エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

生きる指針

2014-05-26 08:29:53 | エリクソンの発達臨床心理

 

 「心無い大人」の皆さん、「真心」を取り戻すためには、自分自身と≪真の関係≫にならなくっちゃなりません。それは、自分自身と対話をして、≪自分自身の声≫に忠実に従うことにほかなりませんよ。今日はp24の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 与えることとして、≪真の関係≫を実現出来るのは、当人のキャラの育ち具合次第であることは、強調する必要もあまりありません。≪真の関係≫を実現する力が仮定するのは、主に豊かに生きる指針を身に着けていることです。豊かに生きる指針があるとき、人は、甘えや万能感や、他者を利用したいと思ったり、お金をため込んでおきたいと思ったりすることに、打ち勝つことができますし、あるいは、自分自身の力は当てになるということ、すなわち、目標を達成するために自分の力に頼る勇気を勝ち取ります。生きる指針の質に問題があればあるほど、それだけ、ご当人は自分自身を与えることが怖くてできませんし、ですから、≪真の関係≫を実現することも怖くてできません。

 

 

 

 

 

 豊に生きる指針は、繰り返しで恐縮ですが、「静かな時 the quiet time」に≪自分自身の声 your own voice≫に耳を澄ませ、忠実に従うことです。この世に生まれた以上、『その人ならでは』の生き方こそが生きる指針になるのですね。

 誕生することそのものが、奇跡だからです。一人の女性の卵原細胞の数が、700万個、一人の男性が生涯に生産する精子の数が、一兆だとしましょう。すると、一人の人が誕生する確率は、1/700万×一兆ということになります。700京分の1。0が18個も並ぶんです。ジャンボ宝くじの一等が当たる確率が1000万分の1(0は7つ)だそうですから、ジャンボ宝くじの一等が2回連続で当たる確率よりも、一人の人が誕生することの方が、はるかに小さく、従って、難しいことになります。統計や確率が好きな人でも、これなら、人の誕生は奇跡だといっても、認めてくださるのじゃないですか?

 ですから、一人の人は、奇跡で生まれた以上、他人のマネをする必要も、他人の指図のままでいる必要も全くない。その人ならではの人生を歩んでいい。

 『その人ならでは』の人生は、自分自身の声に忠実であること以外に道がありません。

 それでも、人まね、「横並び」、「みなさんご一緒に」の「馴れ合い」ですか?

 それとも、「あなたならでは」ですか?

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ウソになる想像力 真実になる想像力

2014-05-26 06:07:41 | エリクソンの発達臨床心理

 

 
心の根っこにある傾向は変えられるの?

 鋭い政治学者ハンナ・アーレントならではの、鋭い現実認識がエリクソンによって紹介されました。それを受けて、今度はエリクソンの鋭い現実認識が示されます。それでは翻訳です。...
 

 ウソとゴマカシが、想像力を源にしていること、特に物語(シナリオ)を想像することに基づいている、という、ハンナ・アーレントの指摘は見事ですね。しかも、この物語を想像することは、人間の心の根っこにある傾向だとも。それじゃあ、人間が生きている限り、ウソとゴマカシはなくならないのか?

 昨年の今日のエリクソンは、ニューヨークタイムズ誌の政治記者トム・ウィッカーの言葉も紹介していますね。それは、「戦争の仕掛け人たちは、(戦争を)もはや戦争として見るのではなく、外国に行ってやるゲームとして見ている感じです。彼らにとっては、戦争で使う爆弾は、単なる合図であり、戦争がもたらす死は、人の命とは何の関係もありません。」というものでした。これを読むと、この戦争の仕掛け人たちには、想像力が欠けている、という感じがひどくしますね。

 一方で、ウソとゴマカシは、想像力の産物であるはずなのに、トム・ウィッカーが指摘する戦争を仕掛けるものの、安倍晋三首相もその一人でしょうけれども、ウソとゴマカシが想像力の欠如の産物にもなっている。それはいったいどういうことなのか?

 想像力は、妄想にもなりますね。ありもしないことを、自分に都合よくあれこれ考えていくことですね。まさに集団自衛権を行使するケースとして最近話題になったことなど、この種の妄想の典型でしょう。そこにはリアリティがありません。「これはほんとだな」という感じがないのです。それは、眼の前の現実から目をそらし、無視しているだけではなくて、腰が引け、逃げている感じがあります。腰が引け、逃げているのですから、眼の前の現実とその人の関係が、不誠実そのものですね。ですから、「ウソくさい」!

 他方、想像力には、眼には見えないけれども、相手の立場に立ってみたり、相手の身になって考える、という要素もありますね。これはまさに、フロムが、≪真の関係≫と呼んでいることにほかなりませんね。その時の想像力は、現実をハッキリ見て知ると同時に、相手に対する慈しみ、思いやりに満ちた感じが強くしますよね。ですから、そのような想像力とそれに基づく発言と行動は、「これは本物だ」という感じが必ずいたします。

 もうお分かりだと思います。前者は「私とは関わり合いございません」というような、相手の横を通り過ぎるような「傍観者的」な想像力だとすれば、後者は、「他人事とは思えません」というような、相手に関わりあう、相手の現実に参加する想像力ですね。こう書いてくると、「よきサマリア人」のたとえに出てくる、道に倒れている人を見捨てた、宗教的・政治的指導者である祭司や、名門であるレビ人の想像力が前者で、道に倒れている人を助けたサマリア人の想像力が後者だ、ということになるでしょう。

 私どもは、いつでも、人の身になる、弱い立場の人の味方になる、想像力を、意識して、働かせていたいものです。

 

 

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