#聖書の神様の命が一巡する場はいつでも何度でも #大文字の希望 #何があっても大丈夫は当たり前
#一歳半が最後 #人との関わり方 #無意識な愛着パターンは一生変わらない #ペッソボイデン体感療法 #感性が鋭いヴァンデコーク教授 発達トラウマ障害(DTD......
「発達トラウマ障害 Enpedia」
をご参照ください。
Identity :Youth and Crisis 『聖書の神様と一心同体に成ること : 若さと試練』
p.176の,ブランクから。
今朝は,p.180,第2パラグラフ,4行目から。
備忘録的に,p.168の第2パラグラフも残します。
忘れてはならないのは,お母さん(聖書の神様)と仲良くなって中心軸の自分が腑に落ちることの反対は、お母さん(聖書の神様)に馴染めず心がバラバラだ,ということです。つまり,1番親しい母親は,いまここにあると,母親には不都合な強さや不都合な人たちを,裏切り,見て見ぬふりをして,殺してしまいやすい、ということはね,忘れてはなりません。一纏まりの人や思いに馴染むことは,別のまとまりの人や思いを上手に裏切ることなしには,あり得ませんでしょ。このように,忖度と裏切り,それは,一番親しいはずの母親と一心同体に成ることできなかったために,最深欲求を満たすことができない人のいつもの心の態度になります。最深欲求が満足していない人って,自分の「良心」に確信を持てませんから,不正な誘いを断る賢さがありません。
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家族の中の特別な場 と 子ども
病気になりがちな患者さんのことを論じる時,患者さんに共通するものは何かな? と問うことになります。私どもが治療しているケースでは,お母さんに目立った飛び道具がいくつかあると言えると思います。その飛び道具は,ぜひ関わりたいと願って仲間になり心から自由になる場で,必ずしも飛び回る訳ではありません。第1に,目に見える立場理解,すなわち,自分が上り調子なのか,変わりないのか,「食い下がっている」のか は,いろいろでしょ。いろんな立場でも,お金のためだから,ポストのためだから,面子のためだから,「家族の幸せ」のためだからと言って,心から誠実な気持ちや賢い判断を生み出す源を,お母さんたちは,ほぼほぼいつでも進んで蔑ろにします。事実,お母さんたちは,自分の感受性の鋭い子ども達に,「自然に」,しかも,「喜んでよい子になる」のフリをするように無理強いします。第2に,お母さんには,いつもどこにでも付き纏うという特性があります。なぜならば,お母さんの普段の声や情に絆されたすすり泣きさえもが,尖っていて,悲しくて,イライラしたものになるからですし,そのお母さんの声やすすり泣きからは,どんなの頑張っても,逃げられませんから。ある患者さんは子どもの頃にずっと,チョキチョキきるハサミが部屋中に飛び回る夢を繰り返し見たそうです。夢に出て来たハサミは,切り刻み,バラバラにするお母さんの声を表していたことが分かりました。切り刻む声のお母さんたちの躾は,希望を見失っていているから,押しつけがましくもなるんです。お母さん自身が,誉めてほしい,認めてほしいと飢えていますから,複雑な不満,特にお父さんに対する不満を,自分の子どもに負わせているんです。すなわち,「『私には子どもがいるんだから』ということで子どもの母親である自分が生きている意味を与えて頂戴なぁ」,と我が子に懇願しているんです。お母さんは妬み深く,しかも,人の妬みにもとても敏感なんですから。2人が聖書の神様の結界を作る時に,特に大切なのは,お母さんが妬む子どものサインが,子どもが主にお父さんと一心同体に成るかもしれないというサインですし,最悪なのは,お父さんが一心同体に成っていることに,子どもが一心同体に成ることを土台にしているというサインです。付け加えなくてはならないことは,こういうお母さんがどんな人でも,いまここに踏みとどまるようにされる,ということです。そういうお母さんがいつもブツブツ「お父さんたら,私を女性として大切にしてくれない」と零す不平不満背後には,「いまここに踏みとどまっても,本当の自分を創造する母親に自分がなれない」という,母子が心の奥底で,なんとなく気付いている不満です。