エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

馴れ合いこそ、「奴隷」の始まり

2014-05-13 07:26:00 | エーリッヒ・フロムの真まこと(の行い)

 

 馴れ合いでは、個が死んじゃいますね。「個人がない」のは、馴れ合っているからです。p.18です。

 

 

 

 

 

 馴れ合いで一緒にいることの受身形は、服従です。あるいは、臨床心理の言葉で申し上げれば、マゾ、すなわち、自分を貶める形です。マゾの人って、一人ぼっちだったり、相手にされなかったりするのは、耐えられないから、そこから逃げたすときに、自分に指図を出したり、自分を指導したり、あるいは、自分を守ってくれたりする、誰か他の人の一味や群れに加わるもんです。いわば、その他人が、自分の人生そのもの、息そのものです。自分が服従する相手の力は右肩上がりに大きくなります。その相手が人でも神様でも同じです。服従する相手がすべてで、自分には何にもありません。ただし、自分はその服従する相手の一味だというだけは残ります。一味として、自分はでっかい存在、力がある存在、確かな存在の一部になれます。マゾの人は、自分で何かを決める必要はありません。ですから、リスクもありません。その人は一人ぼっちじゃけっしてありません。ところが、ご当人は独立していませんしね。また、誠実さのかけらもありませんし、未熟です。宗教的に申し上げれば、礼拝の対象は、偶像崇拝です。マゾの愛情関係といった世俗の意味では、マゾと偶像崇拝は本質的に同じです。マゾの関係には、肉体的、性的欲望が混じっています。この場合、ご当人は、頭でだけ、服従しているのではなくて、全人格も、服従しているのです。マゾが服従するのは、運命だったり、病気だったり、激しい音楽だったり、薬や催眠のトランスがもたらすどんちゃん騒ぎだったり、いろいろです。あらゆるケースで、ご当人は、自分に正直であることを断念し、自分以外の人間かシステムかの道具と成り下がります。もはや、何かを作り出す活動することによって、生きる課題を解決する必要などありません。

 

 

 

 

 

 現代人、特に、お役所仕事の人の心理を明確にしているところでしょう。そうすると、日本人の大多数の心理を突いているところでもありますね。生きるシカバネも極まれり、ではないでしょうか? 家内安全、安全第一を靖国神社に願った末がこれだとしたら、ご免こうむりたいものですが、どうでしょうか? 

 権力の末端に地位を得て、仕事と金と名誉を手に入れても、思考停止。人間停止。時には、集金マシーンにもなれば(振込詐欺)、放射能バラマキマシーンにもなり(東電)、弱い立場の人の気持ちを踏みにじる無感覚マシーンにもなり(お役所仕事)、人権無視マシーンにもなれる(袴田事件など、数限りない日本の冤罪事件・冤罪事案の裁判官たち)。皆さん、一刻も早く、私どもは人間に戻りましょうよ。

 

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感じること(遊び)は、知ること(お勉強)より、はるかに大事

2014-05-13 06:05:15 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
最初の意味あるやりとり こころの元型

 見て知ることは、人間にとって、非常に強い意味があることを教えられました。今日は、何もしなければ、人の心の奥底にずっと残る、心の元型、やり取りの元型についてです。それでは翻訳です。...
 

 今日のタイトル、「どっかで聞いたことあるな~」と思われたあなた! さすが読書家ですね(聞いたことなくっても、「大丈夫!」)。これは、自然に対する畏敬の人、レイチェル・カーソンの名著 The Sense of  Wonder  の一説の意訳だからです(p.56)。上遠恵子さんが、誠実な翻訳をしているので、日本語でも読めます(新潮社)。

 

 このところを、わたくしなりに翻訳しますと、次にようになります。

「私が本気で信じているのは、子どもにとっても、子どもの手を取ってあげたいと願う親にとっても、知ることは、感じることよりも、半分も大事じゃないってことです。もしも、いろんな事実が、後から知識や知恵を生み出すもろもろの種だとしても、自分で感じたことに対する、いろんな気持ちやいろんな印象は、このいろんな種が育つ豊かな土壌となるでしょう。幼い子どもの時期の数年間は、この豊かな土壌を作る時期なんです。いったんそういったいろんな気持ち、たとえば、美しいものに感動する心、新しいものや知らないことに興奮する気持ち、同情したり、かわいそうに感じたり、「すご~い!」と思って見たり、「大事だな」と感じる気持ちがいったん生まれたら、私どもは、自分の気持ちが響いた対象のことを「知りたい」って思うものなんです。この「知りたい」ことに出合えたなら、そこには限りない意味があります。ですから、その子がまだよく分かんないことを教え込むよりかは、子どもが「知りたい」って思う、いろんなことを感じる道を整えた方が、よっぽど大事です。」

 このレイチェルのこの文章を何度読んでも、今日のエリクソンが言っていることと共通するものを感じます。子どもが何となく感じること(a sense of…)を「いいぞ」って感じながら、一緒に味わうってことです。それこそ、子どもがなんとなく感じていること(a sense of…)を肯定し、確証をプレゼントして、明確にするだけではなくって、子どもの存在そのものをキッパリと肯定することになりますからね。

 ですから、感じることは、あらゆる叡智の源なんです。

 しかし、それだけではありません。エリクソンも言っていますが、子どもがなんとなく感じていることを肯定し、確証をプレゼントして、明確にすることは、そうする大人の感じが肯定され、確証をいただけるものであるだけではなくて、自分自身が生かされている意味をキッパリと実感する恵みの時なのです。「お互い様」の “不思議の恵み“ です。

 ですから、「今は恵みの時、今こそ救いの日」なんです。

 

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