でないことを、実際に言ったりやったりできる独立の人、単独者として生きている人は、きわめて例外的な人でしょう。権力が国民に対する奉仕を忘れ、ウソとゴマカシに満ちた人権侵害と危害を市民に対して行っているときでさえ、その権力と直接対峙できる日本人が、果たしてどれだけいるのでしょうか? 私どもは、その意味では、たいてい、サドかマゾ、あるいは、その両方です。
そういう視点で、もう一度ここのところを読み直したいと思います。