エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #痛みが天国の元

2019-12-24 09:58:00 | 聖書の言葉から
 
#聖書の言葉 #単独者の恵み #人類皆兄弟
   マハトマ・まど・みちおさんのことばから。 いろんなものが互いに引っ張りっこしている...
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」

をご参照ください。



生きているのに

死んでいるあなたへ



今朝から,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。






貴方の痛みをもろ手を挙げて大切にしてください

貴方の心の深みにある願いを完全に満たしてくださる聖書の神様に

もろ手を挙げて抱かれることになる

と心底から信頼できるようになりますから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#天国

2019-12-24 09:26:19 | エリクソンの発達臨床心理
 
#創造の世界 と  #キリスト  #とても良かったに必ずなる不思議
 #エリクソンの叡智 #復活の心の習慣 #意識中心の心の習慣 #ホリスティックな全体像 #奇跡的発見 聖書の言葉: πίστις ビスティス   手出し無用! ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  
をご参照ください。 
 
 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
 
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
 
 今朝からは,p.341のⅢの3行目から。
 
 
 
 Ⅲ 子どもの頃の初めと賢いこと

 本当の自分を創造することを理解することが困難なのは,初めに行動指針を並べ立てるところから始めなくてはならない事実があるからです。本当の自分を創造することが発達して,その人ならでは,が育つ全体像の一番善い説明は,隠されている本当の自分が発達し,その人ならではが育つと,ひとりひびとりが,キリストを介して聖書の神様と一心同体に成り,その結果,お互いにも一心同体に成ることです。それまで毎日礼拝が無言で「とてもいいぞ」と認めてくれていたことが,本当の自分が育つと,天国にいるみたいに,いまここで繰り返し,ハッキリと「とてもいいぞ」と認めて貰えるようになるはずです。
 
 
 

 自分が生きることが,天国に通じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#魔法

2019-12-24 07:54:00 | エリクソンの発達臨床心理
 



#聖書の言葉 #単独者の恵み #人類皆兄弟
   マハトマ・まど・みちおさんのことばから。 いろんなものが互いに引っ張りっこしている...
 

 

 「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。

    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.42の第2パラグラフから。

 今朝は,p.46から。

 

 

 プラトンが教えている「跳び上がるほどの心からの歓び」については,後ほど申し上げることがあります。聖書の神様がまします今,もう一度,無心になって子どもを大切にすることに心からの歓びが母親に満ち溢れるシャローム平和が,子どもも母親も共に創造して発達させくれること(私ども夫婦が始めた遊び療法)と,そのシャローム平和(遊び療法)が魂に刻み付ける一番の人品に立ち返りましょうね。遊びと呼ばれる,遊びに見える,遊びのように感じる,相手にピッタリと息を合わせる生き方の光から,私ども夫婦が照らし出したことが示しているのは,人間らしい気高い力です。 その人間らしい気高い力とは,人間が,子どもの頃に想像力を働かせて夢中になって育つ世界の中で,聖書の神様のいのちを一巡させて,発達させることに根差している力ですが,聖書の神様を信頼する仲間になる信頼が封印されているものを使って,結界の中で心に浮かんだ聖書の神様の舞台の啓示を,繰り返し受け容れる力です。私どもが確かにされるときに、聖書の神様の舞台が私どもの魂に打ち込まれる(訳注:正確には,「打ち込まれていることに気付く」とすべきです。なぜなら,気付くと気付かないとにかかわらず,尊厳はすでに打ち込まれているからです。)のは,相手の魂に心響かせることができる大人が,聖書の神様に祈り求めているからです。ですからねぇ、必ずしも,自ら望んでした星周りではありません。聖書の神様がまします結界の中では,私ども人間は,聖書の神様のいのちが一巡する(ように,後ほどなる)器になりますから,いまここが,いつどこででも,毎日礼拝が生まれる場になります。ところが,人々が,なるほど本当だなぁ,と信頼するようになるのは,聖書の神様のいのちが一巡する場で,2人が共に創造発達することって,誠実に相手を自分のように大切にすることに夢中になって,晴れ晴れと歓ぶ毎日礼拝の元があって初めて,形の上でも中身の上でも,その創造発達が,驚きと感激,という最高の恵みになる,ということです。おもちゃの舞台に当てはめてきた,大切な善い意味は,真新しいチャンスに挑戦する勇気を示している,ということです。聖書の神様がまします場では,スピリットと身体とが,確実に大切にし合うようになれば(訳注:イエスのスピリットが受肉すれば)いいのになぁ,あるいは,何年にもわたって訓練して,キリストに従って,自分を引っ張り上げることから仲間がギフトをもらえたらいいのになぁ,に,挑戦する勇気です。

