エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #1人豊か #うちゅうの目

2018-07-22 13:03:28 | 聖書の言葉から

 

 

 マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。

 

 

 ああ

 うちゅうが

 ぼくを みている

 

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#トラウマ体験 #逃げられない怖さの体験 #人質の生き方

2018-07-22 12:37:22 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 
#トラウマを生きる:#宇宙人
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 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
 6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.99,第3パラグラフ,5行目途中から。ここ何日かの部分もご一緒に。




 生きがい:命の持ち主になること


 「生きがい」とは,自分の人生は自分持ちと実感する実感に対する専門用語です。自分の立場を弁え,自分に起きていることに口を出す権利があることも分かっていますし,自分の状況は自分で作り出せる力もあることも知っています。アメリカ退役軍人局の建物の壁をぶち抜く退役軍人は,生きがいを主張しようとしていたんでしょう,事を起こしたかったんでしょう。しかし,結局は,一層,何もできないと感じて,かつては自信があった多くの人が,狂ったようなことと,引きこもりの間を右往左往する罠にかかっていました。

 生きがいは,科学者が内臓感覚と呼ぶものから生じます。内臓感覚とは,かすかな感覚,身体に由来する様々な感じです。内臓感覚に気づけば気づく程,自分の生活をコントロールする私どもの潜在能力も,大きくなります。自分が感じていることを意識することは,自分がなぜそのように感じるのかを意識する,最初の一歩です。もし,私どもが,身体の内の環境と,身体の外の環境の様々な変化を,刻一刻と気付いているなら,その内外の環境をコントロールするために動くことができます。しかし,私どもの見張り台である,内側前頭前野が,身体の内で何が起きているのかを見張ることができなければ,内外の環境の変化に気が付きません。ですから,マインドフルネスをするのですし,マインドフルネスは,内側前頭前野を強化してくれますから,トラウマから回復する1つの要石になります。

 素晴らしい映画「ペンギンの行進」を見た後で,私は患者さんたちのことを考えているのに気づきました。ペンギンは無心で忍耐強いものですから,ペンギンが,大昔から,何十キロも離れた内陸まで,海からトボトボ歩いて,信じられないほどの困難に耐えて,営巣地にたどり着き,生きられるたくさんの卵をさらして失い,それでまた,ほとんど食べるものも食べずに,大海まで舞い戻るのです。もし,ペンギンに,人間の前頭葉があれば,そのひれ足で氷の家を作り,よりよい分業を工夫し,食糧調達を考えなおすことでしょう。私どもの患者さんたちも,トラウマを生き延てくる時には,途轍もない程の勇気と忍耐が必要でしたし,結局は次から次へと,おんなじ問題をぶち当たってきたんです。トラウマは,患者さんたちの心の方位磁針を働かなくして,もっと,ましなことを創造するために必要な想像力を,奪っています。

 本当の自分生きがいの神経科学は,友人のピーター・レヴィンとパット・オグデンが開発した,様々な体感療法を支持しています。これと他の体感療法については,この本の第5部で,詳細に論じるつもりですが,体感療法の要は,3つです。

 1)トラウマが邪魔し,氷漬けにしている感覚情報を引き出す。

 2)患者が,内的体験をすることによって自由になったエネルギーを押さえつけるのではなくて,そのエネルギーを生かすように助ける。

 3)恐怖によって,身動きができず,押さえつけられ,どうしようもなくなっていた時にはできずにいた,自分を守る身体の動きができるようにする。

 腹が感じる感じは,何が安全で,何が人生を保ち,何が恐ろしいかを示します。それは,なぜそう感じるのかはうまく説明できない場合でも,同じです。私どもの感性が内的に促すことは,自分の身体が願っていることに関する,静かなる細き声です。腹が感じる感じは,近づいてくる男が,気味が悪いなぁと感じて警告したり,西向きの,カンゾウに囲まれた部屋は,穏やかな気持ちにしてくれます。自分の感性に心地よく繋がっていれば,すなわち,自分の感性が正確なことを教えてくれると信頼していれば,自分の身体,自分の気持ち,自分の本当の自分は,自分のものだ,と実感出来るでしょ

 ところが,トラウマを負わされた人々は,自分の身体の中にいつでも,危険を感じます。過去は,身体の中の辛い不快感となって繰り返されます。身体は,まるで,腹が警告する様々なサイレンで,砲撃れさているみたいですし,その砲撃から身を躱そうとします。トラウマを負わされた人たちは,腹が感じる感じを無視する専門家になっている場合がよくありますし,自分の身体の中で繰り広げられていることを全く感じない場合もよくあります。トラウマを負わされた人たちは,本当の自分から逃げ隠れしているわけです。

 人は,身体の内側から警告する様々な印を押し退け,無視しようとすればするほど,その様々な警告の印は,訳の分からず,混乱し,恥ずかしいものに,それだけなっていきます。身体の中で今起きていることを心地よく感じられない人々は,五感で感じていることが変わることに弱くなりますから,何も感じなくなるか,パニックになるかしてしまいます。こういう人たちは,恐れそのものを恐れるようになります。

 パニック症状が続くのは,パニック発作に伴う様々な体感を怖がるようになったから,という場合が多いことが分かっています。パニック発作の引き金になるのは,筋が通らないけれども,体感を身体中で感じそうで怖い,と男でも女でも,分かっている何かです。「怖くて身体がガチガチになる」ことや,「怖くて凍り付く」こと(気持ちが落ち込んで,何も感じなくなります)は,怖さとトラウマがどんな感じなのかが,正確に分かります。その怖さやトラウマの実感は,腹が感じる源があります。怖い経験とは,どうやっても逃れられない怖さに対する様々な原始的な反応からできています人々の生活は,この腹が感じた体験が変わらない限り,人質に取られてしまったままになります



 トラウマ体験は,逃げられない怖さを体験することだ,ということは,基本として覚えておいてほしいところです。

 

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#想像力の賜物

2018-07-22 10:42:12 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の言葉 :#ソリチュード、 #一人の豊かさ #ありのままの自分が確かにされる場所
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 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.100,第2パラグラフ,8行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。

 本気で遊ぶ年頃と感性通りに真似して :関わりを始めることと人真似

 

 それでは,まず,感性通りに真似をする原理です。思い出さなくてはいけないのは,イメージ遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,予定通りから外れたことを克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。

 しかし,ブロックでできた背の高いイメージは,ある種の勝利を表していますが,また,1つの十字架聖書の神様を象徴するものも示していることに思い至らざるを得ません。2人3人でも,ウソのない場が,遥か彼方の天国にまで,私どもを運んでくれます。「天国などは遥か彼方すぎて」,と身震いしていう人もいます。しかも,自分の解釈があっているのかどうか自信がないなどと考えるべきではありません。その解釈が,遊んでいる子どものコマゴマしたことに従っていなくてもいいし,1つのイメージを他のたくさんのイメージと比べなくてもいいんです。また,遠慮せずに,2人3人のウソのない場が生まれたことに注意を向けるべきでしょう。そうすれば,共通するイメージの物語を見分けることになるやもしれません。

 遊びで復活する舞台にピッタリなことですが,遊びのイメージの中には,対人関係の中に心が現れる視点で言えば,「自分の感性通り,腑に落ちる通りに,ことを始めても善いからね」という創造の目的として,私どもがお祈りにしてきたものがあることに気が付きます。遊ぶ年ごろは,子どもに小さな現実をプレゼントしますし,その小さな現実の中では,その子どもは,様々なおもちゃを使うことができます(その子どもの遊びを良しとして下さる者(訳注:聖書の神様とお母さん)のおかげで,その子どもは,自分の感性通り,腑に落ちる通りに,できるのです)。小さな現実で,自分の感性通りに遊ぶのは,過去に経験したことを,もう一度生きて,発達の予定表にピッタリに正して,もう一度神様の創造に参加しなおすためですし,将来の様々な役割ややり取りを,自分の自由意志から,繰り返し話し言葉にしたり出来事にすることで,先取りするためでもあります。これらのことは皆,神様の創造に参加する日常生活を礼拝にする礼拝の目印です。しかしながら,この年頃の遊びのテーマは,勝利した自己イメージを利用し,熱心にその格好をすることと,弱虫や悪者の「相手達」を全滅にすることになる場合が多い。心の中で一番違和感があるものは,子どもの頃は遊びの中で,外に出し,やっつけて,解決しようとするわけです。それは,チャンとしてない感じです。このように,その遊んでいる子どもは,おもちゃのある舞台で礼拝を初める中で,自分はどこまでだったら,やってもいいの? どちらに行ったら自分はチャンとしていないことになっちゃうの? という問いを遊びの中に出すように見える場合が多いものです。

