私の好きな聖書の言葉から。
キリストは,私たちの平和であり,2つを1つにして,ど真ん中の壁を,敵意を壊しました。
(エフェソ:2-14)
こうして,ど真ん中に,敵意の代わりに,キリストが入りましたから,私たちは平和です。
私の好きな聖書の言葉から。
キリストは,私たちの平和であり,2つを1つにして,ど真ん中の壁を,敵意を壊しました。
(エフェソ:2-14)
こうして,ど真ん中に,敵意の代わりに,キリストが入りましたから,私たちは平和です。
現世考: #希望を謳歌する人 #山下達郎発達トラウマ障害(DTD)の診断も、オーダーメイド? 子どもが繰り返しやることには、計り知れない価値がある あなたは生きていて良いんだよ! 対等......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.97,ブランクから。ここ何日かの部分もご一緒に。
ダマジオは,この「目隠し」が,自分自身の様々な問題を,自分に都合良く,外の世界に押し出すように心がけて,働く仕方を説明し続けます。しかし,それは高い代償を支払うことになります。「自分の課題を自分に都合よく人のせいにすることは,私どもが本当の自分と呼ぶものが,可能性に満ちた源であり,そういう可能性に満ちた本質がある事を,感じ取れなくなってしまいます」とダマジオを言います。ウィリアムズ・ジェームズの100年前の著作に基づいて,ダマジオが論じたのは,自意識の核心は,身体の内的な状態を知らせる体感にある,ということです。
始まりにある様々な気持ちのおかげで,私どもは,自分の身体が生きている実感を感じることが出来ます。その身体が生きている実感は、言葉になりませんし,飾り気もなく,只々,生きている,ということ以外の、何者でもありません。この始まりにある様々な気持ちが,様々な次元で沿った身体のいまここの状態を映し出しています。…喜びから痛みまで測る物差しに沿って,大脳皮質よりも(訳注:脳の内奥,原始的な部分で,呼吸その他の生命維持を司る)脳幹のレベルから始まるものです。いろんな気持ちを感じること全てが,初めにある様々な気持ちを土台にするいろんな音色なのです。
私どもの感じる世界が形作られるのは,生まれる前からです。子宮の中で,自分の皮膚を羊水が押すのを感じていますし,流れる血液の音や消火器が動くのが,かすかに聞こえますし,お母さんがいろいろ動くのに合わせて,伸びたり丸まったりしています。生まれた後は,自分との関係と身の回りとの関係を体感が決めます。私ども人間は,オシメを濡らし,おなかペコペコで,アキアキして,眠たいところから始まります。訳の分からないいろんな音,訳の分からないいろんなイメージが,心に響かないこととなって,私どもの末梢神経に押し付けられて,傷を残します。意識と言語を手に入れた後でも,私どもの体感システムは,記憶と記憶を繋ぐ,とても大切なフィードバックをしています。体感が常に人間らしい伝えあいをすることは,お腹の中で,顔や胴体や四肢の筋肉の中で,変化しますから,痛みや心地よさや,空腹と性欲といった刺激がお知らせとなっていきます。私たちの周辺でいま起きていることは,私どもの体感を刺激します。今いると分かっている人を見ること,特定の,例えば,音楽の一部だとか,サイレンを聞くこと,温度が変化したことを感じることは,全て,私どもの意識の焦点を変えますから,そういった体感に気づかなければ,体感の後にくる,様々な大切な考えや行いも,生まれません。
今まで見てきたように,脳の仕事は,私たちの中と周りに起きていることをよく観察して,評価することです。このいろんな評価は,血中の化学的なメッセージや,神経の電気的なメッセージになって,身体と脳を通して,ほのかな,あるいは,劇的な変化をもたらします。こういったいろんな変化は,全く意識なしに,全然気付かぬうちに,起こります。脳の大脳皮質の下にある部分(訳注:脳幹)は,呼吸,心拍,消化,ホルモン分泌,免疫システムを調整することに,ビックリする位影響します。しかし,こういった身体の仕組みがうまく働かなくなるのは,いつも脅かされ,あるいは,脅かされるかもしれないといつも感じたりする場合です。大脳皮質の下にある部分が機能停止していると考えると,トラウマを負わさせた人々を研究者たちが記録した様々な身体の問題が腑に落ちます。
しかし,私どもの意識的な本当の自分も,心の中のバランスを保つ上でとても大切な役割を果たします。自分の身体を安全に保つためには,自分の体感を覚えて,体感に気づいて関わる必要があります。寒さに気づくからこそ,セーターを着こむことができます。お腹が空いたり,ボォーとしていると感じるから,血糖値が下がったことが分かって,お菓子を食べたくなります。膀胱がパンパンになれば,トイレに駆け込みます。ダマジオが指摘していることは,育ってくる中で感じた様々な気持ちが,生命を維持するさまざまな働きをコントロールする領域の近くにありますよ,ということを脳の仕組みすべてが覚えている,ということです。その命を維持するさまざまな働きとは,呼吸,消化吸収,排せつ,睡眠と覚醒のサイクルなどです。「これは,気持ちを感じ,意識を向ける,といった一連の働きは,身体内で命を維持する根源的な働きとピッタリと関係しているからです。身体内の今の状態に関するデータなしに,命とホメオスタシスのバランスを保つことはできません。」とダマジオは言います。ダマジオは,脳の生命維持の領域を「私の源」と呼んだのは,「私の源」になっている脳の領域が,「言葉にならない体得底」を作り出して,私どもの意識的な本当の私を根源的に支えているからです。
脅かされた時の本当の私
2000年に,ダマジオは仲間とともに,世界一の科学雑誌『サイエンス』に,1つの論文を載せました。その論文は,繰り返し蘇る否定的な感情のために,筋肉,内臓,皮膚から神経信号を受け取る脳の領域が,重要な変化を起こす,ということを報告したんです。筋肉,内臓,皮膚からの神経信号は,身体がうまく働く根源的な働きを整える際に非常に大切なものです。ダマジオの研究チームがとった脳画像が示していることは,過去の感情的な場面を思い出すと,昔出会ったもともとの出来事の間に感じていた体感を実際に何度も体感することになる,ということでした。たとえば,脳幹の特定の領域が「悲しみと怒り」の中で働いたものの,「幸せや恐怖」の中では働きませんでした。体感を感じる脳の領域全てが,大脳辺縁系の内側にありますし,様々な感情が割り当てられている所ですが,様々な強い感情が身体と結びいた,さまざまな共通の表現をするたびに,昔感じた様々な気持ちに巻き込まれることになります。すなわち,「お前にはうんざりするよ」,「虫唾が走ったよ」,「イラッときて」,「ガッカリ」,「むかつくんだよ」。
脳幹と大脳辺縁系の中にある,基本的な本当の自分の仕組みがひどく活動的になるのは,殺されるかもしれないし,生きていけないかもしれないと人が怯えるときですから,その結果,生理的に強く興奮するとともに,恐怖と怯えに圧倒されます。1つのトラウマを繰り返し生きている人々にとっては,周りで何が起きているのか何にも分かりません。1つのトラウマを繰り返し生きている人々は,生きるか死ぬかお決まりの状況に,いつも,陥ります。生きるか死ぬかのお決まりの状況とは,怖くて何にもできないか,やみくもに激しい怒りを爆発されるか,という状況です。心身とも,いつも刺激を受けて,まるで,差し迫った危険があるかのようです。心身とも,かすかな音にも,ビックリしてドキドキしますし,ちょっとイラッとくるだけで,気持ちが折れてしまいます。睡眠はいつも途切れ途切れで,食べても,おいしくありません。かすかな音でも引き金になりますから,ゾッとして凍り付くか,解離を起こすかして,こういったつらい思いを,死に物狂いで締め出そうとします。
どうすれば,自分をコントロールする力を取り戻せるのでしょうか? 動物的な脳が,生き残りを懸けて戦う中で,働かなくなった時に。動物的な脳の内側で起きていることが示すことが,私どもが感じているものだとすれば,また,私どもが感じている体感が,皮質下の(無意識に働く)脳の仕組みによって,組み立てられているとすれば,その体感と,体感を司る皮質下の脳を,私どもはコントロールする力があるのでしょうか?
