エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か #けむし

2018-07-29 10:12:51 | 聖書の言葉から

 

 

 マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

 

 

 ケムシ


 さんぱつは きらい

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#気持ちを言葉にできない人 と #発達トラウマ障害

2018-07-29 10:02:04 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#聖書の言葉 :#ソリチュード、 #一人の豊かさ #ブツブツ言いたくなる時
     発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間......
 

 

 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.100のブランクから。




 気持ちを表す言葉をなくすこと,アレキサイミア:いろんな気持ちを示す言葉が全くない



 私には夫を亡くした叔母さんが一人いまして,痛ましいトラウマを負わされた成育歴のある人でした。その叔母さんは,我々子どもにとっては,実際にはおばあちゃんでした。その叔母さんはよく訪ねてきて,たくさんのことをしてくれました。カーテンを作ってくれたり,台所棚を配置換えしてくれたり,子どもの服を作ってくれたり。しかも,とても無口でした。叔母さんは人を喜ばせることに熱心でしたが,何が楽しいのかは分かりませんでした。

 


 この叔母さんは,アレキサイミア,気持ちを言葉にできない人だったんでしょう。

 発達トラウマ障害の子どもでも,大人でも,気持ちを言葉にできない人は,かなりいますね。

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#感性通りにやる原理  #聖書の神様が創造する創造の予定説 #自分の感性を信頼する

2018-07-29 09:28:26 | エリクソンの発達臨床心理

 
#思い出したくないトラウマ記憶:#強い守りはどこから?
     発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,......
 

 

 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.101,7行目から。ここ数日分も,ご一緒に。

 本気で遊ぶ年頃と感性通りにやる :関わりを始めることと想像力

 

 

 

 それでは,まず,感性通りにやる原理です。思い出さなくてはいけないのは,イメージ遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,聖書の神様が創造する創造の予定通りから外れたことを克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。

 しかし,ブロックでできた背の高いイメージは,ある種の勝利を表していますが,また,1つの十字架聖書の神様を象徴するものも示していることに思い至らざるを得ません。2人3人でも,ウソのない場が,遥か彼方の天国にまで,私どもを運んでくれます。「天国などは遥か彼方すぎて」,と身震いしていう人もいます。しかも,自分の解釈があっているのかどうか自信がないなどと考えるべきではありません。その解釈が,遊んでいる子どものコマゴマしたことに従っていなくてもいいし,1つのイメージを他のたくさんのイメージと比べなくてもいいんです。また,遠慮せずに,2人3人のウソのない場が生まれたことに注意を向けるべきでしょう。そうすれば,共通するイメージの物語を見分けることになるやもしれません。

 遊びで復活する舞台にピッタリなことですが,遊びのイメージの中には,対人関係の中に心が現れる視点で言えば,「自分の感性通り,腑に落ちる通りに,ことを始めても善いからね」という創造の目的として,私どもがお祈りにしてきたものがあることに気が付きます。遊ぶ年ごろは,子どもに小さな現実をプレゼントしますし,その小さな現実の中では,その子どもは,様々なおもちゃを使うことができます(その子どもの遊びを良しとして下さる者(訳注:聖書の神様とお母さん)のおかげで,その子どもは,自分の感性通り,腑に落ちる通りに,できるのです)。小さな現実で,自分の感性通りに遊ぶのは,過去に経験したことを,もう一度生きて,創造の予定表にピッタリに正して,もう一度神様の創造に参加しなおすためですし,将来の様々な役割ややり取りを,自分の自由意志から,繰り返し話し言葉にしたり出来事にすることで,先取りするためでもあります。これらのことは皆,神様の創造に参加する日常生活を礼拝にする礼拝の目印です。しかしながら,この年頃の遊びのテーマは,勝利した自己イメージを利用し,熱心にその格好をすることと,弱虫や悪者の「相手達」を全滅にすることになる場合が多い。心の中で一番違和感があるものは,子どもの頃は遊びの中で,外に出し,やっつけて,解決しようとするわけです。それは,チャンとしてない感じです。このように,その遊んでいる子どもは,おもちゃのある舞台で礼拝を初める中で,自分はどこまでだったら,やってもいいの? どちらに行ったら自分はチャンとしていないことになっちゃうの? という問いを遊びの中に出すように見える場合が多いものです。

