エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#聖書の言葉 #単独者の恵み #感謝

2019-12-02 09:24:15 | 聖書の言葉から
 



#良心 = #キリストに従うこと #当てになる人になれる #単独者になれる
 #身体と頭が一致する #言葉にすることの恵み #お祈りの言葉 #発達トラウマ障害DTD治療のパイオニア 聖書の言葉 : 「キリエ エレイソン Κύριε ἐλ......
 

 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」 をご参照ください。   
 
 
 生きているのに 死んでいるあなたへ   
 
 マハトマ・まど・みちおさんの言葉 から
  
 
 
 
 この世に 生かされて
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#脳と脳の繋がり #歓びに染まりたい赤ちゃん

2019-12-02 09:16:57 | ヴァン・デ・コーク教授の「トラウマからの
 



#見直された #精神医学教室  #儲かるから
Eli Lilly japan.  #聖書の言葉 #1人豊か #心の鎧 「私教育」と「公教育」    大人の責任ある態度   思い違いだらけ、ニッポン!  「がんば......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。  
 
 
 ヴァン・デ・コーク教授の  The body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『大切にされなかったら、意識できなくても、身体はその傷を覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』 は,翻訳が終わりましたが,印象的な言葉を適宜拾ってみようと思います。 
 
 p.113のブランク後から。
 今朝は,最後の第4パラグラフから。
 
 
 
 
 
心響かせることに身を入れる
 
 子どもたちは,お母さんみたいな世話をしてくれる方にならどなたにでも,くっ付くようになります。しかし,そのくっ付くことの本性から,それが安心できるものでも,安心できないものでも,1人の子どもの人生の行程は,天国と地獄の差ができます。子どもが心から安心できるくっ付きができるのは,子どもを世話することが,子どもの気持ちに心響かせることが含まれる場合(訳注:だけ)ですからね。心響く関わり合いが始まるのは,赤ちゃんと母親の間にある,目には見えない身体レベルのやり取りからです。お母さんに心響かせる関わりをしてもらえると,赤ちゃんは,ピッタリと一心同体になり,分かってもらえた,という気持ちになります。エディンバラ大学でアタッチメントを研究するコリン・テレヴァーサンの話では「脳は,身体がリズムのある動きをするのにピッタリと響かせますし,リズムのある自分の身体の動きを,他の人の脳にピッタリと響かせるように,動かすようにもします」ということです。赤ちゃんはお母さんのお喋りを音楽みたいに聴いたり,受け止めたりします。お腹の中でも。
 第4章で,私はミラーニューロンを発見した話をしましたね。ミラーニューロンとは,脳と脳が結び付いていて,共感できるようになっている,というものでしたでしょ。ミラーニューロンが働き始めるのは,赤ちゃんが生まれた直後からなんです。




 赤ちゃんは,いわば,無記。
 いいものにも悪いものにも,染まります。でも,白紙,タブララサではありません。
 出来れば,歓びや楽しみに染まりたいと願っているのも,現実です。
 
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#抜けない臭み と #香り立つ香り

2019-12-02 08:33:21 | エリクソンの発達臨床心理
 


 
#良心 = #キリストに従うこと #当てになる人になれる #単独者になれる
 #身体と頭が一致する #言葉にすることの恵み #お祈りの言葉 #発達トラウマ障害DTD治療のパイオニア 聖書の言葉 : 「キリエ エレイソン Κύριε ἐλ......
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」  をご参照ください。 
 
 Ontogeny of ritualization in man. 「人の中にキリスト(生きている実感・本来の自己・本心と本音)を創造する毎日礼拝」
 
イギリスのThe Royal Societyが1966に出しています。
 
 p.340の 第2パラグラフから。
 
 今朝は,p.341の第3パラグラフの3行目から。前回パラグラフを間違えて訳しましたので,それと合わせて訂正します。
 
 
 
 
  別の論文で(エリクソン,1964),申し上げてきたことは,人間にとって最も根源的な人品である,「聖書の神様に望みを掛ける希望」は,魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることです。魂が聖書の神様のいのちに繋がって,「とてもいい」と許されて,確かにされることって,赤ちゃんの時に,母親と仲間になって,互いに大切にし合うことから,バラバラにならずに,ピッタリと一心同体になっていることなんですし,同時に,全ての人間にとって,梵我一如の心の習慣(梵我一如の約束)をギフトとして,プレゼントしてくれるものなんですから。「聖書の神様に望みを掛ける希望」が地に足を着け,生活の中で育つのは,赤ちゃんの舞台ですし,敢えて申し上げれば,あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式のおかげで,仲の良い親友関係の中で,育つものです。あらゆる毎日礼拝とあらゆる儀式は,コントロールされ,生きている実感の息の根を絞められて,聖書の神様を信頼する大文字の希望を見失っている習慣に,2人で立ち向かうことですし,聖書の神様のスピリットを魂に打ち込まれていることに気付いて,顔と顔を合わせて,一生涯,互いに大切にし合う光を約束します。それは,(訳注:新約聖書の「コリント人への第一の手紙」第13章12節にあるように)「私どもは,体得底で体験的に理解してもらっている様に,体得底で体験的に理解できるようになります」。
 
 
 
 Ⅱ 人間を上下2つに分けるウソ
 
 
 
 人間の毎日礼拝から心からの歓びをやり取りする,聖書の神様のまします場を分かち合うために,心の刻んでおかなくてはならないのは,聖書の神様のいのちが一巡しないと,相手をコントロールすることになる,ということなんです。
 
 動物の習慣は,そのほとんどがその動物の種類に特有の習慣ですが,何時でも強調しなくてはならないのは,人間は,「まがい物の人類」,すなわち,種族や一族郎党などの中で,進展してきたことです(その進展がどのようなものでも,どんな理由でその仲間に入ったかは,ともかく)。その種族や一族郎党は,まるで自分たちだけが神様の意思で創造のはじめに特別に創造されたかのように,振舞うんです。この「まがい物の人類」の振舞いは,自分たちが創造主の御心で,初めから特別に創造されたかのようですし,自分たちがこの世に存在することや,自分たち一族郎党の掟、それに,自分たちの身勝手な神権政治とイメージを、天地創造よりも大切にするかのようです。このように,ひとりびとりの人間は,「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になってしまいます。この「聖書の神様と一心同体になる実感とその習慣がバラバラ」になることが,人間が聖書の神様と一心同体に成ることそのものと,勘違いされてしまいますし,その勘違いが,他の「まがい物の人類」と対抗しながら,聖書の神様と人さまとを侮ることによって増長してしまいます。その侮りは,自分たちは特別だという壁を作り出しますし,唯一の「聖書の神様の創造」に預かる人間らしい企てに対して,敵意を持ちます。しかしながら,人が正しいと思っていることとは正反対に,生まれたばかりの新しい人は,どのような「まがい者の人類」にもピッタリと一体になれますから,長い子ども時代に間に,「まがい者の人類」の一味になってしまいます。このまがい者の一味になる,ということが,「毎日礼拝で家族の一員となる」個体発生の中にある厳然とした事実です。
 
 まがい者の一味になる「人類を2つに分けるウソ」についてお話しすることは,聖書の神様のいのちが一巡するのとは正反対です。しかし,いまここで,私が真正面から相対しているのは,ジグムント・フロイトの本能理論の中にある2番目のウソです。魂が自由になるいのちの中に「本能」という名詞が現れる時はいつでも,本能の派生語の「本能的」,あるいは,「本能に似た」という2つの形容詞のどっちかな? と問いを持つとお役に立ちますよ。つまり,強調するのが,行動の1つの「本能的なパターン」にあるのか? それとも,多かれ少なかれ冷淡で,ピッタリとくっ付くことから逸れてしまった1つの「本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度」なのか? どっちなのか? と問うことが大切です。心を自由にする術は,本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度を考えるのが,普通です。本能みたいに,なかなか変えることができない行動や態度は,やりすぎになっているのに,「ピッタリとくっついて一心同体に成る」という上等な意味で,本能的性質には欠けています(ハートマン,1938)。自由で膨大な本能みたいなエネルギーがある進化論的な根拠は,もちろん、エルンスト・マイヤーの用語では,人間が「様々な環境に適応できる万能選手」であるという事実にあります。すなわち,人間は,様々に人を駆り立てるありふれた気持ちを,様々な学びや,様々な人との出会いに,活用して,長い子ども時代の間に,互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になることを,それぞれ強め,広げるように,創造されているんです。互いに大切にし合うこと,2人が一心同体になること,聖書の神様と一心同体になること全ては,私(あるいは,いまここにいる私であるキリスト)が示そうとしていることですが,その人ならではの毎日礼拝が一番気高く確実に育ててくれます。
 私が「最高に気高く」と申し上げるのは,人間の「行動の禁止事項」と「心の中の禁止事項」は、やりすぎになりがちで、2人が一心同体になること反するからです。それは,人間が本気で押さえつけようとする,自分を駆り立てる気持ちがやりすぎになるのと同じです。心から自由になる時には,ですから,私ども夫婦は,「押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましょう」と,お話しするようにしています。押さえつけられたところに立ち返って,押さえつけずに,いのちを一巡されましたら,本物の毎日礼拝が「人品を発達創造させる気高い生き方」というギフトを下さいます。「人品を発達創造させる気高い生き方」にあっては,無理強いや我慢のし過ぎはあり得ませんし,社会全体がウソとゴマカシで溢れることも,罪を犯した人たちに厳罰を声高に叫ぶことも,あり得ませんでしょ。もしそうならば,ウソのない最も真面な毎日礼拝がお役に立つ,3つの肝心要の歓びが少なくともあります。
 
(1)ウソのない毎日礼拝は,内的促しされた関わりを,互いに大切にし合う唯一無二のパターンにシッカリとむすびつけます。互いに大切にし合う唯一無二のパターンのおかげで恵まれるものは,危険なほど複雑な厄介ごとを,なるほど本物だと腑に落ちる,一心同体体験です。お母さんと赤ちゃんは,これまで申し上げてきましたように,最初の毎日礼拝で一心同体になりますから,一心同体になれた赤ちゃんは,自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズを,星座みたいに一纏めにすることができます。自分が生きていく上で欠かせない様々なニーズの中には,口のニーズ,五感のニーズ,触れ合うニーズがありますし,本来はバラバラな体験を,お母さんに心から大切に世話してもらうことで,ピッタリと一纏まりにしてもらいたいというニーズがあります。
 
 
 
 自分のの体験したことがバラバラなままですが,切り離された体験にある苦しみ,悲しみ,不安,不満,激しい怒りなどが,不意に日常生活の中に出てきます。本人は,その時近くにいた人や状況の「せい」にすることで,すなわち,投影することで,内省するチャンスを失かっている場合が日常茶飯事です。
 そういう人は,日々転がっている,発達と創造のチャンスを,みすみすドブに捨てているんですが,ご当人は,そのことにさえ気づいていません。ですから,その手の人は,いつまでも「子どもっぽい」感じ,子ども臭さが抜けません。70になっても,80になってもそうです。ざーます言葉を使っても,絹のハンカチを持っていても,いつまでも,子どもっぽい。そういう臭みが抜けません
 
 逆に,繰り返し心から大切にしてもらった体験がギフトとしてあったことに気付けた者は,年齢の如何に関わらず,気高い香りが臭い立つのが,その創造作品の中からさえ,香り立つものです
 
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#子どもを侮るなかれ

2019-12-02 06:29:12 | エリクソンの発達臨床心理
 



#聖書の言葉 #1人豊か #落ち葉の教え
   マハトマ・まど・みちおさんの言葉から落ち葉は宇宙の法則に真っ先に参じてその教えのままに行動していらっしゃる立派なお方...
 

 

「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
  
 
identity and the life cycle  『聖書の神様と毎日一心同体になること と 聖書の神様の心から優しいスピリットが,目の前の相手と私の関係の中で一巡すること』
 p.104のタイトルから。
 今朝は,p.105の,ブランク後の 最後の第4パラグラフ,最後の行から。
 
 
「1つも傷がないシャローム平和 対 希望を見失うこと と 持ち味が死んでること」
 
 一心同体に成る生き方の中で,森羅万象と全人類を大切にして,(訳注:新約聖書の中でパウロさんが語っているみたいに)生きていることの酸いにも甘いにも,自分をピッタリと合わせて生きてきた人だけが,7つの舞台の果実を次第に育てることができます。その果実に相応しい言葉に,シャローム平和,よりもいい言葉はありません。明確な定義がありませんから,シャローム平和のスピリットの目印を示しておきましょうね。 シャローム平和の目印は,聖書の神様の約束にただただ従って生きるはキリストを(生きている実感に従って思うままに)生きることと,聖書の神様のいのちが一巡して2人を一心同体にする主の道のパートナーになることを,(訳注:驚きと,圧倒的で静かな感激の中で),もろ手を挙げて受け容れることですし,自分にとって大切な人たちを,掛け替えのない仲間であり,聖書の神様のいのちが一巡する,掛け替えのないパートナーでなくてはならないことを,もろ手を挙げて受け容れることです。ですからねぇ,シャローム平和って,生みの親の願いとは真逆の真新しい願いですし,自分は際立った特別な存在でなくてはならないとする願いから自由になり,自分の人生を,聖書の神様の約束にただただ従って,生きるはキリストを(生きている実感に従って思うままに)生きることが聖書の神様の思し召しに応えることだ,という事実を,もろ手を挙げて受け容れることなんです。シャローム平和は,遠い時代の人でも,追い求めていることが違っても,男とも女とも仲良しになる仲間になる心の習慣(仲間になる意志)ですが,その仲間とは,人間らしい誇りと心からの優しさをもたらす聖書の神様の指針と目的と物語を作り出すもんです。様々な生き方全てが繋がっているから,人間のぶつかり合いに意味があることに気が付いたけれども,シャローム平和であるキリストの低き視座に立つことは,生きている実感や仲間の習慣を脅かすものに抗って,自分自身の生き方の誇りを守ってくれます。というのも,2つに分けるウソのない人生とは,唯一の神である聖書の神様のいのちを,唯一の真の賢さの源キリストのスピリットと分け合う恵みであることを,人間は分かっているからなんです。それに,自分にとって,人類すべてのシャローム平和の成否が,自分に割り当てられた唯一のシャローム平和の生き方を日々できてるか,にかかっていることも,体得底で分かっているからなんです。
 それで,自分がシャローム平和の生き方を日々生きる初めは,繰り返し病んで元気になった 度重なる試練を経て体得した英知に基づいています。何がなくても,ここでこそ,教えを説く者も,教え通りに献身する者も,キリストの中で始まった,生きている実感を,自分とキリストが共に居る結界の中で,育てることができます。しかし,私が臨床的に付け足したいことは,このように,ひとりびとりが順序良く育ってシャローム平和に至ることが足りなかったり,ぶち壊しにされていたりすれば,その目印は,希望がない,ということですし,知らず知らずのうちに,自分を空っぽにする無私が怖い,ということです。自分を空っぽにする無私になるのが怖いと,唯一無二の聖書の神様のいのちが一巡する毎日が,最高の人生だと,体得底で身に着けることができません。希望を失いますと,「時間が足りません」,「別の人生を始めようと思っても,シャローム平和に至る別の道を試みようと思っても,時間がありません」と言い訳をする気持ちが顔に出ます。そのように1つも希望がないことは,持ち味が台無しなこと,人嫌いなこと,あるいは,キリストを生きて自由な生き方やキリストを生きて自由な人たちを,いつでも侮り嫌うことに,隠れています。持ち味が死んでいることと不機嫌(そんな気分では,共に育つ理想もなければ,同じ目的のために協力することもありません)は,ひとりびとりが,キリスト(大我、本当の自分,本心と本音)を軽視している証拠にすぎません。
 ひとりびとりが,シャローム平和になるのは,ですからねぇ,様々に掻き立てられる気持ちが落ち着いて1つの泰然自若になることです。様々に駆り立てられる気持ちが落ち着いて1つの泰然自若になれば,人類皆兄弟に至る仲間意識が割り当てられますし,自分を自分で居させてくれる方の声に,体得底で聞き従うこともできます。人類皆兄弟に至る仲間意識が割り当てらることと,自分を自分で居させてくれる方の声に,体得底で聞き従うことは,宗教でも政治でも,仲間内の約束に従って仲間がピッタリと一心同体になる時でも,2本の糸で布ができるが如く2人がピッタリと一心同体になる時でも,相手にピッタリと心響かせる最も気高い生き方をする時でも,一心同体になっている人たちの中でも,バラバラになっている人たちの中でも,体得底で身に着けて実践することになっています。


                       結論


 シャローム平和になる中で,倫理学から心理学を区別する境界線を大きく踏み越えているところに来ています(その境界線を長年にわたってすでに繰り返し踏み越えて来た,という人もいます)。 しかし,親たちや教員たちや医者たちは,子どものニーズや課題を議論したいと思えば,人間関係や社会的に暮らしが,その子どものニーズや課題を生み出していることを議論しなくてはならないとお示しする時,私自身本当の自分を不動にしてくれているものは,2つ3つのスピリットにある心眼だけですから,結論として簡明にまとめてみましょうね。
 この20年30年で私ども夫婦が学んできたことは,人類を上下2つに分けるウソに侵されていない真っ当な人は,発達し成長する,ということと,その真っ当な人が行動する動機(特に,ご本人も気付かない動機です)についてでしたね。それは,私どもの目の前にある人類の歴史を振り返っても,この20年30年の学びの方が上を行っている,ということです(もちろん,聖書やシェークスピアにある英知の極致は例外です)。たくさんの人が腑に落ちたことは,子どもは,いや,赤ちゃんでさえ,(おそらくは,お腹の中の赤ちゃんでさえもが)自分が育つ周りの世界の良さを,鏡のように敏感に映し出す,ということです。子ども等は,自分の親たちの緊張,不安,激しい怒りに敏感です。たとえ,子どもは,親たちが何で緊張したり,不安になったり,激しく怒っているかはわからなくても,大人が表向きには緊張したり,不安になったり,激しく怒っているようには見えない場合でも,すぐに親たちの緊張や不安や激しい怒りに気付いています。ですから,皆さん,子どもを侮ってはいけませんからね。しかし,世の中の変化が速すぎるので,自分が世の中の変化に「抗して」自分の生きている実感を生きることになっているのかなぁ? 世の中を善くして,みんなが自由で不動になる道の中にある,ささやかな自分の務めを果たすチャンスを願っているのかなぁ? が分からなくなるなりがちです。
 

 子ども等にとって,歓んで生きている人が最も大事です。大人が歓んで生きているか否かは,初対面でも,瞬間的に子どもは,勘付きます。ですから,「子どもだから…」,「どうせ,何も分からないんだから…」などと侮ってはなりません。
 
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#預言 と #自由 と #最高の人生

2019-12-02 05:52:09 | エリクソンの発達臨床心理
 



#ウソとゴマカシだらけの現実 と #聖書の神様の命 #神様はお見通し!
 現世考: #情報操作される私たち #私の嗤い 発達トラウマ障害(DTD)の症状と自然災害トラウマの人の症状とは、大違い   大人の責任ある態度   思い違いだ......
 

 

 「発達トラウマ障害 Enpedia」

  をご参照ください。


    Toys and Reasons. 『おもちゃ と 賢慮』から,p.42の第2パラグラフから。

 今朝は,p.44の第2パラグラフ,13行目から。


 


 プラトンが教えている「跳び上がるほどの心からの歓び」については,後ほど申し上げることがあります。聖書の神様がまします今,もう一度,無心になって子どもを大切にすることに心からの歓びが母親に満ち溢れるシャローム平和が,子どもも母親も共に創造して発達させくれること(私ども夫婦が始めた遊び療法)と,そのシャローム平和(遊び療法)が魂に刻み付ける一番の人品に立ち返りましょうね。遊びと呼ばれる,遊びに見える,遊びのように感じる,相手にピッタリと息を合わせる生き方の光から,私ども夫婦が照らし出したことが示しているのは,人間らしい気高い力です。 その人間らしい気高い力とは,人間が,子どもの頃に想像力を働かせて夢中になって育つ世界の中で,聖書の神様のいのちを一巡させて,発達させることに根差している力ですが,聖書の神様を信頼する仲間になる信頼が封印されているものを使って,結界の中で心に浮かんだ聖書の神様の舞台の啓示を,繰り返し受け容れる力です。私どもが確かにされるときに、聖書の神様の舞台が私どもの魂に打ち込まれる(訳注:正確には,「打ち込まれていることに気付く」とすべきです。なぜなら,気付くと気付かないとにかかわらず,尊厳はすでに打ち込まれているからです。)のは,相手の魂に心響かせることができる大人が,聖書の神様に祈り求めているからです。ですからねぇ、必ずしも,自ら望んでした星周りではありません。聖書の神様がまします結界の中では,私ども人間は,聖書の神様のいのちが一巡する(ように,後ほどなる)器になりますから,いまここが,いつどこででも,毎日礼拝が生まれる場になります。ところが,人々が,なるほど本当だなぁ,と信頼するようになるのは,聖書の神様のいのちが一巡する場で,2人が共に創造発達することって,誠実に相手を自分のように大切にすることに夢中になって,晴れ晴れと歓ぶ毎日礼拝の元があって初めて,形の上でも中身の上でも,その創造発達が,驚きと感激,という最高の恵みになる,ということです。おもちゃの舞台に当てはめてきた,大切な善い意味は,真新しいチャンスに挑戦する勇気を示している,ということです。聖書の神様がまします場では,スピリットと身体とが,確実に大切にし合うように(訳注:イエスのスピリットが受肉すれば)なればいいのになぁ,あるいは,何年にもわたって訓練して,キリストに従って,自分を引っ張り上げることから仲間がギフトをもらえることに,挑戦する勇気です。

