マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
クウチャーネの
グータラコセクツブシで
イビキ,アクビに
返事させて,
いつもオナラが
祝砲をあげておる
ような私ですからね。
…
ただ,いま死んでもいい
と言って,
神様の領域
までふみこむ
ことはできません。
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
クウチャーネの
グータラコセクツブシで
イビキ,アクビに
返事させて,
いつもオナラが
祝砲をあげておる
ような私ですからね。
…
ただ,いま死んでもいい
と言って,
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までふみこむ
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#私ってスピリチュアル発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.100最初から。ここ何日かの部分もご一緒に。
生きがい感:命の持ち主になること
「生きがい感」とは,自分の人生は自分持ちと実感する実感に対する専門用語です。自分の立場を弁え,自分に起きていることに口を出す権利があることも分かっていますし,自分の状況は自分で作り出せる力もあることも知っています。アメリカ退役軍人局の建物の壁をぶち抜く退役軍人は,生きがいを主張しようとしていたんでしょう,事を起こしたかったんでしょう。しかし,結局は,一層,何もできないと感じて,かつては自信があった多くの人が,狂ったようなことと,引きこもりの間を右往左往する罠にかかっていました。
生きがい感は,科学者が内臓感覚と呼ぶものから生じます。内臓感覚とは,かすかな感覚,身体に由来する様々な感じです。内臓感覚に気づけば気づく程,自分の生活をコントロールする私どもの潜在能力も,大きくなります。自分が感じていることを意識することは,自分がなぜそのように感じるのかを意識する,最初の一歩です。もし,私どもが,身体の内の環境と,身体の外の環境の様々な変化を,刻一刻と気付いているなら,その内外の環境をコントロールするために動くことができます。しかし,私どもの見張り台である,内側前頭前野が,身体の内で何が起きているのかを見張ることができなければ,内外の環境の変化に気が付きません。ですから,マインドフルネスをするのですし,マインドフルネスは,内側前頭前野を強化してくれますから,トラウマから回復する1つの要石になります。
素晴らしい映画「ペンギンの行進」を見た後で,私は患者さんたちのことを考えているのに気づきました。ペンギンは無心で忍耐強いものですから,ペンギンが,大昔から,何十キロも離れた内陸まで,海からトボトボ歩いて,信じられないほどの困難に耐えて,営巣地にたどり着き,生きられるたくさんの卵をさらして失い,それでまた,ほとんど食べるものも食べずに,大海まで舞い戻るのです。もし,ペンギンに,人間の前頭葉があれば,そのひれ足で氷の家を作り,よりよい分業を工夫し,食糧調達を考えなおすことでしょう。私どもの患者さんたちも,トラウマを生き延てくる時には,途轍もない程の勇気と忍耐が必要でしたし,結局は次から次へと,おんなじ問題をぶち当たってきたんです。トラウマは,患者さんたちの心の方位磁針を働かなくして,もっと,ましなことを創造するために必要な想像力を,奪っています。
本当の自分と生きがい感の神経科学は,友人のピーター・レヴィンとパット・オグデンが開発した,様々な体感療法を支持しています。これと他の体感療法については,この本の第5部で,詳細に論じるつもりですが,体感療法の要は,3つです。
1)トラウマが邪魔し,氷漬けにしている感覚情報を引き出す。
2)患者が,内的体験をすることによって自由になったエネルギーを押さえつけるのではなくて,そのエネルギーを生かすように助ける。
3)恐怖によって,身動きができず,押さえつけられ,どうしようもなくなっていた時にはできずにいた,自分を守る身体の動きができるようにする。
腹が感じる感じは,何が安全で,何が人生を保ち,何が恐ろしいかを示します。それは,なぜそう感じるのかはうまく説明できない場合でも,同じです。私どもの感性が内的に促すことは,自分の身体が願っていることに関する,静かなる細き声です。腹が感じる感じは,近づいてくる男が,気味が悪いなぁと感じて警告したり,西向きの,カンゾウに囲まれた部屋は,穏やかな気持ちにしてくれます。自分の感性に心地よく繋がっていれば,すなわち,自分の感性が正確なことを教えてくれると信頼していれば,自分の身体,自分の気持ち,自分の本当の自分は,自分のものだ,と実感出来るでしょ。
ところが,トラウマを負わされた人々は,自分の身体の中にいつでも,危険を感じます。過去は,身体の中の辛い不快感となって繰り返されます。身体は,まるで,腹が警告する様々なサイレンで,砲撃れさているみたいですし,その砲撃から身を躱そうとします。トラウマを負わされた人たちは,腹が感じる感じを無視する専門家になっている場合がよくありますし,自分の身体の中で繰り広げられていることを全く感じない場合もよくあります。トラウマを負わされた人たちは,本当の自分から逃げ隠れしているわけです。
人は,身体の内側から警告する様々な印を押し退け,無視しようとすればするほど,その様々な警告の印は,訳が分からず,混乱し,恥ずかしいものに,それだけなっていきます。身体の中で今起きていることを心地よく感じられない人々は,五感で感じていることが変わることに弱くなりますから,何も感じなくなるか,パニックになるかしてしまいます。こういう人たちは,恐れそのものを恐れるようになります。
パニック症状が続くのは,パニック発作に伴う様々な体感を怖がるようになったから,という場合が多いことが分かっています。パニック発作の引き金になるのは,筋が通らないけれども,体感を身体中で感じそうで怖い,と男でも女でも,分かっている何かです。「怖くて身体がガチガチになる」ことや,「怖くて凍り付く」こと(気持ちが落ち込んで,何も感じなくなります)は,怖さとトラウマがどんな感じなのかが,正確に分かります。その怖さやトラウマの実感は,腹が感じる源があります。怖い経験とは,どうやっても逃れられない怖さに対する様々な原始的な反応からできています。人々の生活は,この腹が感じた体験が変わらない限り,人質に取られてしまったままになります。
身体からのメッセージを無視したり,捻じ曲げたりすることの代価は,皆さんにとって危険なこと,害になることを見つけられなくなる,ということです。同様に悪いことですが,安全なこと,自分のためになることも,見つけられなくなる,ということもあります。自分をルールにすることは,自分の身体と仲良くしなくてはなりません。自分の身体と仲良くしないと,外側にあるルールに頼らなくてはなりません。たとえば,薬や,アルコールのような薬物,いつも励ましてもらうこと,あるいは,他の人の願いに忖度して強迫的に同調することに頼らなければならなくなります。
私の患者は,ストレスに対して,気付くことも,名付けることもせずに,片頭痛や喘息発作をひどくすることで,応じる人が多い。サンディーは,中年の訪問看護師ですが,私に言ったのは,目には見えないアルコール依存症の両親を,子どもみたいに,恐れて寂しい,ということでした。サンディーの対処の仕方は,サンディーが頼りのしている人(私や彼女のセラピスト)とは,違っていました。ご主人が無神経な言葉を言うたびに,サンディーは喘息発作になりました。その時に分かったのは,自分は呼吸をしてない,ということでした。吸入器では間に合わなかったので,サンディーは救急救命室に担ぎ込まれました。
心が助けを求めていることを押さえつけても,ストレスホルモンが身体を動かしてしまうことを止めることにはなりません。サンディーは,人と関わる様々な問題を無視したり,身体が感じる嫌な様々なサインを止められるようになっても,気に掛かる症状が出ました。サンディーのセラピーは,体感と感情の関係に焦点を当てましたし,私もサンディーにキックボクシングのプログラムに参加したらと誘いました。サンディーは,私の患者になって三年,救急救命室の厄介になったことは一度もありません。
身体的な原因がハッキリしない様々な身体症状が,トラウマを負わされた子どもたち,大人たちには,必ずあるものです。トラウマを負わされた子どもも,大人も,慢性的に,背中や首の痛みがありますし,リウマチ,片頭痛,消化器の病気,直腸けいれん,胃がゴロゴロする症状,慢性疲労,ある種の喘息があります。トラウマを負わされた子ども等は,トラウマのない子ども等の50倍も喘息になりやすい。様々な研究によれば,重度の喘息発作のある子どもも大人も,発作前に呼吸が苦しくなるのに気が付かない人が多いんです。
トラウマが,人生そのものや身体を支配する悪魔であることがわかります。
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発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。
Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.67の,下のブランクからです。 その前も,ご一緒に。
これこれの言葉で,これこれの毎日の礼拝で,こう告白すべきだとか,こう告白すべきじゃないだとか,こうすべきだ,こうすべきじゃないだとかは,心理学者がわかるものではありません。むしろ,スピリットを日々礼拝する者が問わなくてはならないことは,礼拝をしながら,宗教や先祖伝来の言い伝えが,聖書の神様を信頼し確信することから生まれる,心からの優しさを創造する,生きた確信が,ウソのない空っぽの真心の中に満ち満ちているのかどうか,ということです。この生きた確信がお母さんの人格に染み渡ると,その子どもは,世の中はうまくできてるね,と聖書の神様を信頼する根源的信頼感を,繰り返し元気づけることができますからね。心の痛みを知った者は,見逃せにできないのは,宗教がないことに本当は満足できずでいる人たちがごまんといる,ということですし,宗教がないことを自慢しているのは,空元気という人もごまんといる,ということです。方や,宗教の教理以外から,すなわち,仲間,仕事,社会的活動,学問,芸術から,聖書の神様を信頼する信頼を引き出している人もたくさんいます。また,口では,自分は聖書の神様を信頼しているといいながら,実際には,人生も人も信頼していない人も,ゴロゴロいますでしょ。こういったこと全てを頭に入れると,よく考えてみるに値すると思われるのは,宗教が何世紀にも渡って,聖書の神様を信頼する信頼の形で,いつくかの間隔を置きながら,信頼する心の習慣を回復するのに役立ってきた,ということです。ただし,宗教は,呪われる約束の悪の心の習慣に,分かりやすい形も,示しています。