「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
毎日礼拝
それは私にとっては
神様は心から優しい
ことに「本当にそうです」
といつも何度でも応えることです。
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生きているのに
死んでいるあなたへ
今朝も,ヘンリー・ナウエンさんの言葉から。
毎日礼拝
それは私にとっては
神様は心から優しい
ことに「本当にそうです」
といつも何度でも応えることです。
#解離 #その困難ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大......
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ヴァン・デ・コーク教授の The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。
p.113のブランク後から。
今朝は,p.114の第4パラグラフの,下から2行目から。
心響かせることに身を入れる
子どもたちは,お母さんみたいな世話をしてくれる方にならどなたにでも,くっ付くようになります。しかし,そのくっ付くことの本性から,それが安心できるものでも,安心できないものでも,1人の子どもの人生の行程は,天国と地獄の差ができます。子どもが心から安心できるくっ付きができるのは,子どもを世話することが,子どもの気持ちに心響かせることが含まれる場合(訳注:だけ)ですからね。心響く関わり合いが始まるのは,赤ちゃんと母親の間にある,目には見えない身体レベルのやり取りからです。お母さんに心響かせる関わりをしてもらえると,赤ちゃんは,ピッタリと一心同体になり,分かってもらえた,という気持ちになります。エディンバラ大学でアタッチメントを研究するコリン・テレヴァーサンの話では「脳は,身体がリズムのある動きをするのにピッタリと響かせますし,リズムのある自分の身体の動きを,他の人の脳にピッタリと響かせるように,動かすようにもします」ということです。赤ちゃんはお母さんのお喋りを音楽みたいに聴いたり,受け止めたりします。お腹の中でも。
第4章で,私はミラーニューロンを発見した話をしましたね。ミラーニューロンとは,脳と脳が結び付いていて,共感できるようになっている,というものでしたでしょ。ミラーニューロンが働き始めるのは,赤ちゃんが生まれた直後からなんです。オレゴン大学の研究者のアンドリュー・メルツォフは,生まれて6時間の赤ちゃんに向かって,唇をすぼめたり,舌を出したりすると,赤ちゃんは,すぐに鏡になって,唇をすぼめたり,舌を出したりしました(生まれたばかりの赤ちゃんは,20センチ~30センチの範囲にあるものしか見えませんが,それは,自分を抱っこしてくれる人を観るのには十分なんです)。真似をすること,私ども人間に与えられている一番根っこにある人と関わる術です。真似が根っこにある人と関わり全て術ですから,親や教員や仲間の行動から,選んで真似しているんです。
親は自分の子どもと自然に関わる人がほとんどですから,どうしたら心響く関わりが展開していくのか,気が付かない場合がほとんどでしょう。ところが,お友達から誘われますと,アタッチメント研究者のエド・トロニックが観察するチャンスをプレゼントしてくれたのですが,どうしたら心響く関わりが展開してくのかを,もっと注意して,気付くことができます。ハーヴァード大学人間発達研究所のマジック・ミラーを通して,私が見たのは,生後2か月の赤ちゃんと遊ぶ母親でした。その母親は,助けられて,自分と正対して座る赤ちゃんと共に居ることができました。