 陽気で楽しいことが進むところではいつでも,遊びの偉大な理論家、ホイジンガが見事な要約の中に入れた,遊び場の視座があります。「あらゆる遊びは,あらかじめ区切られた結界の内側で動き,育ちます,それは,物の面でも,物事の見方の面でも,遊びが育つ,ということですし,完全に自由になるためにも,発達して心響く大人になる1人の母親としても,遊びが育つ,ということでもあります」と。ホイジンガは,この魂の中で遊びが育つ一筋の光に名前を付けました。「土俵,トランプ台,マンダラ,礼拝所,舞台,間仕切り,テニス・コート,裁判所等は,全て,形の上でも働きの上でも,遊び場です… 仲間から離れて立たされて,結界となり,気高くされる遊び場ですし,その中で,気高くなる人生の習慣を手に入れます。」全ての遊び場を,ホイジンガは,「つかの間の世界」と呼び,「そのつかの間の世界の中で,日常の世界は,シャローム平和を完璧に実現する努めを2人が別々に無心に行うことに,捧げられます」としました。

 私どもが発達する時に,遊び場を自分で選ぶようになります。いまここで私どもが指摘しておきたい唯一のことは,陽気で楽しい歓びの舞台と子どもが時間と空間を経験することには,たった一つの気高い関係があるということです。私は『子どもの頃と仲間たち』の中で申し上げましたように,子どもの頃の「演じる」遊びは,「過去を生き直し,現在を繰り返し目の前に表して,繰り返し新鮮にして,未来を先取りして確信する生き方を創造する人間の心の習慣の子ども版」を下さいます。人間すべてが本当の自分を生き直す場を育て始めましょうね,陽気で楽しい歓びのおかげで2人が共に本当の自分を生きることができる,ということを目の前に見ながら…。

 聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中に諍いがあって,それこそ,その子どもが切り抜けなくてはいけない「人品を育てる時の危機」の特色になります。ロバートの積み木の中で,背が高い積み木は,私ども夫婦が申し上げていることですが,本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れるものだ,ということを示しています。本当の自分になる結界では心響かせることに身を入れますと,舞台袖に隠れている諍いやトラウマに打ち勝つことができます。聖書の神様のいのちが一巡するど真ん中では,発達創造途上の男の子が1人いるイメージ,すなわち,キリストだけがまします。この発達創造途上の男の子は,身体の美しさと強さを,頭で理解し学ぶ力と,ピッタリと一心同体にする新しい生き方を体得底で身に着けることになります。しかしですよ,私ども夫婦が心掛けてきたことですが,この少年の身体が示すことと、少年の心が苦しんでいることとに真に折り合いをつけることに思い煩っていることは,この子の育ちと対人関係の場に、相当広がっています。この,ラテン語でpuer novus 「新しい少年」って, 聖書の神様のいのちが一巡する結界では,1人の「新しい人」,すなわち,1人の自由にされた大人,キリストが誕生するイメージがありますでしょ。もしも,キリストが生まれるのがアーメン本当ならば,あの先生の言葉(訳注:「学校は,あなたの身体と脳が助け合うようにすることをお手伝いする所よ」)は,聖書の神様に敬意を払う,自由な新しい人が生まれることを預言する言葉に,なんとなくなりますね。 



  

 身体と脳。

 「トラウマがあると,脳は脳幹から育たない」ということは、エリクソンがこれを書いた時には,いまほどハッキリとは分かりませんでした。

 しかし,エリクソンは臨床的な直感で,「トラウマがあると,脳は脳幹から育たない」ということを実感していたはずです。

 イメージ,話し言葉,身体(出来事)を結び付けることが,身体と脳を一体にすることです。すると,生きている実感が漲る歓びに溢れる最高の人生を生きることができます。

 

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