いまここに踏みとどまるようにされている者は,本当の自分を創造する母親を粗末にすることで,生まれてこの方,お相子で,自分のお母さんも粗末にしてきたんです。それは,気まぐれでバラバラだと最初に見えたことに到底耐えられないからです。しかしながら,このバラバラに見えることが,ピッタリと一心同体に成った夫婦関係の成れの果てになります。ピッタリと一心同体に成った夫婦関係の成れの果てって,ここに踏みとどまるようにされた者が,自分を押し殺しすぎやすいことですし,あるいは,慌てて関わりすぎやすいことです。その粗末にされたお母さんが死に物狂いで子ども等に口やかましくなるのは,おしなべて,生まれ育った家族が病んでいたからです。
私がここで描いているのは,軽い程度のものですが,ありがちなことですから,子どもの病のせいだと「非難する」ことはできません,と申しますのも,家の中にいる子ども等がすべてがすべて,創造できない強い悪意に,応えている様に見えないからです。私どもが心の刻んでおかなくてはならないのは,粗末にされたお母さんに出会うのは,粗末にされたお母さんが傷の上で道に迷っている,ということです。確信をもって申し上げることができると考えますのは,お母さんとその子どもが「互いに粗末にし合う」のがここだ,ということです。この「互いに粗末にし合う」のは,「互いに大切にし合う」ことの創造できない強い悪意のある反対です。
そのお父さんらは,たとえ仕事でいつもうまくいったり,大成功を収めていたりしても,自宅で奥さんらに逆らえません。といいますのも,お父さんらは奥さんに頼りきりだからですし,それは,お父さんたちも我が子を心深く嫉妬しているからなんです。お母さんが子どもにあれこれと口うるさいのを見逃したり,お母さんを避けようとしたりすることに,お父さんの思いやりや人の好さが堕すると,その結果として,お母さんはお父さんが堕落するのに見合って,その分,お母さんはますます心貧しくなりますし,不満タラタラになりますし,子ども等にあれこれ口うるさいことに「献身的」になりますから。
いまここに踏みとどまるようにされる者が持つ,兄弟姉妹に対する関係について申し上げられることは,最高の親族関係以上に,瓜二つだ,ということだけです。赤ちゃんの頃にお母さんと一心同体に成れなかった心の飢え渇きのゆえに,私のところに来る,いまここに踏みとどまるようにされた者達は,まるで双子同士みたいに,1人の兄弟か姉妹にピッタリと自分をくっ付けがちです。ただし,一組の双子がいる場合は別です。まるで双子同士みたいに,1人の兄弟か姉妹にピッタリと自分をくっ付けがちとは,いわば,双子でない相手を,双子の相方の様にしようとすることですから。瓜二つの兄弟姉妹は,アンナ・フロイトさんが「一体感がもたらす利他主義」をはるかに超えたやり方で,少なくとも瓜二つの兄弟姉妹に,埋没して一体となった一体感に,献身する場合がとても多いんです。まるで,いまここに踏みとどまるようにされた者達が,1人の兄弟姉妹と一体となる一体感に献身するのは,埋没して一体となることで,もっと大きな,もっとマシな一体感を取り戻したいと,願っているかのようですよ。一時はうまくいっても,残念ながら,双子の真似事は必ず壊れますから,その後の「こんなはずじゃぁなかったのに…」という失望だけが残りますので,赤ちゃんの時の発達トラウマ体験の傷を一層深くすることになります。激しい怒りと千々に乱れた思いが起こるのは,瓜二つの兄弟姉妹の片割れだけは,一心同体に成れて,満足できたかもしれませんが,少なくとも,もう1人の片割れは,「お姉ちゃんに騙された」という隠れていた思いが芽生えた後になります。
