
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
生きているということは,
結局「生かされている」ということです。
…
天がそうしてくださっているから
生きるのです。
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
生きているということは,
結局「生かされている」ということです。
…
天がそうしてくださっているから
生きるのです。
#傷つけられた者が更に傷つけられるのが戦争 #戦争と殺伐の中のニッポン発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.98,最後の第5パラグラフから。ここ何日かの部分もご一緒に。
生きがい:命の持ち主になること
「生きがい」とは,自分の人生は自分持ちと実感する実感に対する専門用語です。自分の立場を弁え,自分に起きていることに口を出す権利があることも分かっていますし,自分の状況は自分で作り出せる力もあることも知っています。アメリカ退役軍人局の建物の壁をぶち抜く退役軍人は,生きがいを主張しようとしていたんでしょう,事を起こしたかったんでしょう。しかし,結局は,一層,何もできないと感じて,かつては自信があった多くの人が,狂ったようなことと,引きこもりの間を右往左往する罠にかかっていました。
生きがいは,科学者が内臓感覚と呼ぶものから生じます。内臓感覚とは,かすかな感覚,身体に由来する様々な感じです。内臓感覚に気づけば気づく程,自分の生活をコントロールする私どもの潜在能力も,大きくなります。自分が感じていることを意識することは,自分がなぜそのように感じるのかを意識する,最初の一歩です。もし,私どもが,身体の内の環境と,身体の外の環境の様々な変化を,刻一刻と気付いているなら,その内外の環境をコントロールするために動くことができます。しかし,私どもの見張り台である,内側前頭前野が,身体の内で何が起きているのかを見張ることができなければ,内外の環境の変化に気が付きません。ですから,マインドフルネスをするのですし,マインドフルネスは,内側前頭前野を強化してくれますから,トラウマから回復する1つの要石になります。
素晴らしい映画「ペンギンの行進」を見た後で,私は患者さんたちのことを考えているのに気づきました。ペンギンは無心で忍耐強いものですから,ペンギンが,大昔から,何十キロも離れた内陸まで,海からトボトボ歩いて,信じられないほどの困難に耐えて,営巣地にたどり着き,生きられるたくさんの卵をさらして失い,それでまた,ほとんど食べるものも食べずに,大海まで舞い戻るのです。もし,ペンギンに,人間の前頭葉があれば,そのひれ足で氷の家を作り,よりよい分業を工夫し,食糧調達を考えなおすことでしょう。私どもの患者さんたちも,トラウマを生き延てくる時には,途轍もない程の勇気と忍耐が必要でしたし,結局は次から次へと,おんなじ問題をぶち当たってきたんです。トラウマは,患者さんたちの心の方位磁針を働かなくして,もっと,ましなことを創造するために必要な想像力を,奪っています。
本当の自分と生きがいの神経科学は,友人のピーター・レヴィンとパット・オグデンが開発した,様々な体感療法を支持しています。これと他の体感療法については,この本の第5部で,詳細に論じるつもりですが,体感療法の要は,3つです。
1)トラウマが邪魔し,氷漬けにしている感覚情報を引き出す。
2)患者が,内的体験をすることによって自由になったエネルギーを押さえつけるのではなくて,そのエネルギーを生かすように助ける。
3)恐怖によって,身動きができず,押さえつけられ,どうしようもなくなっていた時にはできずにいた,自分を守る身体の動きができるようにする。
腹が感じる感じは,何が安全で,何が人生を保ち,何が恐ろしいかを示します。それは,なぜそう感じるのかはうまく説明できない場合でも,同じです。私どもの感性が内的に促すことは,自分の身体が願っていることに関する,静かなる細き声です。腹が感じる感じは,近づいてくる男が,気味が悪いなぁと感じて警告したり,西向きの,カンゾウに囲まれた部屋は,穏やかな気持ちにしてくれます。自分の感性に心地よく繋がっていれば,すなわち,自分の感性が正確なことを教えてくれると信頼していれば,自分の身体,自分の気持ち,自分の本当の自分は,自分のものだ,と実感出来るでしょ。
ところが,トラウマを負わされた人々は,自分の身体の中にいつでも,危険を感じます。過去は,身体の中の辛い不快感となって繰り返されます。身体は,まるで,腹が警告する様々なサイレンで,砲撃れさているみたいですし,その砲撃から身を躱そうとします。トラウマを負わされた人たちは,腹が感じる感じを無視する専門家になっている場合がよくありますし,自分の身体の中で繰り広げられていることを全く感じない場合もよくあります。トラウマを負わされた人たちは,本当の自分から逃げ隠れしているわけです。
感性通りとは,腹側迷走神経複合体と前頭前野に結びついた,極めて人間らしい内臓感覚,腹が感じる感じに,忠実に従うことです。それは,まるで,神様からの静かなる細き声です。
私どもは,感性通り,神様の静かなる細き声に忠実に従うからこそ,本当の自分を生きるという創造に参加できるわけです。
ところが,発達トラウマ障害の子どもも,大人も,身体が危険信号だらけで,この感性通りが難しいので,本当の自分が死んでいます。
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』。 P.99,下から2行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
本気で遊ぶ年頃と生きている実感通りに遊ぶ :関わりを始めることと人真似
それでは,まず,生きている実感通りに遊ぶ原理です。思い出さなくてはいけないのは,イメージ遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した2人の命の回転,役割をピッタリとくっ付けて一体にする一枚の地図」と,2人が一体となって自由になる決心とを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,予定通りから外れたことを克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。
しかし,ブロックでできた背の高いイメージは,ある種の勝利を表していますが,また,1つの十字架,聖書の神様を象徴するものも示していることに思い至らざるを得ません。2人3人でも,ウソのない場が,遥か彼方の天国にまで,私どもを運んでくれます。「天国などは遥か彼方すぎて」,と身震いしていう人もいます。しかも,自分の解釈があっているのかどうか自信がないなどと考えるべきではありません。その解釈が,遊んでいる子どものコマゴマしたことに従っていなくてもいいし,1つのイメージを他のたくさんのイメージと比べなくてもいいんです。また,遠慮せずに,2人3人のウソのない場が生まれたことに注意を向けるべきでしょう。そうすれば,共通するイメージの物語を見分けることになるやもしれません。
遊びで復活する舞台にピッタリなことですが,遊びのイメージの中には,対人関係の中に心が現れる視点で言えば,「自分のが生きている実感通り,腑に落ちる通りに,ことを始めても善いからね」という創造の目的として,私どもがお祈りにしてきたものがあることに気が付きます。遊ぶ年ごろは,子どもに小さな現実をプレゼントしますし,その小さな現実の中では,その子どもは,様々なおもちゃを使うことができます(その子どもの遊びを良しとして下さる者(訳注:聖書の神様とお母さん)のおかげで,その子どもは,自分が生きている実感通り,腑に落ちる通りに,できるのです)。小さな現実で,自分が生きている実感通りに遊ぶのは,過去に経験したことを,もう一度生きて,発達の予定表にピッタリに正して,もう一度神様の創造に参加しなおすためですし,将来の様々な役割ややり取りを,自分の自由意志から,繰り返し話し言葉にしたり出来事にすることで,先取りするためでもあります。これらのことは皆,神様の創造に参加する日常生活を礼拝にする礼拝の目印です。
かくして,自分が生きている実感通りに,腑に落ちる通りに遊ぶことは,日常生活を礼拝にする礼拝の根本ですし,神様の創造の要です。
発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。
Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.66の,7行目の途中からです。 その前も,ご一緒に。
復活して生きる課題に対する見方は,それぞれですが,精神科医,産科医,小児科医,人類学者のみなさんでしたら,この人たちには親近感を覚えますが,きっと賛成してくれると思います,「聖書の神様を根源的に信頼することが,迷って不信に傾くよりも,いつでも勝っている心の習慣(訳注:安定的な愛着)」を不動にすることこそが,赤ちゃんの最初の(訳注:神様が課した)義務ですし,したがって,お母さんが赤ちゃんを心から大切にするために,一番初めにしなくてはならない義務でもあります。「聖書の神様を信頼する信頼が育つ」のは,赤ちゃんの頃の経験からですが,「食べ物や,大切にしていることを態度で示すこと」の絶対量で育つものではありません,むしろ,お母さんが2度生まれで復活していて,「どれだけ心から優しいか」次第で育つものです。お母さんたちが,子ども達の中に,慎ましい世話人としての心からの優しさによって,創造します。お母さんの慎ましい世話人としての,心からの優しさは,赤ちゃんひとりびとりのその子ならではのニーズに敏感に応えて大切にすることと,自分の仲間の生き方の,信頼できる土台の中で,自分には値打ちがあると堅く信頼していることの2つを1つにした優しさです。聖書の神様を信頼する心の習慣は,その子どもの中にある,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされる心の習慣の土台です。この自分が聖書の神様と一体になって不動にされる心の習慣は,「大丈夫」と実感する心の習慣,「腑に落ちる」と実感する心の習慣,「そんな人になると他の人たちが信頼している人になれる」と実感する心の習慣を,一体にしたものです)。親たちは,「ダメでしょ」と「いいよ」と言って教える生き方だけではなくて,自分がやっていることには,1つの意味がある,ということに対する,深い,ほとんど身体に滲み出るほどの確信と言っていいほどの確信を,その子どもに示さなくてはなりません。この意味で,先祖から伝わってきた,聖書の神様を信頼して歩む中で,子どもを心から大切にして,真の平和を実現する全体像(訳注:神の国で神様の命が一巡している全体像)は,信頼を生み出す唯一の光です。ただし,この先祖から伝わった聖書の神様を信頼する歩みも,形ばかりのいろんな偽物になると,偽物の一つを取り上げただけでも,理に合わない上に,不必要でもある苦しみを子どもにもたらすことになるように思われます。ここで,ことを大きく分けるのは,先祖伝来の一つ一つを,親が子どもに強いるのが,先祖伝来の,聖書の神様を堅く信頼して「これこそ正しい生き方だ」と信頼する信頼からなのか,それとも,親が,赤ちゃんや子どもを管理監督することを取り違えて,自分の怒りをぶつけるため,不安を減らすため,口げんかに勝つために,子どもや他の人たち(義母,医者,聖職者)を道具にしているからなのか,親がどちらを選択しているかの差からです。
変化の時代の中で(他にどんな時代が,私どもの思い出の中にあるのでしょうか),1つの世代が別の世代とが大きすぎて,先祖伝来の教えの一つ一つが,心乱すものになる場合が多い。母親の生き方が,自分の生き方とぶつかり,体験から学んだものの見立てが母親の生き方とぶつかり,体験から学んだものが引用する聖句が,自分の身勝手な生き方とぶつかりますから,このように様々なぶつかり合いがあると,母親は自分を信頼する信頼が心乱されることになる場合があります。しかも,アメリカ人の暮らしの中で起きた,大規模な変化(移民,移住,アメリカ化,産業化,都市化,機械化,など)によっても,母親たちは,ウソがなく,しかも,天国にまで至る,聖書の神様を信頼する信頼を赤ちゃんに伝える母親のお勤めの点で,心乱されやすくなっています。ですから,当たり前なことだといえるのは,ベンジャミン・スポックの(1945年の)本の第一章第1節のタイトルが「自分を信頼しなさい」であることです。しかしながら,体験から学んだ産科医や小児科医が,伝統が人々の絆を結び付けてきた代わりに,母親たちを安心させる言葉と道しるべを与えていることは確かでも,母親たちが,迷い,恐れ,怒り,言い争いすべてを告白するのを,心から聴き容れる司祭役をする暇がありませんね。どなたかが,母親たちの苦しみを心から聴き容れる(訳注:痛み,苦しみ,寂しさ,悔しさ,怒りを知っている仲間となる)司祭役になることは,一人ぼっちの若い母親たちの心を満たすことができます。スポックのような本が一冊でも,(訳注:お母さんたちの)学習会で読まれる必要があるのかもしれませんよ。その学習会では,市民集会がスピリットを誠実に学びあうスピリットが創造されますから。つまり,その学習会では,母親たちがやる様々なことは,誰かがそういうから,良しとされるのではなくて,自分勝手な判断や的外れなことから自由に,様々な意見や様々な気持ちを言えて,良しとして下さるし,また,心からやさしい,神様の意志が,母親たちがやる様々なことを創造する場が1つできるから,良しされるわけです。
この章は長くなり過ぎです。ここで論じている様々なことに関して,赤ちゃんから始めなくてはならないことは,残念です。赤ちゃんのことはほとんど分かりませんし,人間の心の深層についてもほとんど分かっていないんですから。しかし,創造的な(訳注:日常生活を礼拝にする)礼拝をすでに論じ始めていますから,子育てに関する世代から世代へと手渡しされてきた最高の習慣について一言申し上げなくてはなりません。この子育ての最高の習慣は,信頼を生み出すもの,すなわち,宗教と深く関係しています。
エリクソンは,ハッキリしていますね。子育てには,宗教が必要だ,ということです。人は,身勝手で的外れな存在ですから,すぐに「人間を上下2つに分けるウソ」に陥り,良い子育てができなくなるからです。
母親も忠実に従う超越が,子育てになくてはなりません。それが宗教であり,信頼を生み出す仕掛けです。