今朝も、岩手県大船渡市で、山浦医院をやっている山浦玄嗣(はるつぐ)さんの言葉から。『イエスの言葉 ケセン語訳』から4日目。
先日ある本を読んだでいたら、松下電器・パナソニック創業者で偉大な思想家としても知られるあの松下幸之助さんが、「心の貧しい人は幸いだ」をどう解釈していいものか、心の豊かなほうが幸いではないかと首をひねっていたという記事がありました(「松下幸之助とPHP運動」坂本慎一『宗教と現代がわかる本 2011』渡辺直樹責任編集・平凡社)。
これはじつにもっともな感想だと思います。日本語で「心が貧しい人」といったら、それは「高貴な精神が欠けていて、空想力がとぼしいために、他人の痛みなどにまったく無関心で、自己中心的なさもしいやつ」のことです。そんな人がどうして「神さまのお取り仕切り」の幸せへの優待券をいただくのでしょう。松下さんが首をひねるのは当然です。
これは直訳すると「プネウマに関してよわよわしい人」という意味です。プネウマとのは基本的に「風」のことで、同時に「息吹・呼吸・生命・霊魂」でもあり、これらを古代人は区別せずにひとつのことと認識していました。
ですから「プネウマに関してよわよわしい人」とは言葉の最も具体的な意味において「鼻息の弱い人」のことです。金もない。力もない。地位もない。健康にも恵まれない。貧乏に打ちひしがれて、望もなく、頼るものとてなく、神頼み以外には残された道もなく、吐くため息も弱々しげな、そういう人々のことです。「よわよわしい人」とは、貧乏人、乞食、病人、憐れむべき境涯の者のことです。
プネウマに「心」の意味がある以上、「こころの貧しい人」という訳は文法的には可能ですが、日本語の慣用表現でギリシャ語本来の意味から著しく離れ、キチンと意味を伝えるという点からは明らかな失敗、誤訳です。
ですから、聖書が誤訳だらけですと、神さまを信頼する、ということも間違いやすい。そもそも、「信仰」ということが誤訳ですからね。
ルターでなくても、聖書は、ギリシャ語、ヘブライ語に遡って、原典を確認することが、是非とも必要です。
あるいは、ギリシャ語やヘブライ語の勉強がこれからの人は、原典に忠実な、旧約聖書ですと関根正雄先生の翻訳、新約聖書でしたらね前田護郎先生の翻訳に当たる必要がありますね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます