馴れ合いは、サドでもマゾでも、自滅する。オッカナイこと、オッカナイこと。
馴れ合いから、今のような、国の借金まみれ、秋葉原事件の無差別殺傷事件のような人間破綻から「一流」レストラン、「一流」デパート、東京電力などのウソとゴマカシという人間破綻まで、外交は放棄して戦争できる国づくり、基本的人権を踏みにじる「特定秘密法」「改正教育基本法」、非常勤を増やす労働政策などが生まれているのです。おいおいハッキリしますので、しばしお待ちを。
今日はp,19 三つめの段落から。
それじゃあ、「馴れ合い」の反対、大人の「真」は、「自分自身との対話、自分自身であること(自分が独立していること)を大事にしながら、≪共にいる≫」ということです。「『真』は人間の能動的な力なんです」。人と仲間たちを隔てる壁を突き破る力になります。「真」は人間を他者と連帯させます。ですから、「真」であると、一人ぼっちな感じや相手にされない感じに、人は打ち勝つことができますよ。しかも、「真」であると、人は自分自身でいられます。自分との対話をやり続けることができます。「真」だと、2人は1つであると同時に、ひとりびとりのままである、という矛盾が生じます。
矛盾があると、論理的には破綻です。理屈屋さんはそう考えることでしょう。しかし、心理臨床は、矛盾や二律背反といって、理屈に合わないことが毎日起こりますし、ホントのことは必ず理屈に合わないことを含んでいますから、「あっ、理屈に合わないことの方が真実なんだなぁ」という感じがするのです。
ですから、「真」は2人の人が1つになるのに、同時にひとりびとりのままでいられる、自分自身でいられるということが真実なことだと、すぐに分かります。「これは本物だ」って感じます。不思議ですね。
馴れ合いの反対は、「真」です。それは、2人は連帯していますが、その連帯は、そのひとりびとりの独立、単独者であること、自分自身であることを侵しません。いいえ、むしろ、ひとりびとりが自分自身であることを何よりも尊重するところに「真」の秘密があります。
「真」の特色は、今日は1つ挙げておきますが、それは、“やり取り”です。双方向、相互に「働きかけ」と「受け止め」があります。一人が「投げる」ときには、もう一人が「キャッチする」という働きがあり、それが交互に入れ替わります。「真」は、必ずキャッチボールになるものですよ。