エリクソンが30年前に積み木遊びを遊んだ男の子で、今は暴力的な青年の社会的自立のために仕事をしている男性。激しい怒り、英語ではrageを抱えながら、それを自分でコントロールする力がある。どこぞの安倍晋三首相のように、自分の激しい怒りのはけ口を何とか確保しようと、それを私的領域でやるのも問題なのに、それをある意味正々堂々と、国家規模でやろうとしている狂気。あの人そのものが今や「兇器」なのかもしれない、と思うほどです。
今学校に参りますと、どの学校の教員も、ほぼ例外なく、愛着障害の子どもたちがあふれかえっていることに、日々苦戦されています。しかも、その子どもたちが「愛着障害」だという認識もないことの方が、はるかに多い。
多くはADHDに代表される「発達障害」だとみなされている。医者もそのように「診断」していることが少なくない。医者も「儲からない」児童精神医学などには、ほとんど興味を示さないから、「よく分からない」のです。私の印象(統計ではない)では、そのように「発達障害」と言われている子どもの、少なくとも80%は「愛着障害」。しかし、「診断 ダイアグノウシスdiagnosis」は、日本では「医師法」で医師しかできない、「建前」になっているので、心理が診断したら、医師法違反になっちゃう。しかし、こんな特殊事情は、「先進国」では日本くらいでしょう。「先進国」とは、経済指標であって、≪人間らしい暮らし≫、≪人が幸せを感じる社会≫を示すものではないので、日本人が「エコノミック・アニマル(金まみれのケダモノ)」であることを示しているだけかもしれませんね。
しかし、心理も診断するわけです。見立てずには人に関わりにいく。見立てと治療方針はコインの裏表だからです。しかし、「診断」はできないので、「査定 アセスメントassessment」と言って、「診断」ではないことを装うわけですね。順法精神なのかもしれないけれども、これも社会矛盾の表れだと思います。「診断」とそれに伴うケアが必要な人が、こんなにたくさんいるのに、それを十分にするだけの質と量の医師が存在せず、しかも、それをその「少数の医者」が寡占しているのですから。
横道はこの程度にしておきましょう。
愛着障害は、赤ちゃんの時に、母親が、仕事時間やサービス残業が長く、あるいは仕事の欲とその母親自身の心理的課題が大きいために、赤ちゃんと「共に居る」時間が少なすぎたために起こるのです。昔言われていたように、極端な虐待があるケースの方は少なく、極端な暴力がないケースで、結局は激しいネグレクト(「共に居る」が欠けている)ケースの方が、今の日本でははるかに多い。母親自身は二重、三重に保育を確保していても、ごく当たり前に子どもが「愛着障害」になってしまっている。なぜなら、その子の≪母親≫が、≪その子≫と「共に居る」ことがとても少なかったから。
この愛着障害の特色。いろいろ言われていますが、私が着目しているのが、この「激しい怒り rage」なのです。それが外に向かえば、暴力や暴言になる。内こもれば、人を避けるから、クラスのお友達から浮いた感じになるし、浮かない顔になります。子どもの様子を見ていれば、それと分かる場合が少なくないくらいです。
私は願わずにはいられません。
“ 「愛着障害」をイワレナク背負い込まされた子ども、ひとりびとりが、あの男性のように、その激しい怒りを自分でコントロールできますように ”
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