いまここに踏みとどまるようにされる者の赤ちゃんの時期の成育歴は,概して,全くの真っ白です。中には赤ちゃんの時に,1人ぼっちで居ることがほとんどだったことが見られるのに,その両親は赤ちゃんが1人ぼっちで居るのは仕方がないと屁理屈を言うのが普通です。しかしながら,皆さんも抱く一般的な印象は,若者になっても一心同体に成ることが全くできない,という創造できない強い悪意がどれだけ重症かは,赤ちゃんが一人ぼっちで居た程度しだいだ、ということです。それから,皆さんも抱く一般的な印象は,若者になっても一心同体に成ることが全くできない,という創造できない強い悪意が重症ですと,「互いに大切にし合う」ことの創造できない強い悪意のある反対の「互いに粗末にし合う」程度がひどくなりますし,幼い時に取り入れた一人ぼっちの二十億光年の孤独を生きざるを得ません。子どもの頃と若者の頃のトラウマについては申し上げれば,1つの特色,すなわち,エディプス期か思春期の初めの,重度の発達トラウマ体験がよくありますし,重度の発達トラウマ体験は故郷を失うことと結びついていることが普通です。この重度の発達トラウマ体験は,もしかしたら1つの外科手術かもしれませんし,あるいはまた,遅まきながら診断された発達障害かもしれませんし,あるいは,1つの事故かもしれませんし,重度の性的虐待かもしれません。
たほう,赤ちゃんの時の苦しみが,この重度の発達トラウマ体験と一致します。この重度の発達トラウマ体験は,家族の魂を癒す関係を知るために打って付けと分かるようになってきました。一心同体に成り損ねは,病気の診断ではないのは,明らかでしょ。でもね,いつでもある大事な問いがありますね。たとえば,心の病が一心同体に成り損ねであるのは,果たして,若者にたまたま出た心の病と取るべきなのか? それとも,一心同体に成り損ねが酷いと,心の病もそれだけ成りやすくなると取るべきなのか? という問いがありますね。この問いは、逆も真なり,ですが,それは,一心同体に成り損ねは,治まって,一心同体に成るためにある場合でしょう。このように「創造的な」問いは,ここでは取り扱えません。それでも,もう1つの是非を問う課題は,議論全体から明らかでしょう。それは,(訳注:エリクソンの長男で,イェール大学の社会学者である)カイ・エリクソンが社会学の術語を使って論じているところですが,危機なんです。その危機とは,若者たちがいまここに踏みとどまる病人という役割を負っていることが,聖書の神様と一心同体に成る創造を創造するために最も価値ある最深欲求が満ち溢れて満たされる舞台として,いまここに踏みとどまるようにされていることを選んで(訳注:チャンスとなる)危機だ,ということです
共に従う仲間の : 2つに分けることができない個人が一心同体に成り損ねることから
共に従う仲間に課される聖書の神様の規律
Ⅰ
重たい一心同体に成り損ねの全体像の絵をお示ししましたから,その全体像の様々な部分を取り上げて,一見バラバラに見える現象に,その一つ一つを関連付けたいと思います。それはひとりびとりの子どもの頃と育ちの過去です。重たいケースで出会う あの諍いは,だいたい全ての人に当てはまりますし,だからこそ,目の前にある絵も,普通の青年の立ち位置が歪んだものにすぎないと,私どもは考えて当たり前と思っていますから、 まず問わなくてはならないのは,この青年期の諍いが子どもの頃の古い諍いを、どんな感じで受け止めていると分かっているのか? ということですし,第2に問わなくてはならないのは,それぞれの子育て文化が「普通の」青年に提供する様々な育て方で,(訳注:過去の)子どもの頃に退歩させようと引き戻す力に打ち勝ち,将来を見据えた目標を目指す勇気に感動して生きる道を見付け出す育て方とは,どんなものか? ということです。
第1に,子どもの頃に引き戻す力,青年期の諍いがもたらす退歩の見方です。事柄をたまらないほど複雑にしたくありませんが,人と関わる心が育つ私どもの枠組みの中で退歩する「場を置く」ために,心が育つ表を,ここでまたご紹介しましょう。この心が育つ心が育つ表に,空欄のままになっている部分はどうするるの? と疑問に思っている読者もあることを知っています。また,この表を読み続けて,表になったもので興味がある表に関心を示すだけで十分,という読者も恐らくいるでしょう。
人と関わる心が育つ表。空欄になっている部分の方が多い表,右上がりの対角線にしか言葉が入っていない表しか,知らない人がほとんどではないでしょうか?
しかし,全てのセルになにがしかの言葉,意味が入るみたいです。