 チャンとしてない感じはどれも,善悪を判断する裁判所のテーマに含まれるはずだ,と思う人もあることでしょう。しかし,1人の犯人は,定義からして,良心の教えに従わなかった訳です。ですから,少なくとも,証拠として挙げられたことを認めて,犯人を恥じ入らせる人たちによって,その犯人は,公にさらし者にされてなくてはなりません。その証拠によって,その犯人は有罪にはできますが,その犯人が,自分のせいですから,自分が悪うございました,と思うかは別の話です。本物のチャンとしてないと感じる実感は,唯一,いけなかったと「自分が」自分を強く非難することだけからしか,立ち現れない訳ですから,こんなことをしたら,たとえ,コッソリとやっても,人に知られるかもしれないし,人に知られれば,罰をもらうかもしれない,と想像することさえ,待てないのかもしれません。しかし,実際は,感性通りに真似をする原理が,私を創造する過程に生まれるのは,自分がチャンとしてないと感じる実感が遊びの中に避けがたく登場せざるを得ないことからです。

 

 

 チャンとしてないと感じる実感は,想像力の賜物。想像力がなければ,人はどんな悪いことでもするもの

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#見通しの賜物 #一巡する道で #聖書の神様 #全うなスピリット

2018-07-22 07:57:15 | エリクソンの発達臨床心理

 
#最深レベルの心理:#奇跡研究
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 発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com  但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。

 Identity and the life cycle  『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.67の,2行目途中からです。 その前も,ご一緒に。




 復活して生きる課題に対する見方は,それぞれですが,精神科医,産科医,小児科医,人類学者のみなさんでしたら,この人たちには親近感を覚えますが,きっと賛成してくれると思います,聖書の神様を根源的に信頼することが,迷って不信に傾くよりも,いつでも勝っている心の習慣(訳注:安定的な愛着)を不動にすることこそが,赤ちゃんの最初の(訳注:神様が課した)義務ですし,したがって,お母さんが赤ちゃんを心から大切にするために,一番初めにしなくてはならない義務でもあります。「聖書の神様を信頼する信頼が育つ」のは,赤ちゃんの頃の経験からですが,「食べ物や,大切にしていることを態度で示すこと」の絶対量で育つものではありません,むしろ,お母さんが2度生まれで復活していて,「どれだけ心から優しいか」次第で育つものです。お母さんたちが,子ども達の中に,慎ましい世話人としての心からの優しさによって,創造します。お母さんの慎ましい世話人としての,心からの優しさは,赤ちゃんひとりびとりのその子ならではのニーズに敏感に応えて大切にすることと,自分の仲間の生き方の,信頼できる土台の中で,自分には値打ちがあると堅く信頼していることの2つを1つにした優しさです。聖書の神様を信頼する心の習慣は,その子どもの中にある,聖書の神様と一心同体になって,自分が確かにされる心の習慣の土台です。この自分が聖書の神様と一体になって不動にされる心の習慣は,「大丈夫」と実感する心の習慣「腑に落ちる」と実感する心の習慣「そんな人になると他の人たちが信頼している人になれる」と実感する心の習慣を,一体にしたものです)。親たちは,「ダメでしょ」と「いいよ」と言って教える生き方だけではなくて,自分がやっていることには,1つの意味がある,ということに対する,深い,ほとんど身体に滲み出るほどの確信と言っていいほどの確信を,その子どもに示さなくてはなりません。この意味で,先祖から伝わってきた,聖書の神様を信頼して歩む中で,子どもを心から大切にして,真の平和を実現する全体像(訳注:神の国で神様の命が一巡している全体像)は,信頼を生み出す唯一の光です。ただし,この先祖から伝わった聖書の神様を信頼する歩みも,形ばかりのいろんな偽物になると,偽物の一つを取り上げただけでも,理に合わない上に,不必要でもある苦しみを子どもにもたらすことになるように思われます。ここで,ことを大きく分けるのは,先祖伝来の一つ一つを,親が子どもに強いるのが,先祖伝来の,聖書の神様を堅く信頼して「これこそ正しい生き方だ」と信頼する信頼からなのか,それとも,親が,赤ちゃんや子どもを管理監督することを取り違えて,自分の怒りをぶつけるため,不安を減らすため,口げんかに勝つために,子どもや他の人たち(義母,医者,聖職者)を道具にしているからなのか,親がどちらを選択しているかの差からです。