 チャンとしてない感じはどれも,善悪を判断する裁判所のテーマに含まれるはずだ,と思う人もあることでしょう。しかし,1人の犯人は,定義からして,良心の教えに従わなかった訳です。ですから,少なくとも,証拠として挙げられたことを認めて,犯人を恥じ入らせる人たちによって,その犯人は,公にさらし者にされてなくてはなりません。その証拠によって,その犯人は有罪にはできますが,その犯人が,自分のせいですから,自分が悪うございました,と思うかは別の話です。本物のチャンとしてないと感じる実感は,唯一,いけなかったと「自分が」自分を強く非難することだけからしか,立ち現れない訳ですから,こんなことをしたら,たとえ,コッソリとやっても,人に知られるかもしれないし,人に知られれば,罰をもらうかもしれない,と想像することさえ,待てないのかもしれません。しかし,実際は,感性通りにやる原理が,私が創造される過程に生まれるのは,自分がチャンとしてないと感じる実感が遊びの中に避けがたく登場せざるを得ないことからです。でも,一人遊びのどこに,やり取りがあるの?と訊く人があるかもしれません。1つの事例を取り上げるのは,とても特殊な状況からです。つまり,子どもの想像力を,私どもが,想像力のヒントになるために選んだおもちゃを使って,守られた場で,テストする,計画的に発達する場から取られています。しかしながら,日常生活の場でも,子どもは遊びの世界を使って,同じことをするものです。その遊びの世界が,自然からできたものでも,人が作ったものでも,あるいは,先祖伝来の遊びでも,即興の遊びでも,その遊びの世界から,子どもの願いが判ります。

  子どものころの遊びは,いろんな自分のイメージといろいろな他者のイメージで実験する中で,精神分析家が「自分の元型」と呼ぶものを,一番上手に表現しています。「自分の元型」とは,自分が見上げた自分の一部ですし,少なくとも,理想的な物語の中で理想的な役者として自分を想像する限りで,自分の理想ですし,なおかつ,物差しに合わないものには,罰と村八分があります。このように,私どもは実験して,一つの空想のシーンを想像する中で,元型となる命が一巡する日常生活の聖なる礼拝と,命が一巡しない日常生活の悪い礼拝の準備が整います。もちろん,この日常生活の聖なる礼拝悪い礼拝は,私どもがどちらの日常生活をすることになるのかを,超越しています。そして,日常生活を礼拝にすることが日常生活を超越する時子どもの想像力は,日常生活を礼拝にする礼拝にすることがもたらす光の国と,いつでもどこでも,自由にやり取りします。その光の国は,様々な絵本やおとぎ話,様々な神話や寓話に出てきまして,人間の様々なイメージの中の最高の人最悪の人が,互いに逆向きに回転して,釣り合っています。

 しかし,聖書の神様が創造する創造の予定説に心を向けてみましょうね。予定説の発達では,感性通りにやる原理は,元に戻るのではありません。感性通りにやる原理は,身震いするほどの驚きと圧倒的な歓びと感謝に溢れるヌミノースの原理ルールを話し言葉にする原理と一体になるんですし,私が創造される過程でまだ辿っていない様々な原理とも一体になるものです。自分の感性通りに実行すること自分の感性を信頼して,子どもみたいに自分の感性に全てお任せにして一体になること。日常生活を礼拝にする礼拝も,日曜礼拝も,宗教的礼拝も,感性通りにやる原理がないものは1つもありません

 

 

 

 感性通りとは,≪私≫が生きている実感通りに,ということです。

 エリクソンは,発達トラウマ障害という診断名がない時から,発達トラウマ障害の子どもの臨床をしてきた,発達トラウマ障害治療の天才です。ですから,発達トラウマ障害の子どもに一番欠けていること,であると同時に,人間にとって最も大事な最深欲求である,≪私≫が生きている実感を生かしたいという願いに敏感でした

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#根源的信頼感 と #生きた確信 #人格に滲み出る心からの優しさ

2018-07-29 06:30:18 | エリクソンの発達臨床心理

 
#自己信頼の中身 :#感性を信頼
    発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~......
 

 

 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。

 Identity and the life cycle  『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.68の,3行目からです。 その前も,ご一緒に。

 

 

 これこれの言葉で,これこれの毎日の礼拝で,こう告白すべきだとか,こう告白すべきじゃないだとか,こうすべきだ,こうすべきじゃないだとかは,心理学者がわかるものではありません。むしろ,スピリットを日々礼拝する者が問わなくてはならないことは,礼拝をしながら,宗教や先祖伝来の言い伝えが,聖書の神様を信頼し確信することから生まれる,心からの優しさを創造する,生きた確が,ウソのない空っぽの真心の中に満ち満ちているのかどうか,ということです。この生きた確信がお母さんの人格に染み渡ると,その子どもは,世の中はうまくできてるね,と聖書の神様を信頼する根源的信頼感を,繰り返し元気づけることができますからね。心の痛みを知った者は,見逃せにできないのは,宗教がないことに本当は満足できずでいる人たちがごまんといる,ということですし,宗教がないことを自慢しているのは,空元気という人もごまんといる,ということです。方や,宗教の教理以外から,すなわち,仲間,仕事,社会的活動,学問,芸術から,聖書の神様を信頼する信頼を引き出している人もたくさんいます。また,口では,自分は聖書の神様を信頼しているといいながら,実際には,人生も人も信頼していない人も,ゴロゴロいますでしょ。こういったこと全てを頭に入れると,よく考えてみるに値すると思われるのは,宗教が何世紀にも渡って,聖書の神様を信頼する信頼の形で,いつくかの間隔を置きながら,信頼する心の習慣を回復するのに役立ってきた,ということです。ただし,宗教は,呪われる約束の悪の心の習慣に,分かりやすい形も,示しています。すべての宗教には,共通して,神様の命が一巡する道で,全てを見通す聖書の神様や先見の明のある人たちに,子どもみたいに全てお任せする,ということがありますね。聖書の神様や先見の明のある人たちは,この世の幸運と全うなスピリットを引き出してくれます。すなわち,自分がちっぽけな存在である真実をハッキリと示されて,元通りの正しい関係聖書の神様に従う行動の仕方というど真ん中を通って,聖書の神様や先見の明のある人たちに頼る訳です。また,私は,間違ったことをいろいろやりました,思いも,いろいろと間違っていました,願いも悪かったです,と,祈りや讃美歌の中で認めること,心がバラバラだったと認めること,聖書の神様の指針によって,皆の心が1つになるようにと,聖書の神様や先見の明のある人々の正しい判断に共に呼び戻されます。自分をさらにチャンと弁えて,自分の限界をハッキリされる必要性があり,究極的には,1人が信頼することが,皆が聖書の神様を信頼することをもたらすことになる1人が信頼できないことが,皆がウソとゴマカシばかりを語ることをもたらすことになる,と心から悟りひとりびとりが全うになることが,多くの者が日常生活を礼拝にする礼拝に参加することになるし,世の中はうまくできてるね,と信頼する1つの印となる,と心から悟ることになります。

 宗教を信じているという者はどなたでも,その宗教から生きた確信のある生き方を引き出しているはずですから,生きた確信のある生きが,赤ちゃんたちにうつると,根源信頼感を生きる人生の習慣になります。ですから,宗教など必要ない,とおっしゃる方は,どこか別のところから聖書の神様を信頼するのと同じくらい生きた確信のある根源的信頼感を引き出さなくてはなりませんでしょ。



  ≪私≫が生きている実感に則って行動して善いこと 対 ≪私≫が生きている実感を感じてそれが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと

 

  スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。

 元気いっぱい

 冒険したい気持ち

 もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる

 あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え

 事故を防ぐ

 赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時

 自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?

 物を落としたり,投げたりすること

 子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる

 噛みつく人間

 寝る時間を良い時間にする

 夜になっても寝ようとしない幼子


 スポックの本の項目の後半の半分。

 8つめの「物を落としたり,投げたりすること

 11番目の「寝る時間を良い時間にする

 12番目の「夜になっても寝ようとしない幼子

 はすべて,赤ちゃんの根源的信頼感と関係が深いものです。

 えっ? という方は,赤ちゃんや子どもとの関わりが乏しい人です。また,勉強不足かも分かりません。

 フロイトさんが,孫?の赤ちゃんが,糸のついた物を投げては,その糸を引っ張って物を引き戻しす遊びを繰り返しているのを見て,根源的信頼感を養う遊びだとしたことは有名です。エリクソンも,どこかでそのことに触れています。

 この赤ちゃんが根源的信頼感を養う時にも,母親は,自分の心を空っぽにできるほどの確信のある根源的信頼感と,その確信から滲み出る心からの優しさがなくては,なりません。

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