2人は,お互いに優しい声で囁き合い,素晴らしい時間を過ごしていました。その素晴らしい時間は,お母さんが赤ちゃんに身を近づけて,赤ちゃんが興奮して,お母さんの髪の毛をぐいと引っ張るまで続きました。お母さんは,思わず痛みにギャッと声を出して,赤ちゃんの手を振り払います。その時お母さんの顔は,痛みで歪んでいました。赤ちゃんはすぐに身を離して,2人は互いに身体がバラバラになります。2人にとっては,歓びの源は,同時に,悩みの基でもあるからです。赤ちゃんがヤッパリびっくりしましたから,お母さんの怖い顔を遮るために,顔を両手で塞ぎました。そのお母さんも,赤ちゃんがびっくりしたのに気付いて,また赤ちゃんに意識を集中させて,関係を良くしようとして,赤ちゃんにをなだめる声を出します。その赤ちゃんは,まだ両目を覆っていましたが,お母さんとの繋がりを願う気持ちが戻ってきました。赤ちゃんは安心しても大丈夫か確かめるために,お母さんの顔を覗き込む一方,お母さんも,気がかりな声かけをしながら赤ちゃんに歩み寄ります。お母さんが赤ちゃんのお腹をくすぐり出すと,赤ちゃんは腕を顔から下げて,嬉しそうに笑いますから,心響く関わりが2人にまた戻りました。その赤ちゃんとそのお母さんは,また,心響かせる関わりをすることになります。歓び,歓びの声,回復と新たな歓びの流れは,全部合わせても,12秒にも満たないものです。
トロニックや他の研究者たちがハッキリさせたのは,赤ちゃんとお母さんが気持ちのレベルで響き合う時には,その2人は身体も響き合っていたということでした。赤ちゃんは自分の気持ちを自分で落ち着かせることができませんから,感情に伴う心拍数もホルモンレベルも神経活動も,元通りにできません。子どもが親に心も身体も響かせるとき,子どもが歓びと絆を実感するのは,心拍も呼吸も安定していて,ストレスホルモンがあまり出てないから,実感できます。子どもは身体が落ち着いているから,子どもの気持ちも落ち着いているんです。身体の調べが乱れた瞬間,それは日常よくあることですが,全ての生理的要素も変化してしまいます。身体が平衡を保てば,生理的要素も元通り穏やかになるってわかりますでしょ。
身体の調べ。
動的平衡。身体が平衡を保てば,生理的にも穏やかになりますから,発達は順調になります。
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Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.42の第2パラグラフから。
今朝は,p.46の5行目から。
プラトンが教えている「跳び上がるほどの心からの歓び」については,後ほど申し上げることがあります。聖書の神様がまします今,もう一度,無心になって子どもを大切にすることに心からの歓びが母親に満ち溢れるシャローム平和が,子どもも母親も共に創造して発達させくれること(私ども夫婦が始めた遊び療法)と,そのシャローム平和(遊び療法)が魂に刻み付ける一番の人品に立ち返りましょうね。遊びと呼ばれる,遊びに見える,遊びのように感じる,相手にピッタリと息を合わせる生き方の光から,私ども夫婦が照らし出したことが示しているのは,人間らしい気高い力です。 その人間らしい気高い力とは,人間が,子どもの頃に想像力を働かせて夢中になって育つ世界の中で,聖書の神様のいのちを一巡させて,発達させることに根差している力ですが,聖書の神様を信頼する仲間になる信頼が封印されているものを使って,結界の中で心に浮かんだ聖書の神様の舞台の啓示を,繰り返し受け容れる力です。私どもが確かにされるときに、聖書の神様の舞台が私どもの魂に打ち込まれる(訳注:正確には,「打ち込まれていることに気付く」とすべきです。なぜなら,気付くと気付かないとにかかわらず,尊厳はすでに打ち込まれているからです。)のは,相手の魂に心響かせることができる大人が,聖書の神様に祈り求めているからです。ですからねぇ、必ずしも,自ら望んでした星周りではありません。聖書の神様がまします結界の中では,私ども人間は,聖書の神様のいのちが一巡する(ように,後ほどなる)器になりますから,いまここが,いつどこででも,毎日礼拝が生まれる場になります。ところが,人々が,なるほど本当だなぁ,と信頼するようになるのは,聖書の神様のいのちが一巡する場で,2人が共に創造発達することって,誠実に相手を自分のように大切にすることに夢中になって,晴れ晴れと歓ぶ毎日礼拝の元があって初めて,形の上でも中身の上でも,その創造発達が,驚きと感激,という最高の恵みになる,ということです。おもちゃの舞台に当てはめてきた,大切な善い意味は,真新しいチャンスに挑戦する勇気を示している,ということです。聖書の神様がまします場では,スピリットと身体とが,確実に大切にし合うようになれば(訳注:イエスのスピリットが受肉すれば)いいのになぁ,あるいは,何年にもわたって訓練して,キリストに従って,自分を引っ張り上げることから仲間がギフトをもらえたらいいのになぁ,に,挑戦する勇気です。