生きがい:命の持ち主になること
「生きがい」とは,自分の人生を任されていると実感に対する専門用語です。自分の立場を弁え,自分に起きていることに口を出す権利があることも分かっていますし,自分の状況は自分で作り出せる力もあることも知っています。アメリカ退役軍人局の建物の壁をぶち抜く退役軍人は,生きがいを主張しようとしていたんでしょう,事を起こしたかったんでしょう。しかし,結局は,一層,何もできないと感じて,かつては自信があった多くの人が,狂ったようなことと,引きこもりの間を右往左往する罠にかかっていました。
神谷美恵子さんの話とも通じます。
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Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』。 P.98,タイトルのあとから。ここ数日分も,ご一緒に。
生涯を通して,日常生活は,善と悪,淨と不浄を区別する境界線を不動にします。これらの善悪などの分別の境界線が,大人の世界の中にある善悪などの分別を言葉にする暮らしの中で,あらゆる日々の礼拝に当てはまる善悪などの分別の判断基準を,一番正しいもの(訳注:であるかのように)にします。その日々の礼拝では,人間は,神様の教えに身も心もピッタリと従いますし,礼拝の進め方の細かいところにも全体にも目を配ります。礼拝に参加する人たちの現実をともに乗り越えた,神様を信頼する気配が匂い立って際立ちますし,共に分かち合っているもの全てを,互いに自分から分かち合いますし(願わくば,容疑者が自分の罪を告白する事も含まれてほしいものですが),そして,日々の礼拝こそは,決して手放し得ない1つの心の習慣です。
しかしながら,ルールを言葉にして出来事にすることを,仕事でも,自分の生活でも,実際に見て分かる中に,この日常生活を礼拝にする人生の習慣によって,母子2人がピッタリと一心同体になることがうまくいかない場合もあります。すなわち,赤ちゃんが我慢できて,うまく働く様々な分別の境界線が,世代から世代へと,悪い良心と戦いながら確信をもって伝えられなかった場合です。ルールを言葉にする日常生活を礼拝にする礼拝は,客観的には「ルールで」悪いことは,将来容疑者になるかもしれない者たちへの見せしめになることを確立する課題からも,「仲間内で正しいとされる行い」の点で,当てになる人に自分がなることからも,かけ離れすぎになる場合が多すぎです。司法制度は,正しい行いの点で,当てにならないことを助長しています。というのも,司法制度は,正しいと実感していることに自由に賛成する,というよりも,脅して強制的に同意させる,という方を強調するからです。つまり,司法制度は,確信をもって日々の礼拝を行うことよりも,悪い良心に犯されて,形ばかりのおざなりなお役所仕事を,優先しがちです。裁判所が,ビックリするようなノゾキ趣味を煽る時,被告を裁く中で,厳罰化が行われます。こういった悪い良心の支配された裁判は全て,容疑者を救いのない孤立に追い込み,その回復されぬままの激しい怒りをますます悪化させて,ますます恥知らずな犯罪に仕向けることになります。このように,(訳注:悪い良心が支配する)悪い礼拝の2番目に分厚い下層をなす原理が前面にお出ましになりますから,それを「お役所仕事」と呼べるかもしれません。お役所仕事とは,聖書の神様や法の精神を蔑ろにして,文字が勝っていることです。