 変化の時代の中で(他にどんな時代が,私どもの思い出の中にあるのでしょうか),1つの世代が別の世代とが大きすぎて,先祖伝来の教えの一つ一つが,心乱すものになる場合が多い。母親の生き方が,自分の生き方とぶつかり,体験から学んだものの見立てが母親の生き方とぶつかり,体験から学んだものが引用する聖句が,自分の身勝手な生き方とぶつかりますから,このように様々なぶつかり合いがあると,母親は自分を信頼する信頼が心乱されることになる場合があります。しかも,アメリカ人の暮らしの中で起きた,大規模な変化(移民,移住,アメリカ化,産業化,都市化,機械化,など)によっても,母親たちは,ウソがなく,しかも,天国にまで至る,聖書の神様を信頼する信頼を赤ちゃんに伝える母親のお勤めの点で,心乱されやすくなっています。ですから,当たり前なことだといえるのは,ベンジャミン・スポックの(1945年の)本の第一章第1節のタイトルが「自分を信頼しなさい」であることです。しかしながら,体験から学んだ産科医や小児科医が,伝統が人々の絆を結び付けてきた代わりに,母親たちを安心させる言葉と道しるべを与えていることは確かでも,母親たちが,迷い,恐れ,怒り,言い争いすべてを告白するのを,心から聴き容れる司祭役をする暇がありませんね。どなたかが,母親たちの苦しみを心から聴き容れる(訳注:痛み,苦しみ,寂しさ,悔しさ,怒りを知っている仲間となる)司祭役になることは,一人ぼっちの若い母親たち心を満たすことができます。スポックのような本が一冊でも,(訳注:お母さんたちの)学習会で読まれる必要があるのかもしれませんよ。その学習会では,市民集会がスピリットを誠実に学びあうスピリットが創造されますから。つまり,その学習会では,母親たちがやる様々なことは,誰かがそういうから,良しとされるのではなくて,自分勝手な判断や的外れなことから自由に,様々な意見や様々な気持ちを言えて,良しとして下さるし,また,心からやさしい,神様の意志が,母親たちがやる様々なことを創造する場が1つできるから,良しされるわけです。

 この章は長くなり過ぎです。ここで論じている様々なことに関して,赤ちゃんから始めなくてはならないことは,残念です。赤ちゃんのことはほとんど分かりませんし,人間の心の深層についてもほとんど分かっていないんですから。しかし,創造的な(訳注:日常生活を礼拝にする)礼拝をすでに論じ始めていますから,子育てに関する世代から世代へと手渡しされてきた最高の習慣について一言申し上げなくてはなりません。この子育ての最高の習慣は,信頼を生み出すもの,すなわち,宗教と深く関係しています。

 これこれの言葉で,これこれの毎日の礼拝で,こう告白すべきだとか,こう告白すべきじゃないだとか,こうすべきだ,こうすべきじゃないだとかは,心理学者がわかるものではありません。むしろ,スピリットを日々礼拝する者が問わなくてはならないことは,礼拝をしながら,宗教や先祖伝来の言い伝えが,聖書の神様を信頼し確信することから生まれる,心からの優しさを創造する,生きた確信が,ウソのない空っぽの真心の中に満ち満ちているのかどうか,ということです。この生きた確信がお母さんの人格に染み渡ると,その子どもは,世の中はうまくできてるね,と聖書の神様を信頼する根源的信頼感を,繰り返し元気づけることができますからね。心の痛みを知ったものは,見逃せにできないのは,宗教がないことに本当は満足できずでいる人たちがごまんといる,ということですし,宗教がないことを自慢しているのは,空元気という人もごまんといる,ということです。方や,宗教の教理以外から,すなわち,仲間,仕事,社会的活動,学問,芸術から,聖書の神様を信頼する信頼を引き出している人もたくさんいます。また,口では,自分は聖書の神様を信頼しているといいながら,実際には,人生も人も信頼していない人も,ゴロゴロいますでしょ。こういったこと全てを頭に入れると,よく考えてみるに値すると思われるのは,宗教が何世紀にも渡って,聖書の神様を信頼する信頼の形で,いつくかの間隔を置きながら,信頼する心の習慣を回復するのに役立ってきた,ということです。ただし,宗教は,呪われる約束の悪の心の習慣に,分かりやすい形も,示しています。すべての宗教には,共通して,神様の命が一巡する道で,全てを見通す聖書の神様先見の明のある人たちに,子どもみたいに全てお任せする,ということがありますね。聖書の神様や先見の明のある人たちは,この世の幸運全うなスピリットを引き出してくれます。



 この世の幸運全うなスピリット

 それは,聖書の神様に子どもみたいに全てをお任せにすることから生まれるものです。

 それを,旧約聖書では,立ち返る,新約聖書では,信頼する,と言います。

 エリクソンは,新約聖書,特にパウロさんに従って,信頼する,という言葉を使っています。実際には,立ち返るという言葉も封印して使っていますが。

 信頼は,全てを見通す聖書の神様の賜物,見通しの賜物です。

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