陽気で楽しいことが進むところではいつでも,遊びの偉大な理論家、ホイジンガが見事な要約の中に入れた,遊び場の視座があります。「あらゆる遊びは,あらかじめ区切られた結界の内側で動き,育ちます,それは,物の面でも,物事の見方の面でも,遊びが育つ,ということですし,完全に自由になるためにも,発達して心響く大人になる1人の母親としても,遊びが育つ,ということでもあります」と。ホイジンガは,この魂の中で遊びが育つ一筋の光に名前を付けました。「土俵,トランプ台,マンダラ,礼拝所,舞台,間仕切り,テニス・コート,裁判所等は,全て,形の上でも働きの上でも,遊び場です… 仲間から離れて立たされて,結界となり,気高くされる遊び場ですし,その中で,気高くなる人生の習慣を手に入れます。」全ての遊び場を,ホイジンガは,「つかの間の世界」と呼び,「そのつかの間の世界の中で,日常の世界は,シャローム平和を完璧に実現する努めを2人が別々に無心に行うことに,捧げられます」としました。
私どもが発達する時に,遊び場を自分で選ぶようになります。いまここで私どもが指摘しておきたい唯一のことは,陽気で楽しい歓びの舞台と子どもが時間と空間を経験することには,たった一つの気高い関係があるということです。私は『子どもの頃と仲間たち』の中で申し上げましたように,子どもの頃の「演じる」遊びは,「過去を生き直し,現在を繰り返し目の前に表して,繰り返し新鮮にして,未来を先取りして確信する生き方を創造する人間の心の習慣の子ども版」を下さいます。人間すべてが本当の自分を生き直す場を育て始めましょうね,陽気で楽しい歓びのおかげで2人が共に本当の自分を生きることができる,ということを目の前に見ながら…。
聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中に諍いがあって,それこそ,その子どもが切り抜けなくてはいけない「人品を育てる時の危機」の特色になります。ロバートの積み木の中で,背が高い積み木は,私ども夫婦が申し上げていることですが,本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れるものだ,ということを示しています。本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れますと,舞台袖に隠れている諍いやトラウマに打ち勝つことができます。聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中では,発達創造途上の男の子が1人いるイメージ,すなわち,キリストだけがまします。この発達創造途上の男の子は,身体の美しさと強さを,頭で理解し学ぶ力と,ピッタリと一心同体にする新しい生き方を体得底で身に着けることになります。しかしですよ,私ども夫婦が心掛けてきたことですが,この少年の身体が示すことと、少年の心が苦しんでいることとに真に折り合いをつけることに思い煩っていることは,この子の育ちと対人関係の場に、相当広がっています。この,ラテン語でpuer novus 「新しい少年」って, 聖書の神様のいのちが一巡する結界では,1人の「新しい人」,すなわち,1人の自由にされた大人,キリストが誕生するイメージがありますでしょ。もしも,キリストが生まれるのがアーメン本当ならば,あの先生の言葉(訳注:「学校は,あなたの身体と脳が助け合うようにすることをお手伝いする所よ」)は,聖書の神様に敬意を払う,自由な新しい人が生まれることを預言する言葉に,なんとなくなりますね。 すべては,小さな世界の中で,真新しい仲間と繋がる真新しい私を試す1つの実験です。このように岩盤になる結界は,しかし,過去に負わされたトラウマに立ち返って,聖書の神様のいのちがこの世界で一巡する場を2人が共にすることにもなりますし,将来の酸いも甘いも(訳注:最後の審判,閻魔様 楽しみでもあり,怖い)頓着せず,2人とも心から自由にもなれます。ここで私ども夫婦が謹んで受け止めた唯一のことは,この5歳の男の子が先生に零したことには,様々な大事な危機が隠されている,ということです。