マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
目がさめますと
頭の上にとおく星が一つ見えました
―よう光るのう…
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
目がさめますと
頭の上にとおく星が一つ見えました
―よう光るのう…
#うたた寝な私 #一つの筋道発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.103の,第2パラグラフから。その前も一緒に。
身体と仲良くする
トラウマを負わされた人たちが回復するのは,自分の身体の様々な感覚に馴染んで,仲良くするようになって,初めて可能になります。おっかない,と感じていることは,いつも守りの姿勢の身体の中で生きている,ということです。怒っている人は,怒っている身体の中で生きているんです。子どもの頃に大切にされなかった人たちの身体は,緊張状態で,しかも,守りの姿勢です。その状態が,ゆったりと自由になり,安全だと感じる道が1つでも見つかるまで続きます。変わるためには,人々が気づかなくてはならないのは,自分の五感と,身体が自分の周りの世の中の人とやり取りする道です。身体が確かにあると気づくことが,トラウマを負わされた残酷な過去から解放される,最初の一歩です。
どうして,人は様々な感覚と様々な感じからなる心の世界に,心開かれて冒険することができるんでしょうか? 私のやり方では,患者さんたちが,自分の身体の中にある様々な感じに,まずは気付いてもらって,次に,その感じを話し言葉にしてもらうことから始めます。その感じとは,怒りや不安や恐怖などの感情ではなくて,感情の底にある様々な体感で,押される感じ,熱い感じ,筋緊張,チクチクする感じ,へこんだ感じ,空っぽな感じなどです。しかも,その様々な体感が,自由になることと晴れ晴れと歓ぶことと一体になるように働きかけます。
エリクソンとピツタリ同じ。
体感を自分が生きている実感を生きる歓びと一体にするんです。
それが,発達トラウマ障害治療の要諦です。
The life cycle completed 『神様の命の一巡、できました』,p.81の第2パラグラフから。3訂版。
自分がまとまり、しかも、社会の仲間たちが,生きている実感を人生の法則にして,倫理的に生きるのが当たり前になりますと,心と心が響き合う人、人の痛みをホットケナイ関わり人が増えますし、たほうで,自分がまとまり,社会の仲間たちが,倫理的に生きるのが当たり前になりますと,心と心が響かない人や,人の痛みが分からない人を,非常に柔軟な,人間らしい生命力の中で、心響き,人の痛みが分かるような,とても善い関わりをしようとします。しかし、心が響き合わない人や人の痛みがわからない人は,個人にとっても,社会秩序にとっても,いつも脅威として残ります。ですから、歴史の流れの中では、森羅万象を一体と信頼する人々すべて(様々な宗教、価値、宇宙理論)は,人類全てが人の痛みがわかる人になれるようにします。それは,気高い「様々な心の気質」を幅広く組み合わせるのにピッタリするような関わりです。そのように森羅万象を一体と信頼する人々は,代わりばんこに,一人の人が発達するのに必要不可欠な役割をシッカリと果たしますから,森羅万象を一体と信頼する人々の倫理的な様々な生活習慣が,日常生活の中で,年齢にビッタリで,創造の舞台に相応しい,日常生活を日々礼拝にすることを通して,時に適って創造されます。
私が生きている実感が人生の法則とすることができますと,心を響き合わせ,人の痛みが判る人になれます。すると,心を響き合わせることができない人や人の痛みが判らない人が心響き合わせ,人の痛みが判るようになれるような関わりもできるようになります。それは,年にぴったりと合った,創造の舞台に相応しい,日常生活を日々礼拝にすることによって,時期に適った様々な倫理的な生活習慣をその都度,創造することによって可能になるんです。
それが,聖書の神様が予定している,創造の御業です。
ヤッホー!
エーリッヒ・フロムの The art of loving 『自分と人を大切にする生き方』から。
p104の10行目途中から。3回目の改訳です
いくつかの簡単な練習をすると良いでしょう。たとえば、楽な姿勢(前かがみでもなく、こわばった感じでもなく)で座る、眼を閉じてみる、眼の前の白い幕を見てみる、邪魔なイメージや考えすべてを取り除いて見る、そうしてから、自分の息に従って見る、息に従いながら息を感じることです。考えたりせずに,無理に考えないようともせずに,ただ息に従ってみる,「≪私≫が生きている実感」を感じようとすること、すなわち、私=自分自身とは、自分の様々な力の中心であり、自分の世界を創造する創造者を体感しようとすることです。少なくとも、毎朝20分、このような訓練の一つに集中するべきで、それができなければ、毎晩寝る前に訓練すべきでしょう。
息というのも不思議ですね。息があるから、私どもは生かされています。息は霊,すなわち,聖書の神様でもあるらしい。霊と訳されるプネウマ πνευμα も、その元々の意味は、息であり,聖書の神様なんですからね。息を感じると、聖書の神様というスピリットと出会い、ありのままの本当の自分自身になれるんですよね。