発達トラウマ障害の負わされた愛着障害の子ども達が、家庭で、学校で、保育園や児童養護施設などの児童施設で、間違った対応=虐待をされる典型的なパターンを示してくれてましたでしょ。実際この件を、発達トラウマ障害=愛着障害の子どもがクラスにいる、ある教員(今のニッポンで、クラスに1人の発達トラウマ障害=愛着障害の子どものいないクラスなどありません)に、この件を紹介したら、「あるある」とばかりに、「自分のことを言われているみたい」とのことでしたよ。
ブルース・ペリー教授の The boy who was raised as a dog の第11章、「癒しのやり取り」のp.243の、下から7行目途中から。
(発達トラウマ障害≒愛着障害の子どもに)罰を与えても、親切になったり、気前がよくなったり、人の気持ちが分かったりすることになど、なりませんからね。いろんな枠組みを設ける必要があっても、もしも、私どもが子どもに善くなってほしいと願うのであれば、まず私どもが、子ども達と善い関わりをしなくちゃね。大事にされて育てられた子どもでしたら、自分のまわりの人たちを幸せにしたいと願うものですね。なぜならば、その子は、「自分が幸せだから、人も幸せにできる」、とよく承知しているからです。その子は、罰は嫌だから従っている、という訳じゃぁありませんからね。子どもを肯定する時にできる循環が、子どもを否定する時にできる循環と同じくらい、強力なものですが、このような、子どもを肯定する時にできる循環は、いけない行動をすることは〇〇だからだと最初に了解し、対処することとは相いれない反応から、生まれてくる場合がままありますね。私は心から信じているのですが、もしも、レオンが2歳くらいになって、たとえ、母親からネグレクトをされても、それだけでは、私が会うことになったような、冷徹な人殺し、にはならなかったはずだ、ということです。
「ダメだぁ」と言われるようなことをしでかすと、そのようなことをした子どもも「ダメな子」と見なされがちですね。すると「ダメな子として、大人は相手をする」ということになりがちです。それだと、否定的な循環しか生まれません。肯定な循環は、どこかで、but 「それにもかかわらず」が必要です。
子どもが、「ダメだぁ」と言われるようなことをしでかすとき、but それにもかかわらず、その子を「ダメな子」とはせずに、「良い子に違いない」と考える。いや、信頼し続けることです。悪い良心の人にはできない芸当ですね。根源的信頼感が豊かでないと出来ない芸当です。「ダメだぁ」と言われることをするからには、それ相当の辛い思いをしてきたはずだから、その痛みに手当てをするような関わりが出来ないかなぁ、と思いながら、そのような関わりを探しながら、関わることになりますね。すると、その子どもの方でも、すぐにこちらの心の動きが分かりますから、こちらのその心の動きが本物か、ウソとゴマカシのかけらもないか、試す様な「悪いこと」をまたやりますね。大人の私どもが試され続けることになります。「こんな僕(私)でも、信頼し続けることができますか?」。言葉にできる子どもに未だあったことはありませんが、私どもはその問いの前に立たされますね。私どもの真価が、子どもから、あるいは、神様から、問われているのです。
その問いに答え続けることが、サイコセラピストだけではなくて、子どもと関わる大人の責任(答え続けことが出来ること responsivility)なんですね。
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