つまり,この男の子が「くっ付いて離れられない」過去に縛り付けられていて,身体と頭が一緒に働かせることができないでいたとしたら,どうなるのでしょうか? それから,この男の子が新しい子になろうとしているのに,この男の子の手には負えない周りの者たちが,男の子の根源的信頼(あるいは,アタッチメント)が創造発達するのを手助けする名付け親になるのを嫌がっていたら,どうなるのでしょうか? その男の子は,生きる値打ちのない者でしょぅか,生きる値打ちのない者のままでしょうか? 結局,ガラクタになっているんでしょうか? ところが,ロバートの本当の自分をハッキリと示す心響かせる身体の動きは,両手を広げて,天使のような微笑みも湛えつつ,大事な人から,大事にされて生きてきたことも確かにありますよ,ということも,それとなく示していますね。このように良かった経験を過去にしてなければ,未来はほぼ開かれません。このように,過去の悲しき運命から繰り返しジャンプすることが,いまここで,陽気で楽しい歓びを下さるキリストによって,聖書の神様が約束した新しい人に回心することをプレゼントしてくれます。(訳注:聖書の神様の圧倒的で静かな恵みに気付けば,)私ども人間は,2つに分けるウソに侵されていない,真っ当な人に成熟することができるんです。すなわち,私ども人間は,人をいつも大切にし,いつも大切にされる者になる恵みが,いまここにいつでも何度でもあるんですよ。この中にある祈りのゆえに,子ども等の顔には忘れがたい微笑みを微笑みますし、私は内心,「やったぁ!」と言いますね。それは,子どもが自分の遊びの作品と至聖所を完成させて,「できた」と言う時なんですよ。
非常に神話的な言葉を私が使っている,ということを,自覚していますよ。子どもの言葉遣いにとっては神話的すぎかもしれませんが,子どもが実験しているいろんな気持ちにとっては,神話的過ぎることはない,と考えます。と言いますのも,子どもの遊びの中には,重々無尽に気付く人間らしい心の習慣を自分で育てることがある,と見えますから。重々無尽に気付く人間らしい心の習慣は,生涯を通じて,やり取りをする相手が次第に広がる中で分かち合うことになります。つまり,目に見える形で,聖書の神様が「とてもいいぞ」と認めて下さる生き方で,友達や先生が「とても善いよ」と認めてくれる生き方を共に創造することです。その友達や先生が,その遊んでいる子どもを手助けしたのは,1人ではできなかったこと,すなわち,驚きと感激を味わい,生きている実感が漲る約束を信頼することでした。生きている実感が漲る約束って,破滅的な力を内に治めることができるし,敵意むき出しのこの世の敵に打つ勝つことができるから,そのようにして,次第に関わる人が増えるいまきここで,新しく出会った人ともピッタリと一心同体になることができるキリストを自分は生きている,と確信することです。いま,言葉のない遊びについて,大口を叩きましたが,後ほど,大人になってからヴィジョンを分かち合う中に,力強い言葉が生まれる場があることが分かるようになります。この世の中で不動になる時の恐れや確信を実感する体験を,子どもも遊びで体験していることを見くびることになるでしょう。もしも,人間の意識がこの世に不動に立つ時に恐れや確信を実感することが,子どもも真っ当な,ただし,まだ朧気な意識にはない,などと言えば。おとぎ話が普遍的なのは,子どもの意識が真っ当なことを示しているのは,確かですね。
子どもの頃に遊んだ遊びや,陽気で楽しい歓びがある他の場が,思い出されて,それが,目に見える強い源に基づいていたのなら,その思い出は,聖書の神様からの目に見える魔法にかかってもいます。この世の人達が,周りをぐるっと仕切った「人間になる結界」の中に,聖書の神様が一巡するように並ぶと,この魔法が掛かるようにできています。この魔法は,視線の2つの意味を1つにします。すなわち,目の前にあるもの,すなわち,いまここと,信頼しているものだけができることですが,将来,なるほど本当だね,と分かることを見通すからを1つにすることです。
いまここと未来を繋ぐものは,信頼しかありません。
#うまくできてるね #聖書の神様の御心 #響き合い噛み合う生き方の始まりToys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 第三部。p.122,第4パラグラフ,引用から。壁に掛かった様々な夢 私は拙著を,子どもの積み......