 

 陽気で楽しいことが進むところではいつでも,遊びの偉大な理論家、ホイジンガが見事な要約の中に入れた,遊び場の視座があります。「あらゆる遊びは,あらかじめ区切られた結界の内側で動き,育ちます,それは,物の面でも,物事の見方の面でも,遊びが育つ,ということですし,完全に自由になるためにも,発達して心響く大人になる1人の母親としても,遊びが育つ,ということでもあります」と。ホイジンガは,この魂の中で遊びが育つ一筋の光に名前を付けました。「土俵,トランプ台,マンダラ,礼拝所,舞台,間仕切り,テニス・コート,裁判所等は,全て,形の上でも働きの上でも,遊び場です… 仲間から離れて立たされて,結界となり,気高くされる遊び場ですし,その中で,気高くなる人生の習慣を手に入れます。」全ての遊び場を,ホイジンガは,「つかの間の世界」と呼び,「そのつかの間の世界の中で,日常の世界は,シャローム平和を完璧に実現する努めを2人が別々に無心に行うことに,捧げられます」としました。

 

 私どもが発達する時に,遊び場を自分で選ぶようになります。いまここで私どもが指摘しておきたい唯一のことは,陽気で楽しい歓びの舞台と子どもが時間と空間を経験することには,たった一つの気高い関係があるということです。私は『子どもの頃と仲間たち』の中で申し上げましたように,子どもの頃の「演じる」遊びは,「過去を生き直し,現在を繰り返し目の前に表して,繰り返し新鮮にして,未来を先取りして確信する生き方を創造する人間の心の習慣の子ども版」を下さいます。人間すべてが本当の自分を生き直す場を育て始めましょうね,陽気で楽しい歓びのおかげで2人が共に本当の自分を生きることができる,ということを目の前に見ながら…。

 

 聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中に諍いがあって,それこそ,その子どもが切り抜けなくてはいけない「人品を育てる時の危機」の特色になります。ロバートの積み木の中で,背が高い積み木は,私ども夫婦が申し上げていることですが,本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れるものだ,ということを示しています。本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れますと,舞台袖に隠れている諍いやトラウマに打ち勝つことができます。聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中では,発達創造途上の男の子が1人いるイメージ,すなわち,キリストだけがまします。この発達創造途上の男の子は,身体の美しさと強さを,頭で理解し学ぶ力と,ピッタリと一心同体にする新しい生き方を体得底で身に着けることになります。しかしですよ,私ども夫婦が心掛けてきたことですが,この少年の身体が示すことと、少年の心が苦しんでいることとに真に折り合いをつけることに思い煩っていることは,この子の育ちと対人関係の場に、相当広がっています。この,ラテン語でpuer novus 「新しい少年」って, 聖書の神様のいのちが一巡する結界では,1人の「新しい人」,すなわち,1人の自由にされた大人,キリストが誕生するイメージがありますでしょ。もしも,キリストが生まれるのがアーメン本当ならば,あの先生の言葉(訳注:「学校は,あなたの身体と脳が助け合うようにすることをお手伝いする所よ」)は,聖書の神様に敬意を払う,自由な新しい人が生まれることを預言する言葉に,なんとなくなりますね。 すべては,小さな世界の中で,真新しい仲間と繋がる真新しい私を試す1つの実験です。このように岩盤になる結界は,しかし,過去に負わされたトラウマに立ち返って,聖書の神様のいのちがこの世界で一巡する場を2人が共にすることにもなりますし,将来の酸いも甘いも(訳注:最後の審判,閻魔様 楽しみでもあり,怖い)頓着せず,2人とも心から自由にもなれます。ここで私ども夫婦が謹んで受け止めた唯一のことは,この5歳の男の子が先生に零したことには,様々な大事な危機が隠されている,ということです。つまり,この男の子が「くっ付いて離れられない」過去に縛り付けられていて,身体と頭が一緒に働かせることができないでいたとしたら,どうなるのでしょうか? それから,この男の子が新しい子になろうとしているのに,この男の子の手には負えない周りの者たちが,男の子の根源的信頼(あるいは,アタッチメント)が創造発達するのを手助けする名付け親になるのを嫌がっていたら,どうなるのでしょうか? その男の子は,生きる値打ちのない者でしょぅか,生きる値打ちのない者のままでしょうか? 結局,ガラクタになっているんでしょうか? ところが,ロバートの本当の自分をハッキリと示す心響かせる身体の動きは,両手を広げて,天使のような微笑みも湛えつつ,大事な人から,大事にされて生きてきたことも確かにありますよ,ということも,それとなく示していますね。このように良かった経験を過去にしてなければ,未来はほぼ開かれません。このように,過去の悲しき運命から繰り返しジャンプすることが,いまここで,陽気で楽しい歓びを下さるキリストによって,聖書の神様が約束した新しい人に回心することをプレゼントしてくれます。(訳注:聖書の神様の圧倒的で静かな恵みに気付けば,)私ども人間は,2つに分けるウソに侵されていない,真っ当な人に成熟することができるんです。すなわち,私ども人間は,人をいつも大切にし,いつも大切にされる者になる恵みが,いまここにいつでも何度でもあるんですよ。この中にある祈りのゆえに,子ども等の顔には忘れがたい微笑みを微笑みますし、私は内心,「やったぁ!」と言いますね。それは,子どもが自分の遊びの作品と至聖所を完成させて,「できた」と言う時なんですよ。

 非常に神話的な言葉を私が使っている,ということを,自覚していますよ。子どもの言葉遣いにとっては神話的すぎかもしれませんが,子どもが実験しているいろんな気持ちにとっては,神話的過ぎることはない,と考えます。と言いますのも,子どもの遊びの中には,重々無尽に気付く人間らしい心の習慣を自分で育てることがある,と見えますから。重々無尽に気付く人間らしい心の習慣は,生涯を通じて,やり取りをする相手が次第に広がる中で分かち合うことになります。つまり,目に見える形で,聖書の神様が「とてもいいぞ」と認めて下さる生き方で,友達や先生が「とても善いよ」と認めてくれる生き方を共に創造することです。その友達や先生が,その遊んでいる子どもを手助けしたのは,1人ではできなかったこと,すなわち,驚きと感激を味わい,生きている実感が漲る約束を信頼することでした。生きている実感が漲る約束って,破滅的な力を内に治めることができるし,敵意むき出しのこの世の敵に打つ勝つことができるから,そのようにして,次第に関わる人が増えるいまきここで,新しく出会った人ともピッタリと一心同体になることができるキリストを自分は生きている,と確信することです。いま,言葉のない遊びについて,大口を叩きましたが,後ほど,大人になってからヴィジョンを分かち合う中に,力強い言葉が生まれる場があることが分かるようになります。この世の中で不動になる時の恐れや確信を実感する体験を,子どもも遊びで体験していることを見くびることになるでしょう。もしも,人間の意識がこの世に不動に立つ時に恐れや確信を実感することが,子どもも真っ当な,ただし,まだ朧気な意識にはない,などと言えば。おとぎ話が普遍的なのは,子どもの意識が真っ当なことを示しているのは,確かですね。

