「自分の暮らしは脆いものだった」と気付くときここ20年以上、日本は息詰まっていると感じている人がとっても多い。閉塞感を感じている人がとても多い。それは、言葉を変えれば、原理や信念を失って、不安に思い、眼...
私は、いまでこそ、臨床心理学徒なんですけれども、大学時代は、政治思想史の勉強をしていたんですね。藤原保信先生の門下生の端くれです。一年生の政治思想史の藤原保信先生の授業では、プラトン、ルソー、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバーなどを読んだ記憶があります。対話形式の授業で、今から考えたら、白熱授業のマイケル・サンデル教授のような授業でしたね。私は、関心が主として近現代にありましたから、マックス・ウェーバー、大塚久雄先生、丸山眞男教授、エーリッヒ・フロム、それから、藤原保信先生、宮田光雄先生、武田清子先生…の本は比較的よく読みましたかね。藤原保信先生の著作集は買わなかったのに、『丸山眞男集』、『宮田光雄集』は買って、いまでも、愛読しています。藤原保信先生、ゴメンナサイ?
ちょっと、くどかったかしらね。
先日のテレビ「100分de平和論」で、高橋源一郎さんが取り上げた、ヴォルテール『寛容論』は一行も読んでないばかりか、ヴォルテール自体がノーマークで、一冊も読んだことがありませんでした。
そのテレビで、高橋源一郎さんがトゥールーズであった冤罪事件を取り上げます。というのも、この冤罪事件が、ヴォルテールが「寛容論」を書く契機になったからです。トゥールーズは、カトリックがプロテスタントを虐殺してきた歴史のある町だとか。この冤罪事件も、プロテスタントの商店主を、無実なのに、死刑にしてしまった。『寛容論』は、カトリックがいかに不寛容で、その不寛容が、いかに暴力と虐殺を生むかを告発し、寛容を説く書になっているのでしょう。その寛容が目指す世界が、昨日のブログでも紹介した「人類皆兄弟」のヴィジョンでしたね。しかし、キリスト教は「愛の宗教」なのに、実際は、一番の悪の元凶になっていたわけです。それは、当時のカトリックが、世阿弥の言う我見だけの宗教になっていたからですね。我見だけになっている宗教程、怖ろしいものはありませんね。離見も、離見の見もない宗教は、すでに宗教の名の値しませんからね。神の視点こそ、「離見の見」の最たるものなのに、神の視点がない「宗教」、神の視点がない信頼などというのは、言語矛盾であるばかりか、狂気そのものです。そして、これは昔話ではないことは、皆様もご承知のところですよね。
もう1つ、ハッキリさせておきたいことがあるのですが、それはまた、明日。
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