すべての宗教には,共通して,神様の命が一巡する道で,全てを見通す聖書の神様や先見の明のある人たちに,子どもみたいに全てお任せする,ということがありますね。聖書の神様や先見の明のある人たちは,この世の幸運と全うなスピリットを引き出してくれます。すなわち,自分がちっぽけな存在である真実をハッキリと示されて,元通りの正しい関係と聖書の神様に従う行動の仕方というど真ん中を通って,聖書の神様や先見の明のある人たちに頼る訳です。また,私は,間違ったことをいろいろやりました,思いも,いろいろと間違っていました,願いも悪かったです,と,祈りや讃美歌の中で認めること,心がバラバラだったと認めること,聖書の神様の指針によって,皆の心が1つになるようにと,聖書の神様や先見の明のある人々の正しい判断に共に呼び戻されます。自分をさらにチャンと弁えて,自分の限界をハッキリされる必要性があり,究極的には,1人が信頼することが,皆が聖書の神様を信頼することをもたらすことになるし,1人が信頼できないことが,皆がウソとゴマカシばかりを語ることをもたらすことになる,と心から悟り,ひとりびとりが全うになることが,多くの者が日常生活を礼拝にする礼拝に参加することになるし,世の中はうまくできてるね,と信頼する1つの印となる,と心から悟ることになります。
宗教を信じているという者はどなたでも,その宗教から生きた確信のある生き方を引き出しているはずですから,生きた確信のある生き方が,赤ちゃんたちにうつると,根源信頼感を生きる人生の習慣になります。ですから,宗教など必要ない,とおっしゃる方は,どこか別のところから聖書の神様を信頼するのと同じくらい生きた確信のある根源的信頼感を引き出さなくてはなりませんでしょ。
≪私≫が生きている実感に則って行動して善いこと 対 ≪私≫が生きている実感に恥を感じて,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
スポックの本の項目の半分。
3つめの「もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる」という二律背反が登場するのが,1歳,2歳のこの時期の特色です。
この時期に,この二律背反する願いと行動パターンがある中で,≪私≫が生きている実感を,自分が生きる際のルール,基本形にできることがとても大切になります。そのためにはかかわる大人は,心が広く,心から優しくないとできません。
イエスはその伝道をガリラヤで始めました。ペテロなどの弟子たちに最初に出会ったのも、ガリラヤでした。イエスにとっても、弟子たちにとっても、心のふるさと、自分の原点は、ガリラヤにこそあったのです。イエスの言葉は、その原点、心のふるさとのありかをハッキリと示してくれていますね。
The Galilean Sayings and the Sense of “I”. The Yale Review. April 1981, p328の第2章から。
4年ぶりの訳し直し。
第2章
私はもう、私が依って立つ全てを含む立場を明らかにしたところです。つまり,その私の立場とは,神様が創造する時には,イエスのガリラヤでの言い伝えが、私どもが,人間に相応しい「≪私≫が生きている実感」と呼ぶものを,繰り返し生み出す,ということなんですね。特に、イエスの言い伝えをどのように見たら、イエスの時代の出口の見えない、歴史的・宗教的な弱さと苦しみを受け容れて仲間にする人格に染み渡った心からの優しさを約束することになるのか,ということなんですね。人類の進化の中で、このガリラヤの時ほど、あるいは、このガリラヤの時以上に、このような生まれ変わりが,あの千年期にあった別の偉大な様々な言い伝え、たとえば、老子の言い伝えや、老子の言い伝えが道教で果たす役割に、意義深い光を投げかけているものはない,のかもしれませんよ。というのも、ついでに申し上げれば、「あの方の支配」、あるいは、「あの方の道」が、英語では「神の国」と呼ばれるものに対して、非常に合点がいく呼び名になっているように思われるからです。実際問題、最初のキリスト者たちは、自分たちのヴィジョンを「キリストの新しい生き方」と呼んだのでした。
エリクソンは、なんでこんなところに着目するのでしょうか? キリスト者でない人はそう思うかもしれませんね。日本のキリスト者は1%もいませんから、ほとんどの人は、「ついてけない」と思うのかもしれません。
この文書の最初に、トーマス・ジェファーソンが、第3代アメリカ合衆国大統領になった時に、ホワイト・ハウスの中で聖書研究をしていたことが記された後、ウィリアム・ジェームズを引用しながら、≪私≫が生きている実感,ということは、分かっているようでわからない、ということが記されていましたね。そう、≪私≫が生きている実感ということは、誰もが知っていることですが、それをハッキリととらえることは、非常に難しい。
キリストの教えは、その≪私≫が生きている実感を,ハッキリ、クッキリとさせてくれるので、エリクソンはこの文書を書いているんですね。それは、「≪いまここ≫で生きる」という、晴れ晴れとしていて、愉快で楽しく、悦びに満ちた生き方そのものですね。
読者のみなさん、いましばらく、この「ガリラヤの言い伝えと≪私≫が生きている実感」の翻訳にお付き合いいただけましたら、次第に,≪私≫が生きている実感,とは何なのか? ハッキリしますよ。そうなれば、あなたも、毎日を、晴れ晴れとして,愉快で楽しく、悦びに満ちて生きることができるし,人や自然に対して,心から優しく関わりを始めることができますよ!