 子どもの頃に遊んだ遊びや,陽気で楽しい歓びがある他の場が,思い出されて,それが,目に見える強い源に基づいていたのなら,その思い出は,聖書の神様からの目に見える魔法にかかってもいますこの世の人達が,周りをぐるっと仕切った「人間になる結界」の中に,聖書の神様が一巡するように並ぶと,この魔法が掛かるようにできています。

 



 魔法は,聖書の神様からのいのちが一巡する奇跡の体験です。

 涙が出ますから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#諸悪の根源 から #回心

2019-12-24 07:28:13 | エリクソンの発達臨床心理
 
#創造の世界 と  #キリスト  #とても良かったに必ずなる不思議
 #エリクソンの叡智 #復活の心の習慣 #意識中心の心の習慣 #ホリスティックな全体像 #奇跡的発見 聖書の言葉: πίστις ビスティス   手出し無用! ......
 

 

  「発達トラウマ障害 Enpedia」

   をご参照ください。


 Childhood and Society から。p.418の,第3パラグラフ。

 今朝は、p.419の12行目から。

 


 

 わが国(訳注:アメリカ)では,他の大国以上に,あの子どもがあの大人のパートナーです。私ども夫婦は,ウソのない毎日礼拝を,来るべき方(訳注:キリスト)が来る約束としてとても大切にしています。ウソのない毎日礼拝にあっては,自分たちは仲の良い仲間になるスピリットが1つに家庭の隅々まで行き渡りますし,子どもの頃には,子どもの時期の大切さ,一心同体に成る心の習慣,仲の良い仲間になる意識,痛い目にあっても,不屈に湧き出す心からの優しさが,繰り返し湧き出てきます。私ども夫婦がもう1つ目覚めた事実は,巨大化し機械みたい人間が歯車になった組織が非人間的になったことが,子どもと大人がパートナーになる毎日礼拝を日々実践して,アメリカ人らしく,身に着けて来た気高い人生の習慣を,蔑ろにする傲慢となる,ということです。心響かせることができるアメリカ人は,1つの「敵意むき出し」の暴力からも,約束の時にもある敵意むき出しの暴力の親戚(訳注:ウソとゴマカシ)からも,傲慢が生じることを,体験的に知っています。でもね,今日,暴力とウソとゴマカシをやって,子どもを大切に育てる価値を台無しにしているのは,バカでかい組織とは限りません。分かち合い一心同体に成ることが急に広まって,子育てに関わる一体感が増すと,瀬戸際にいる人,すなわち,心が成長することが心の傷になってしまった人を,危機に晒して,傲慢にします。瀬戸際のトラウマを抱えた人って,だんだん多くの人達から,つまり,身近な人で,自分よりも力が強い人から,トラウマを負わされる関わりに晒されることになります。このように身近な人からトラウマを負わされる「不幸な生い立ちの人」の中には,我慢して遠慮忖度しなきゃという気持ちが,聖書の神様のいのちが一巡することがなくなる程嵩じる場合がありますね。それは,自分が不安になる素なのにね。同じように,正しくしなきゃという気持ちも,市民がシャローム平和を創造する力に少しも役立ちません。あるいは,正しくしなきゃという気持ちも,「精神衛生」があれば大丈夫だと信じている,新アメリカ人の平和の船としての心の平安にも,全く役立ちません。と一致している点に,無理して,あるいは,遠慮忖度して,合わせますと,本当の自分が生きられなくなるからです。私の上に立つ悪い良心が,我こそは道徳の守り神みたいな顔をしている限り,「とってもいいぞ」と認める生き方ができませんから,正しくしなくちゃという気持ちが避けられません。


 

