マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
人間は
五感を働かせていることが,
生きている
ということに
なるのでしょう。
マハトマ・まど・みちおさんの言葉から。
人間は
五感を働かせていることが,
生きている
ということに
なるのでしょう。
現世考 : #日野原重明さんの教え #ゆるす恕発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年......
ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』
6章。「身体を失くすと,本当の自分も失くすよ」,p.100の第4パラグラフから。その前も一緒に。
気持ちを表す言葉をなくすこと,アレキサイミア:いろんな気持ちを示す言葉が全くない
私には夫を亡くした叔母さんが一人いまして,痛ましいトラウマを負わされた成育歴のある人でした。その叔母さんは,我々子どもにとっては,実際にはおばあちゃんでした。その叔母さんはよく訪ねてきて,たくさんのことをしてくれました。カーテンを作ってくれたり,台所棚を配置換えしてくれたり,子どもの服を作ってくれたり。しかも,とても無口でした。叔母さんは人を喜ばせることに熱心でしたが,何が楽しいのかは分かりませんでした。楽しいことを互いに楽しんで,数日した後,会話が途切れて,長い沈黙を埋めるのに苦労しました。おばさんの訪問の最後の日,私は叔母さんを空港まで車で送りました。空港では,おばさんは,お別れのぎこちないハグをしながら,涙を流しました。皮肉ではなくて,叔母さんは,ローガン国際空港の冷たい風のせいで,涙ができるわ,とこぼしました。叔母さんの身体は,悲しみを感じていたのですが,おばさんの気持ちはそれが分らなかったんです。叔母さんは,若い夫婦の我が家,一番近しい健在の親戚を,離れていきました。
精神科医はこの現象をアレキサイミアと呼びます。ギリシャ語で,様々な気持ちを表す言葉がない,という意味です。トラウマを負わされた子ども等も,大人たちも,自分が何を感じているのかわからないのは,体感の意味が分からないからなんです。トラウマを負わされた人は,子どもでも大人でも,怒り爆発していても,「怒ってませんから」といいますもんね。怖そうな顔をしていても,「平気です」といいますしね。自分の身体が感じていることが分かりませんから,自分が必要と感じていることにも,無関心ですし,自分のことを気にかける試しもありません。それで,ちょうど善い時に,ちょうど善い程度に食べることもできませんし,必要な睡眠もとることもできません。
私の叔母みたいに,アレキサイミア(失感情語症)の人たちは,自分の気持ちを言葉にする代わりに,身体,態度で気持ちを示します。「時速100キロでトラックが突っ込んで来たら,どんな気持ちでしょうか?」と訊かれたら,たいていの人は,「そりゃ,怖いでしょ」,「恐怖で凍り付くわ」と応えるでしょう。アレキサイミア,失感情語症の人は,「どう感じかる? さあね,…ヒョイと避けたでしょ」という具合です。
アレキサイミアの人たち,発達トラウマ障害の人たちは,体感の意味が分からないから,トラックが突っ込んで来たら,と想像することもできません。ヒョイとよけられるつもりでいます。もちろく,大きな誤解です。ことほど左様に,自分の体感は,自分に関する情報源なのに,それが分からないばっかりに,発達トラウマ障害の人たちは,自分がどうして生きていったらいいのか,皆目見当がつかないままで,生きているという,拷問を受けることになります。
#一つも欠けた所がない平和:#シャローム発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.102,から。ここ数日分も,ご一緒に。
本気で遊ぶ年頃と生きている実感通りにやる :関わりを始めることと想像力
