エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

インターメッツォ: レクティオ・ディヴィナ : イエス・キリストの信実

2016-11-03 00:53:40 | 間奏曲

 

 

 
繋がって生きていくためには、
   ヨーヨー・マと大竹しのぶ  昨日の「プレミアム・トーク」(10.31/2014, 8:15~9:40)は、実に見応えがありましたよ。私は録画したも......
 


  ヘンリー・ナウェンの『魂の向き』Spiritual Direction、p.103. 今宵は、読書、神様に出逢える読書。

 

 

 

 

 

 

 

 レクティオ・ディヴィナ 神様に出逢える読書

 

 聖句を選んで、声を出して読む、ゆっくりと、注意深く、初めから終わりまで。立ち止まって、1つの聖句をじっくりと味わう。世間に流布している理解の仕方に満足しない、有名な聖句であっても聖書にある物語に、耳を傾けて、新鮮な理解をして行く

 

 

 

 

 

 聖書をゆっくり、繰り返し読む。リリードする reread. 巷に認められた理解の仕方に満足せず、聖書が語る言葉に耳を澄ませる。聖書にあるメッセージを深く理解する、一番いい方法の1つです。

 私は、ゆっくり繰り返し、聖書を読む方法の一つが、翻訳です。原語の意味や音に立ち返って、理解する。とても味わいあるものです。その中で一番新鮮な感覚を強烈にした聖句が、ガラテア書第2章16節ですね。「ピスティス・イエス―・クリストウー」。ここは、キリスト教の根幹にかかわるくらい大事な聖句です。普通は、「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されます。それが、本屋さんで売られている『聖書』の翻訳ですし、教会の多くで、その翻訳が使われています。私は、これは誤訳だと確信しています。

 「ピスティス・イエス―・クリストウー」は、私のギリシア語の先生である武藤陽一先生は「キリストの信実」と訳されています。前田護郎先生(中央公論社とインターネット)は、「イエス・キリストのまこと」と訳されています。

 ですから、ガラテア書第2章16節は、武藤陽一先生によれば、

「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信実によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストの信実によって義としていただくためでした」

となります。

 ですから「義とされる」、「あなたは大丈夫」とされることが、圧倒的なプレゼント、恵みとなります

 

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