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Childhood and Society から。p.418の,第3パラグラフ。
今朝は、p.419の16行目から。
わが国(訳注:アメリカ)では,他の大国以上に,あの子どもがあの大人のパートナーです。私ども夫婦は,ウソのない毎日礼拝を,来るべき方(訳注:キリスト)が来る約束としてとても大切にしています。ウソのない毎日礼拝にあっては,自分たちは仲の良い仲間になるスピリットが1つに家庭の隅々まで行き渡りますし,子どもの頃には,子どもの時期の大切さ,一心同体に成る心の習慣,仲の良い仲間になる意識,痛い目にあっても,不屈に湧き出す心からの優しさが,繰り返し湧き出てきます。私ども夫婦がもう1つ目覚めた事実は,巨大化し機械みたい人間が歯車になった組織が非人間的になったことが,子どもと大人がパートナーになる毎日礼拝を日々実践して,アメリカ人らしく,身に着けて来た気高い人生の習慣を,蔑ろにする傲慢となる,ということです。心響かせることができるアメリカ人は,1つの「敵意むき出し」の暴力からも,約束の時にもある敵意むき出しの暴力の親戚(訳注:ウソとゴマカシ)からも,傲慢が生じることを,体験的に知っています。でもね,今日,暴力とウソとゴマカシをやって,子どもを大切に育てる価値を台無しにしているのは,バカでかい組織とは限りません。分かち合い一心同体に成ることが急に広まって,子育てに関わる一体感が増すと,瀬戸際にいる人,すなわち,心が成長することが心の傷になってしまった人を,危機に晒して,傲慢にします。瀬戸際のトラウマを抱えた人って,だんだん多くの人達から,つまり,身近な人で,自分よりも力が強い人から,トラウマを負わされる関わりに晒されることになります。このように身近な人からトラウマを負わされる「不幸な生い立ちの人」の中には,我慢して遠慮忖度しなきゃという気持ちが,聖書の神様のいのちが一巡することがなくなる程嵩じる場合がありますね。それは,自分が不安になる素なのにね。同じように,正しくしなきゃという気持ちも,市民がシャローム平和を創造する力に少しも役立ちません。あるいは,正しくしなきゃという気持ちも,「精神衛生」があれば大丈夫だと信じている,新アメリカ人の平和の船としての心の平安にも,全く役立ちません。人と一致している点に,無理して,あるいは,遠慮忖度して,合わせますと,本当の自分が生きられなくなるからです。私の上に立つ悪い良心が,我こそは道徳の守り神みたいな顔をしている限り,「とってもいいぞ」と認める生き方ができませんから,正しくしなくちゃという気持ちが避けられません。このように正しくしなくちゃという気持ちから生まれるのが,ひとりびとりの正しい振舞い形だったり,市民としての正しい振舞いだったりします。スピリットの鍛錬としての心理学がお役にたつことがあるとすれば,それは,試練に踏みとどまる中で,心を育てることと,人がコッソリ人に押し付けたり,コッソリ人に付け込むことがあると気付きながら,互いに心から相手を大切にし合って,相手とも聖書の神様とも一心同体に成ることだけ,です。
パウロさんがロマ書で教えているみたいに,大文字の希望は魂の中に,試練の中で打つ込まれます。
押しつけや付け込みをしやすい人間が,キリストを振り返る毎日を過ごすと,キリストが生きてきて,聖書の神様のいのちが一巡する関係を様々なところで楽しみ,陽気で楽しい歓びを生きることができます。
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