お役所仕事が現れるのは,本当の正義である心からの優しさを置き去りにして「正しいこと」を押し付けること,口先だけの「ごめんなさい」,容疑者や誰か他の人のためになることとはお構いなしに,容疑者をさらし者にして村八分にする厳罰化になります。こういった悪い良心に支配されたお役所仕事はみな,心が分裂する裏取引です。人間どもは,自分は正しいという気持ちも,自分が恥だという気持ちも(訳注:自分勝手に)作り出して,人間を上下2つに分けてしまう「政治的」な様々な取引も,裁判所が(訳注:人間の分を超えて,傲慢にも)作り出します。ここでも,日常生活を礼拝にすることができないことから生まれる心の病と,日常生活を礼拝にする習慣がうまくできないことを特色づける社会病理が,密接に関係していることがわかります。
ここで,まとめるために立ち止まってもいいでしょう,「聖書の神様が創造の前に天上から予定した」発達に従って,日常生活を礼拝にする礼拝の一つ一つの原理は,とても大切な人間らしい習慣の核になりますが,子どもの頃の1つの舞台に始まりますし,その後のすべての舞台の中で吸収され,新たにされます。この創造という道の中で,ヌミノースの原理も,ルールを言葉にする日常生活を礼拝にする礼拝の中にも繰り返し登場し,全てが義なる聖書にビッタリと合った人格の香り立つ気配となりますし,後には,聖書の神様や不動の正義といったイメージの中にあるのに気が付きます。あるいは,「義人」として,神様のイメージを体現することに人生を賭けた,具体的な人の中に現れたり,「正しさ」を生き方の中で嗅ぎ分けることに,現れます。しかしながら,こういったことは,ヌミノースの光そのものでもないし,ルールを言葉にする光そのものでもなくて,一つ一つの原理が,子どもの頃の特定の舞台にピッタリとくっ付いていて,大人の頃の特定の生活習慣の核になる訳ですが,日常生活を礼拝にする原理そのものが,1つの本物の日常生活を礼拝にする礼拝を「神様の身代わりで創造する」のです。まだ成長していない,後に続く原理も,ヌミノースの原理やルールを言葉にする原理と一体になります。後に続く原理の中で,この後で,「遊びが子どもの課題にピッタリの答えを出す」原理も論じますから,私どもを子どもの頃の遊びに連れ戻してくれます。また,「目に見える生き方が一体になる」原理も論じますから,小学生の終点まで私どもを連れ戻してくれます。それから,「神様の御心の中で共に自由になる」原理も論じますから,青年に課された神様からの義務にも私どもを連れ戻してくれます。
本気で遊ぶ年頃と感性通りに真似して :関わりを始めることと人真似
それでは,まず,感性通りに真似をする原理です。思い出さなくてはいけないのは,組み立て遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「ぶつかり合っていた命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。
自分を信頼したい,という最深欲求が,イメージの中にきれいに出ます。このロバート少年に限らず,子どもの遊びには,エリクソンが「日常生活を礼拝にする」ことが,見事なほどに繰り返し出てきます。
エリクソンの叡智: #倫理は母親から赤ちゃんに継承されるもの発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間......
発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。
Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.65の,10行目からです。 p.63の第2パラグラフからも,ご一緒に。
赤ちゃんは,信頼している,とは言えても,赤ちゃんは「自信がある」とまで言ったら,言い過ぎになるでしょうね。信頼が創造する復活とは,さらには,外から赤ちゃんの将来を見越して様々な世話をするお母さんがいつでも共に居て,いつでも対等で,赤ちゃんと一心同体になる人で,しかも,いつでも身も心も赤ちゃんと共に居て,絆がある,というだけではありません。自分自身を信頼し,自分を縛り付ける者(訳注:悪い良心=自我の上に立ち,自我に様々な文句を付けて,縛り付ける悪い良心そのものの超自我と,子どもや人の上に立ち,子どもや人に様々な注文を付けて,縛り上げる悪い良心の持ち主である大人達)と戦う自分の様々な働きの度量も信頼することです。つまり,私どもは,自分自身と十分に当てになる(信頼できる)ことを一体として見る(見なす)ことができるんですよ。ですから,赤ちゃんの将来を見通して世話してくれる人たちに,もう守ってもらう必要はないし,プレゼントを運んでもらう必要もないのです。
精神病理学の論文では,「口が寂しい性格」という場合が多いものですが,これは,この口の舞台の悪い良心との戦いが未解決であるのが原因となって,知らず知らずのうちに自分と何を一体にしたらいいのか分からずに迷子になっていることが骨身に沁みて,自分は信頼できると見なすまともな発達ができずにいる人です。口の舞台の最悪の生き方が,支配者となり,他の生き方の余地がなくなりますと,赤ちゃんの様々な危機は,相手にされずにホッタラカシにされるかもしれないという不安,あるいは,単に,独りぼっちにされるかもしれないという不安,それに,関わってもらうことに飢えている不満ですが,その赤ちゃんの様々な危機が見て取れるのは,力づくで抑え込まれている顔ですが,相手にされずホッタラカシにされて,無理無理抑え込まれた悲しげな顔,神様に見捨てられたかと勘違いして,役立たずと感じて,無理やり抑え込まれた怒り顔です。このような赤ちゃんの様々な危機がありますと,命が回転して逆向きに,根がケチで欲張りになります。それは,精神分析では,「根っからの無慈悲」と呼ばれ,人様には有害なやり方で,いろんなものを無慈悲にも自分の手に入れようとします。しかし,初め(値っ)から最高の人(訳注:キリスト)も1人いますね。その人は,まず自分が与えてから受け取る関係を自分から作り出して,一番大切なこと(訳注:互いに大切にすること)を命の中に回復して復活することになります。そして,ひとりびとりあらゆる人間の中で,人生の習慣になる心の下層となる「始まり(根っこ)」があります。この始まりに,キリストを豊かに信頼するお母さんから生まれるものは,いつまでも残る(訳注:信頼という名の)宝物です。その心の下層は,心の習慣になって,私どもが信頼していることの中と,失くした1つしかない天国に対する,ほのかではあっても,どなたにでもある,母親との一体感を失った痛みと混ざったいつまでも消えない疼きの中とに,おのずから出ます。最初の舞台と後の舞台すべてをピッタリと一体にして全体像となすと,聖書の神様を信頼する根源的信頼感と現実をリアルに見つめる賢慮を併せ持つ(訳注:本物の)大人になれます。
赤ちゃんの時にねじ曲がった生き方の向きが,どれくらい病んでいるか,どれくらい割に合わないかは,そのねじ曲がった向きが,人格全体とどの程度一体化しているかの程度次第,ねじ曲がった向きが,子どもを大切にすることの創造的なパターンにピッタリと合っている程度次第,上手な様々な人付き合いに使える程度次第,ということになります。
ですから,ここでも,他と同様,「赤ちゃんを縛り付ける様々な敵」が「子どもを大切にする計画」の中で現れることを,まず初めに論ずべき課題として,よくよく考えなくてはなりません。その「赤ちゃんを縛り付ける様々な敵」は,1つの子育て,1つの出産の経済的,道徳的な全体像の中で,苦しい迷子と,見なすことができます(みなすことができないかもしれません)。たとえば,「チャンス到来」を熱心に信頼することを取り上げてみましょう。「チャンス到来」を熱心に信頼することは,伝統的で特権的なアメリカ人が,自分は器量が大きいし,運命を司る神様は善意の塊だと信頼することです。この聖書の神様に対する信頼は,ときに,堕落しているように見える場合があります。多くの人がギャンブルに興じていますし,あるいは,運命を司る神様を貶める,自分勝手で,自殺的な「危険な橋を渡る」場合もあります。あるいは,俺様は,平等なチャンスに対する権利があるばかりではなくて,1つの創造の計画の中に参加する全ての人よりも俺様が好かれてるんだと言い張る輩がお出ましになる場合もあります。同じ堕落の道で,気分がよくなるいろんな嗜好品が,古くて新しいいろんな味覚からも,吸ったり飲んだりすることからも,ムシャムシャ食べて,飲み込んで,消化することからも,手に入れることが出来ますから,私どもが身に覚えのある,聖書の神様を信頼する根源的信頼感が豊かなお母さんが心から優しいことを態度で示すことにもならないし,そのお母さんが心から優しいことにも繋がらない,様々な依存症に,多くの人が陥ることに,神様の命の向きとは逆に回転して堕落します。
ここで,私どもは,人格と子育ての2つを1つにする身の処し方を必要とする,聖書の神様の創造の光が自由に解き放たれていることに触れていることは、明らかです。また,口が寂しい人が「バラバラにされた」中で,大なり小なり悪い働きをする問題と,赤ちゃんの時に安心安全を繰り返し与えられず,聖書の神様を信頼する根源的信頼感をもらえなかったことが下層となって生じているとみられる心の様々な病に対して,これは誰にでもありうることだとして身を処することも,「なるほど,本当のことですね」とするものでしょう。復活している生きる課題が出る,母子関係(訳注:時に父子関係)の唯一無二の課題は,聖書の神様を信頼すること(いまの産科と小児科が,子どもを大切にする様々な方法について非常に関心を持っていることに,現れています)です。すなわち,聖書の神様を信頼する根源的な心の習慣を1人の赤ちゃんの中で不動にするならば,大人は誰も,軽症・重症を問わず,依存症にもなりませんし,自分に妄想(もうぞう)を抱くこともないし,欲張って金・地位・異性をむさぼることもなくなりますからね,という聖書の神様を信頼する信頼です。
復活して生きる課題に対する見方は,それぞれですが,精神科医,産科医,小児科医,人類学者のみなさんでしたら,この人たちには親近感を覚えますが,きっと賛成してくれると思います,「聖書の神様を根源的に信頼することが,迷って不信に傾くよりも,いつでも勝っている心の習慣(訳注:安定的な愛着)」を不動にすることこそが,赤ちゃんの最初の(訳注:神様が課した)義務ですし,したがって,お母さんが赤ちゃんを心から大切にするために,一番初めにしなくてはならない義務でもあります。「聖書の神様を信頼する信頼が育つ」のは,赤ちゃんの頃の経験からですが,「食べ物や,大切にしていることを態度で示すこと」の絶対量で育つものではありません,むしろ,お母さんが2度生まれで復活していて,「どれだけ心から優しいか」次第で育つものです。お母さんたちが,子ども達の中に,慎ましい世話人としての心からの優しさによって,創造します。お母さんの慎ましい世話人としての,心からの優しさは,赤ちゃんひとりびとりのその子ならではのニーズに敏感に応えて大切にすることと,自分の仲間の生き方の,信頼できる土台の中で,自分には値打ちがあると堅く信頼していることの2つを1つにした優しさです。聖書の神様を信頼する心の習慣は,その子どもの中にある,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされる心の習慣の土台です。この自分が聖書の神様と一体になって不動にされる心の習慣は,「大丈夫」と実感する心の習慣,「腑に落ちる」と実感する心の習慣,「そんな人になると他の人たちが信頼している人になれる」と実感する心の習慣を,一体にしたものです)。親たちは,「ダメでしょ」と「いいよ」と言って教える生き方だけではなくて,自分がやっていることには,1つの意味がある,ということに対する,深い,ほとんど身体に滲み出るほどの確信と言っていいほどの確信を,その子どもに示さなくてはなりません。
この確信を持っている大人は,根源的信頼感がきわめて豊かな人です。