それでは,まず,生きている実感通りにやる原理です。思い出さなくてはいけないのは,イメージ遊びの,2,3のテーマです。それは,真似をして遊ぶことは,「本気で遊ぶ頃」が大いに進歩したことに土台があることを理解するためなんです。「本気で遊ぶ頃」のおかげで,その子どもは,手に入るもので,「対立した命の回転,役割にピッタリとあっている予定表」と,かなり自由になる,解像度の高い見通しとを創造します。思い出しますでしょ。あの(訳注:黒人の5歳の)少年がブロックで作ったイメージからは,1人の,真っすぐに立った身体が,両手を広げて,ダンスを踊っているのが分かりましたでしょ。しかし,そのイメージは,その黒人の少年をイメージした人形そのものでしたでしょ。その人形は,遊びでイメージを作ったその男の子を,性別でも,年恰好でも,人種でも,封印している姿に思えましたし,仰向けでしたが,その人形は,そのイメージの中で一番高いところを占めていました。その人形になった黒人少年は,1つの対立の(訳注:を和解に導く)半神でした。その対立は,その主題の枠組みだけしか分からないだけではなく,その個人的な意味も十分には解釈できません。しかし,この少年が短い物語が指摘しているのは,1人の田舎者,あの蛇(ずっと,地獄にいるように,強く非難されています),と,このようにして,卑しさと邪悪な危険を象徴するものです。と同時に,かなり高貴な動物たちが,その田舎者でもある,あの蛇を征服し,破壊するように,委託されていました。両腕を広げたその人々は,ワクワクした気持ちを表していますし,おそらくは,聖書の神様が創造する創造の予定通りから外れたことを克服した歓びも表しているのでしょうか? その罪は,その人たちが今も感じているものです。
しかし,ブロックでできた背の高いイメージは,ある種の勝利を表していますが,また,1つの十字架,聖書の神様を象徴するものも示していることに思い至らざるを得ません。2人3人でも,ウソのない場が,遥か彼方の天国にまで,私どもを運んでくれます。「天国などは遥か彼方すぎて」,と身震いしていう人もいます。しかも,自分の解釈があっているのかどうか自信がないなどと考えるべきではありません。その解釈が,遊んでいる子どものコマゴマしたことに従っていなくてもいいし,1つのイメージを他のたくさんのイメージと比べなくてもいいんです。また,遠慮せずに,2人3人のウソのない場が生まれたことに注意を向けるべきでしょう。そうすれば,共通するイメージの物語を見分けることになるやもしれません。
遊びで復活する舞台にピッタリなことですが,遊びのイメージの中には,対人関係の中に心が現れる視点で言えば,「生きている実感通りに,ことを始めても善いからね」という創造の目的として,私どもがお祈りにしてきたものがあることに気が付きます。遊ぶ年ごろは,子どもに小さな現実をプレゼントしますし,その小さな現実の中では,その子どもは,様々なおもちゃを使うことができます(その子どもの遊びを良しとして下さる者(訳注:聖書の神様とお母さん)のおかげで,その子どもは,自分が体感する生きている実感通りに,できるのです)。小さな現実で,自分が体感する生きている実感通りに遊ぶのは,過去に経験したことを,もう一度生きて,創造の予定表にピッタリに正して,もう一度神様の創造に参加しなおすためですし,将来の様々な役割ややり取りを,自分の自由意志から,繰り返し話し言葉にしたり出来事にすることで,先取りするためでもあります。これらのことは皆,神様の創造に参加する日常生活を礼拝にする礼拝の目印です。しかしながら,この年頃の遊びのテーマは,勝利した自己イメージを利用し,熱心にその格好をすることと,弱虫や悪者の「相手達」を全滅にすることになる場合が多い。心の中で一番違和感があるものは,子どもの頃は遊びの中で,外に出し,やっつけて,解決しようとするわけです。それは,「チャンとしてない感じ」です。このように,その遊んでいる子どもは,おもちゃのある舞台で礼拝を初める中で,自分はどこまでだったら,やってもいいの? どちらに行ったら自分はチャンとしていないことになっちゃうの? という問いを遊びの中に出すように見える場合が多いものです。
チャンとしてない感じはどれも,善悪を判断する裁判所のテーマに含まれるはずだ,と思う人もあることでしょう。しかし,1人の犯人は,定義からして,良心の教えに従わなかった訳です。ですから,少なくとも,証拠として挙げられたことを認めて,犯人を恥じ入らせる人たちによって,その犯人は,公にさらし者にされてなくてはなりません。その証拠によって,その犯人は有罪にはできますが,その犯人が,自分のせいですから,自分が悪うございました,と思うかは別の話です。本物のチャンとしてないと感じる実感は,唯一,いけなかったと「自分が」自分を強く非難することだけからしか,立ち現れない訳ですから,こんなことをしたら,たとえ,コッソリとやっても,人に知られるかもしれないし,人に知られれば,罰をもらうかもしれない,と想像することさえ,待てないのかもしれません。しかし,実際は,自分が生きている実感通りにやる原理が,私が創造される過程に生まれるのは,自分がチャンとしてないと感じる実感が遊びの中に避けがたく登場せざるを得ないことからです。でも,一人遊びのどこに,やり取りがあるの?と訊く人があるかもしれません。1つの事例を取り上げるのは,とても特殊な状況からです。つまり,子どもの想像力を,私どもが,想像力のヒントになるために選んだおもちゃを使って,守られた場で,テストする,計画的に発達する場から取られています。しかしながら,日常生活の場でも,子どもは遊びの世界を使って,同じことをするものです。その遊びの世界が,自然からできたものでも,人が作ったものでも,あるいは,先祖伝来の遊びでも,即興の遊びでも,その遊びの世界から,子どもの願いが判ります。
子どものころの遊びは,いろんな自分のイメージといろいろな他者のイメージで実験する中で,精神分析家が「自分の元型」と呼ぶものを,一番上手に表現しています。「自分の元型」とは,自分が見上げた自分の一部ですし,少なくとも,理想的な物語の中で理想的な役者として自分を想像する限りで,自分の理想ですし,なおかつ,物差しに合わないものには,罰と村八分があります。このように,私どもは実験して,一つの空想のシーンを想像する中で,元型となる命が一巡する日常生活の聖なる礼拝と,命が一巡しない日常生活の悪い礼拝の準備が整います。もちろん,この日常生活の聖なる礼拝と悪い礼拝は,私どもがどちらの日常生活をすることになるのかを,超越しています。そして,日常生活を礼拝にすることが日常生活を超越する時,子どもの想像力は,日常生活を礼拝にする礼拝にすることがもたらす光の国と,いつでもどこでも,自由にやり取りします。その光の国は,様々な絵本やおとぎ話,様々な神話や寓話に出てきまして,人間の様々なイメージの中の最高の人と最悪の人が,互いに逆向きに回転して,釣り合っています。
しかし,聖書の神様が創造する創造の予定説に心を向けてみましょうね。予定説の発達では,感性通りにやる原理は,元に戻るのではありません。感性通りにやる原理は,身震いするほどの驚きと圧倒的な歓びと感謝に溢れるヌミノースの原理やルールを話し言葉にする原理と一体になるんですし,私が創造される過程でまだ辿っていない様々な原理とも一体になるものです。自分が生きている実感通りに実行すること,自分が生きている実感を信頼して,子どもみたいに自分の感性に全てお任せにして一体になること。日常生活を礼拝にする礼拝も,日曜礼拝も,宗教的礼拝も,自分が生きている実感通りにやる原理がないものは1つもありません。
死に至る,チャンとしてないことのテーマは,日常生活を礼拝にする上でも,もう1つのテーマです。ただし,チャンとしてない感じは,大きな悲しみの中で,本領を発揮します。おもちゃの舞台での遊びと,ドラマや宗教儀式で演じられる遊びは,かなりテーマが共通していますから,フロイトさんは,遊ぶ年頃に心の中に出来上がる,チャンとしてないという大きな繋がりに,悲劇の主人公,エディプスの名前がつけた程です。というのも,遊ぶ年頃に空想する生活を支配する生きている実感通りにことを始めてもいいと感じる全ての中では,同性の親に似ようと考えるのではなくて,同性の親に,実際に取って代わろう,などと考えることは,禁じられているからです。それは,もっと実現しやすい役割を犠牲にしてしまうからでしょう。
様々な精神病理学が,遊びの年頃をどのように特色づけて,遊びの年頃から生じる神経症的な傾向をどのように特色づけるんでしょうか? チャンとしてない感じが重すぎると,自分の頭で考えることもできなくなりますし,自分でかかわりを始めることも禁じられてしまいます。この心の病が,言葉のあらゆる意味で,「ことを始める者」の悲劇,ハムレットに出てくるのは,偶然であるはずもありません。父親を殺した犯人に復讐することも禁じられ,父親の王冠と夫婦関係を奪うことも禁じられています。エディプスの舞台では,赤ちゃんとお母さんのぶつかり合いが未解決であるために,自分が生きている実感を生きることが,禁じられているわけです。
赤ちゃんとお母さんのぶつかり合いが未解決なことが,いかに深刻かがわかりますね。お母さんが,心を響き合わせることを習慣にできていないのは,ぶつかり合いがあって,神様の命の一巡ができていないからです。
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発達トラウマ障害(DTD)のご相談は,こちらへ。agape☆gmail.com 但し,全て半角にしてから,☆→1430777@に変換してください。当方,年間70~80ケースの発達トラウマ障害(DTD)セラピーをしてきていかなりのケースが善くなっていますよ。あなたも是非位一度連絡してください。料金は,母子家庭などは,割り引きます。
Identity and the life cycle 『神様と一心同体になること と 神様の命が一巡すること』 p.68の,第4パラグラフからです。 その前も,ご一緒に。
≪私≫が生きている実感に則って行動して善いこと 対 ≪私≫が生きている実感に恥を感じて,それが親がいけないのか自分が悪いのか迷うこと
スポックの本『1歳の赤ちゃん』,『上手な子育て』で論じられている項目を見渡してみると,私どもは,我が家には,このような問いを発する被造物達はいなくても,自分が子どもと様々な言い争いをして,勝ったり,負けたりしている現実を思い起こすことができますでしょ。
元気いっぱい
冒険したい気持ち
もっと頼りたいし,同時に,もっと1人でやりたい気持ちになる。
あちこちに動き回る赤ちゃんのために,家の中を配置換え
事故を防ぐ
赤ちゃんの手の届くところに,毒になるものを置かない時
自分のことは自分でできるようにするにはどうすればいいのか?
物を落としたり,投げたりすること
子ども達が自分の攻撃的な気持ちを収めるようになる
噛みつく人間
寝る時間を良い時間にする
夜になっても寝ようとしない幼子
私が選んだ項目は,ここで示した様々な問題の一覧表と範囲をお伝えしようとしています。ただし,ここでは,スポック先生の優れたアドヴァイスやバランスの良さを検討しません。このバランスの良さは,とても分かりやすく,しかも,事実に即して描いている点ですが,子育ての場は,ほかの創造の舞台でも,この優れたアドヴァイスとバランスの良さに従って生きるのが善いでしょう。それにもかかわらず,不吉な様々な力の兆しが1つあります。その不吉な力は,方や縛り付けられた,方や解き放たれますが,特に,対等でない親子2人の意志が不定期にぶつかり合う時には,子どもの不吉な力は我慢させられるのに,親の不吉な力は解き放たれてしまいます。というのも,その子どもは,自分の暴力的な衝動と釣り合いませんし,親子も互いに対等ではありませんから。
この創造の舞台で,何よりも大事なことは,筋肉が育って,その結果できることも増えてくることです(できない,と感じることも二重になります)。その筋肉の働きも,その結果できることも,「我慢する」と「手放す」という2つの非常に相矛盾する行動バターンと,とても大きな価値を,結び付けて一体と見なすためです。そのとても大きな価値とは,まだまだ人に頼りっきりの幼子が,自分が生きている実感を自分の法則,自分が生きていくときの人生の習慣にしたいと願う願いを与えられ始めるものです。
精神分析が私どもの言葉を豊かにしてくれたのは,「お尻の穴」という言葉です。「お尻の穴」とは,特別な心地よさと強情さを示し,この創造の舞台では,様々な出す所と関係します。お腹や膀胱を,できるだけ空っぽにするすべての道は,「心地よく感じる」ご褒美で始まるものです。上手にできると,「上手,上手」と言われます。このご褒美は,人生の始まりにおいて,お腹が毎日仕事をする時の不快感や緊張を埋め合わせるはずです。赤ちゃんとお母さんは,赤ちゃんが,≪私≫が生きている実感を引っ込めずに済むように,聖書の神様の命の一巡を与え合うようになります。
ここも封印が効いていますから,邦訳本は大間違いしているはずです。
自分が生きている実感を,引っ込めるのではなくて,自分の法則にすること,自分の人生の習慣にすることが,母親が心を響かせた関係を習慣にすると,実現するわけです。