東京人がはとバスに乗らないのに似ています夜空の星々は、私どもの心と繋がっているのかもしれませんね。 『The Sense of Wonder 不思議を感じる心』から p68の下から3行目から。...
大人と子どもの関係を支配する正義は、大人が身勝手にコントロールできるものではありません。しかし、この正義を大人が我が物のように支配する時、大人は子どもに抜きがたい不信を植え付けることになりますし、エリクソンかも指摘している通り、早すぎる良心と本音の溝の大きさを恥じる人間にしてしまいます。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.256の、5行目途中から。
フロイトは、こういったことをダイナミックに定式化しました。フロイト以前の人で、心理学と神学の境目にある、こういった経験をありのままに表現できた人は、ルター以外には、ほとんどいませんでした。ルターは、こういった経験から、神学的な言葉で定式化した宗教的な手柄を引き出しましたね。ルターが描き出したのは、いろんな形で、子どもの頃から人間の生き方に蔓延る≪悪≫でした。その≪悪≫とは、たとえば、ルターが描き出した恥です。この恥は、赤ちゃんが裸にされて、バカにされた感じがした時に初めて体験する気持ちです。
この恥も実に曲者です。臨床をしてますと、不信も厄介ですが、その不信が恥になったものは、もっと厄介ですね。というのも、この恥が無意識裡に自己主張をすると、人も自分も傷つけることにもなりますし、あらゆる依存症を作り出すからです。
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