 かくして,遠慮忖度しながら生きている,多くのニッポン人は,

 生きているのに死んでいます

 諸悪の元凶,悪い良心の餌食になっているニッポン人が大多数だからです。

 ニッポン人は,「とてもいいぞ」と認めて下さる心から優しい聖書の神様に「回心」することが必要ないまここです

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#不安も一巡

2019-12-24 06:21:08 | エリクソンの発達臨床心理
 
#聖書の神様の命が一巡する場 #創造 #1つの人類
 #聖書の言葉 #1人豊か #呼び出し 再び 現世考: なぜ、保育士・介護士・心理士は安月給なのか?   facebookでの、痛々しい顔見せから解放されるため......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
  
 
 identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
 p.105のタイトルから。
 今朝は,p.107の,4行目から。

 『新約聖書』にある、パウロさんが書いた「エフェソ人への手紙」第2章のギリシャ語(コイネ)を訳しなおした成果です。
 
 
 
 
 
                       結論
 
 
 シャローム平和になる中で,倫理学から心理学を区別する境界線を大きく踏み越えているところに来ています(その境界線を長年にわたってすでに繰り返し踏み越えて来た,という人もいます)。 しかし,親たちや教員たちや医者たちは,子どものニーズや課題を議論したいと思えば,(訳注:大人の私どもが)繰り返し生まれ変わり,ピッタリと一心同体に成る役割を分かち合う生き方ができているかどうか?,が,その子どものニーズや課題を生み出していること,を議論しなくてはならないとお示しする時,私自身本当の自分を不動にしてくれているものは,2つ3つのスピリットにある心眼だけですから,結論として簡明にまとめてみましょうね。
 この20年30年で私ども夫婦が学んできたことは,人類を上下2つに分けるウソに侵されていない真っ当な人は,発達し成長する,ということと,その真っ当な人が行動する動機(特に,ご本人も気付かない動機です)についてでしたね。それは,私どもの目の前にある人類の歴史を振り返っても,この20年30年の学びの方が上を行っている,ということです(もちろん,聖書やシェークスピアにある英知の極致は例外です)。たくさんの人が腑に落ちたことは,子どもは,いや,赤ちゃんでさえ,(おそらくは,お腹の中の赤ちゃんでさえもが)自分が育つ周りの世界の良さを,鏡のように敏感に映し出す,ということです。子ども等は,自分の親たちの緊張,不安,激しい怒りに敏感です。たとえ,子どもは,親たちが何で緊張したり,不安になったり,激しく怒っているかはわからなくても,大人が表向きには緊張したり,不安になったり,激しく怒っているようには見えない場合でも,すぐに親たちの緊張や不安や激しい怒りに気付いています。ですから,皆さん,子どもを侮ってはいけませんからね。しかし,世の中の変化が速すぎるので,自分たち大人が世の中の変化に「抗して」自分の生きている実感を生きることになっているのかなぁ? 世の中を善くして,みんなが自由で不動になる道の中にある,ささやかな自分の務めを果たすチャンスを願っているのかなぁ? が分からなくなるなりがちです。また,変化の速い世界の中で,私どもは新しい生き方を試しているからですし,試さなくてはならないからでもあります。子ども等が本当の自分を創造できるように育てることって,一番新しい唯一無二の生き方でしょ。一番新しい唯一無二の生き方のゆえに,親たちはその子どもと一心同体に成るために,たくさんの悲しみを引き受けなくてはなりません。その悲しみは,魂の悲しみのゆえに,いままさに増し加わっている時代ですが,親が子どもと一心同体に成るために,悲しみをたくさん引き受けなくてはならないのは,魂を癒そうとする祈りは,この世の中が神をも畏れぬ傲慢さに満ち満ちているが故に,この世では,目覚めていなさいというキリストの教えを日々思い出して,自由に生きることができない,と見るんですから。