エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

心病む人が増える時代の雰囲気

2015-04-22 07:58:56 | エリクソンの発達臨床心理

 

 器官の発達が、人間関係の発達にも繋がります。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p31の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 社会が、前性器期の諸段階の子どもが自慰やその連想をすることに対して、どのように反応するのかという特定の課題に関して、私どもは、解釈という歴史的なジレンマに直面します。というのも、精神分析家が臨床を観察することによって、前性器期の諸段階を発見することになりましたが、元来「社会」というものは、子どもの性に対して、非常に敵対的ですから、大なり小なり、強烈な抑圧をすることになりますし、ときには、すべての人を抑圧することにもなりかねないものだから、です。しかし、そのような抑圧の時代の空気が、ビクトリア期に特有のこだわりであった、と言われますし、その時代に主流の不安神経症、すなわち、ヒステリーと強迫神経症が増加する独特の背景にもなりました。

 

 

 

 

 社会が抑圧を強めますと、社会から弾き飛ばされ、差別される人が増えます。それと同時に、心を病む人も増えていきます。

 今の日本は、ますます抑圧を強めていますから、仕事を干されて、差別される人が増えます。それと同時に、今でも十分心病む人が多いのにもかかわらず、さらにいっそう、心を病む人が増えることになりますね。

 

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一番大事なことを見落としている不安

2015-04-22 06:33:54 | アイデンティティの根源

 

 アイデンティティ、自分を確かにさせることは、この世の栄華においては、出来ない…。

 Young Man Luther 『青年ルター』p194の第2パラグラフの下から10行目途中から。

 

 

 

 

 

確かに、実存的な絶望を、システィナ礼拝堂で、永遠の地獄に直面する時以上に、強烈に感じる時はないし、人が避けては通れない、尊厳のある悲劇を、ミケランジェロのピエタを見た時以上、じかに感じることもありません。その他のルネッサンス期の聖母マリアを見れば、イエスが陽気に決然として、自分の足で立つ努力と、この世に手を指し延ばす努力をしていることが分かり、ミケランジェロの、この世のものとも思えないし、歴史を超えている感じもする彫刻の偉大さが分かるに違いありません。その彫刻は、永遠に若い母親が、その膝に、犠牲で亡くなった、大人となった息子を抱いています。永遠に対する1人の人のトータルな応答は、人生の一時に話した言葉にあるのではなくて、人生を通して、様々な言葉を述べた、その最後に話した言葉の中にこそあります。心理学的に申し上げれば、ルネッサンス期の人は、心の中にいくつもの矛盾を抱えていました。その矛盾とは、あらゆる道徳の重荷です。歴史が一致するのは、まさに、新たな価値の創造が、問題を新たに征服することにピッタリと呼応し、しかも、そこに関わる人々が歴史の傍らに落っこちちゃう時なんですね。

 

 

 

 

 ルネッサンス期の人々は、自由を手にしていましたし、人間の絶望も、悲劇も、知っているばかりではなく、それを絵画や彫像にして表現するのにも長けていました。それでも、人が葛藤を覚えるのは、様々なことに上手に対処できるのに、自分にとって最も根源的な課題、どう生きればいいのか? ということに答えが見つからない、ということです。

 あなたはその答えを見つけていますでしょうか?

 

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倫理的想像力とπαρρησία パレーシア

2015-04-22 02:34:18 | エリクソンの発達臨床心理

 

 倫理的想像力。聴いたことがありますでしょうか?

 この言葉はいろんな人が言っているのかもしれませんが、私は大江健三郎さんがおっしゃる意味で、倫理的想像力を鍛えていくことが大事だと考えています。彼が言う「倫理的想像力」とはいったいどういうことでしょうか? 

 「想像力とは「今ある現実と未来の現実を作り変えようとする構想の事」ですが、倫理的想像力とは、「いまある復古的な潮流にさからい、現在から未来にかけて人間の現実的態度としていくべきものの、統合的なモデルです」(立花隆編『南原繁の言葉』p235とp236)といいます。

 Facebookを見ていましたら、音楽家の三枝成彰さんが「フェイスブックでこういうふうに発言することですら、管理されているんでしょう。「戦争反対」「憲法改正反対」とか「原発反対」とかなど発言すると、...必ず仕事を失ってしまう時代になりました」と述べていました。自分の仕事を失いたくないから、「見ざる言わざる聞かざる」になりやすい。ハッキリ物を言って、テレビに出れなくなったら、新聞のコラム欄をなくしたら、雑誌のコーナーをなくしたら、喰いっぱぐれてしまう、自分が損だ、という訳ですね。もうすでに、そんな時代になってしまっているんですね。復古的な潮流が激流になりつつある…。

 昔早稲田の3号館の4階の大教室で、鴨武彦教授の「国際関係論」を聴いたとき、なぜ人々が戦争に反対できなかったのか、とのインタヴューを、当時の人々にした話をしてくれたことがありましたね。このブログにも一度記しました。その時に、鴨武彦教授は、右手を左の腰のあたりに持って行って、握った手を右前に大きく旋回させてから、「これが怖かったんですね」とおっしゃいましたね。「つまり、軍刀、サーベルが怖かった」。でも、三枝さんによれば、今も刀の危険、暴力をこうむる危険が0ではないのしても、それよりも、仕事を失い危険の方がはるかに大きいでしょう。喰いっぱぐるのは嫌だから、特に「華々しい」仕事を失いたくないから、「見ざる聞かざる言わざる」を決め込む人も少なくないでしょう。

 いまこそ、「自分が感じていることを腹蔵なく、ハッキリ言うこと」、すなわち、παρρησίαパレーシアがとっても大事になりました。特に言論を生業とするジャーナリスト諸兄姉、いっそうの発奮を期待します(新聞、テレビ、メディア教育関係などに友人が何人かいるものですから)。

 

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