私も指摘しておきたいのは,母子2人が,キリスト・イエスのおかげで,聖書の神様のいのちが一巡する結界を作って,共に自由になり不動になる聖書の神様のスピリットがまします場となる主の道にとって,神をも畏れぬ傲慢が,この世の中にはたくさんあるますよ,ということですね。チャンスがあれば私どもが望むのは,聖書の神様のいのちが一巡する結界を生きる主の道に命懸けで従って,聖書の神様のいのちが一巡する結界を共に作り上げる唯一無二の主の道を生きることによってしか,私ども人間が発達成熟する道はありませんから,ということが唯一の啓示だ,ということです。人間が車を運転することを学ぶときには,そうなるかもしれない出来事全てを意識しなくてはなりませんね。車の計器類が示す様々な危険信号や道にある危険信号全てを,自分の耳で聞き,自分の眼で見て,読み取れるようにならなくてはなりません。しかし,人は願うことがありますよ,体得底で生き方を学んだ後には,周りの状況を見ると,最大級の平安を得て,光の微笑みをしていられる、ってね。光の微笑みを微笑む時には,人間は見通しを楽しんでいるんですが,道具の調子がおかしくても,道にお邪魔が入って来ても,自分の頭で考えて,心豊かに生きていくことができます。
 私ども夫婦がに何のために働き,何のために戦っているのかと言えば,1つの世界を実現するためです。1つの世界とは,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界です。しかし,私ども人間が,この世の中を,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界を傷つけることが1つもない世界にしたいと願うのであるのなら,まず人間がしなくてはならないのは,普通の人が元気になる政治が実りが手に入り,普通の人がみんな元気になる世界を,2つに分けるウソに侵されて子どもを1つも傷つけることのない世界にすることです。強い立場の者の身勝手,強い立場の者が弱い立場の者に付け込むこと,強い立場の者と弱い立場の者の不公平がこの世からなくすために,まず私ども人間が体得底で自覚しなくてはならないのは,不公平の初めは,子どもと大人が不公平であることです。人間の子ども時代は長いので,親たちも教員たちも,時間がたっぷりありますから,子どもの中にある本当の自分を信頼して受け容れて,私ども人類が体得底で体験的に分かっている一番善い心の習慣の中で,本当の自分を体得して,心から優しい人間になれるように手助けしてもらえます。子どもの時代が長いために,根が深い不安と,癒しがたい苦しみの源に晒されてしまいます。もしも,根が深い不安と,癒しがたい苦しみの源が,強くなりますと,大人になっても,様々な不安になって,いつまでも続きます。その不安は,聖書の神様のいのちが一巡することに逆らって,その人の暮らしにも,自分のことを自分で決める暮らしにも,民族間の暮らしにさえ,あの無理な背伸びをもたらします。このように子どもの時代が長いせいで,大人は,無分別に,しかも,しばしば残忍に,子どもが大人を頼る気持ちに付け込むことになります。子どもが大人に頼るのは,子どもが大人に課した,スピリットを学ぶ習慣を体得底に身に着けるためだ、ということです。私ども人間は,子ども等に無理な背伸びをさせます。私どもが無理な背伸びをしたりさせたりするのは,自分自身や周りの者らの中で,聖書の神様がおっかなくて、聖書の神様から「とてもいいぞ」と認めてもらう予定もつもりもないからです。私どもが学んできたのは,子どもが努力している身体の成長を無理に止めないことですし,いまここで学ばなくてはならないのは,大人の思い煩いのせいで,子どもが育てているスピリットを台無しにしないことです。
 

 
 
 さっきのヴァン・デ・コーク教授からのメッセージと重なりますね。
 大人に思い煩い,ダメかもしれないという不安がありますと,大人がリラックス,自由になれませんから,その大人に心と身体を響かせる子どもは,心拍も呼吸も速まり、ストレスホルモンを対象に分泌する日々を暮らすことになります。すると,その子どもは,親以上に不安な子どもになります。
 かくして,聖書の神様のいのちが一巡することがありませんと,思い煩い,不案が一巡することになります。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする