エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

「原始」社会の、本物の豊かさ

2015-04-29 09:41:59 | エリクソンの発達臨床心理

 

 子育てが豊かであれば、その社会は「原始」社会でも豊かです。子育てが貧困であれば、近代都市社会であっても、貧困の極みと言わなくてはなりません。もちろん、現在の日本社会は、その貧困の極み社会です。

 The life cycle cpmpleted 『人生の巡り合わせ、完成版』、p35の第2パラグラフ7行目途中から。

 

 

 

 

もともとスー族の子育てにあったものを再現してみて、信じるようになったことですが、それは、後ほど議論することになる、赤ちゃんの時期の根源的信頼が最初に確立されるのは、子育てをしている母親が、無制限といっていいほど、気配りをしてくれるばかりではなく、物惜しみしないで関わってくれるおかげだ、ということです。歯が生えてきた時期の間もまだオッパイを含ませながら、その母親は、潜在的な凶暴性を目覚めさせかねないやり方で、その赤ちゃんの身体的にはすでに準備が整った激しい怒りを、陽気に悪化させるようになるかもしれません。これがのちのち、いつものあそびに、その後は仕事にと道をきらくことになったことは明らかです。それは、餌食や敵に対する十分な攻撃性を求めることになる、狩りの仕事や戦争の仕事になります。このようにして、私どもが結論を得るのは、原始的な諸文化というものは、赤ちゃんの頃の身体の経験と対人関係の経験に対して、身体の部位の働きや対人関係のやり方の「正しさ」を強調するために、特定の意味を与えることを遥かに超えて、細心の注意を払って、しかも、体系的に、目覚めたのは良いとしても歪められてきたエネルギーに道を開くように思われる、ということです。原始的な諸文化は、赤ちゃんの不安に、継続的に自然界を超越する意味を与えることになります。この赤ちゃんの不安は、このような激しい怒りに付け込まれてきたものでした。

 

 

 

 

 赤ちゃんの不安に対して、癇癪を大人が起こさないための仕掛けが、原始社会にはチャァンとありました。それは、赤ちゃんの不安にチャァンと皆が納得できる意味を与えていたおかげでした。だから、赤ちゃんが不安な表情をしたり、泣きだしても、寛容に、気前よく母親が対応することが、社会的に認められていました。そして、人間にとって必要不可欠な、エッセンシャルな根源的信頼を、赤ちゃんの時に豊かにすることができる社会に、「原始的」社会はなっていたわけでした。近代都市に住み、あらゆる文明の利器に囲まれた私どもと、「原始的」社会の住む彼らのどちらかが豊かなのかは、もう議論の余地がない、と私は考えますね。 

 あなたはどう考えますか?

 

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コンプレックスが強みに代わる時

2015-04-29 08:14:22 | アイデンティティの根源

 

 マルティンは、いわばコンプレックスの塊です。しかし、それが無駄でなかったのですね。

 Young Man Luther 『青年ルター』p196の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 ルターは説教をしていると、修道士だったマルティンとはまるで別人でした。ルターの態度は男らしく、背筋も伸びていましたし、ルターの話は落ち着いていて、キッパリしたものでした。この若い頃のルターは、決してデブでも、太りすぎでも、丸顔でもありませんでした。それは晩年になってからの話でした。ルターは骨太で、頬には深いしわを湛え、不屈で、とがった顎をしていました。その眼は、茶色で小さく、当時の人に残した印象からすれば、人を惹きつけてあまりあるものだったに違いありませんね。ルターの両目は、時には大きく突き出ているように見えましたし、またある時には、小さく窪んでいるように見えました。時には、深く底知れないもので、また時には、星のようにキラキラとし、鷲のように鋭い目つきになり、雷のように怖ろしくもあり、正気を失ったように憑りつかれている場合もありましたね。

 

 

 

 

 

 自信のなかったマルティンが、自信に満ち満ちたルターになりました。それは表情や態度にもハッキリ表れます。

 

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ことばの枯渇 3訂版

2015-04-29 02:23:57 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 ことば。人間、ホモ・サピエンスの特色です。でも、白鳥が群れで逆Vの形で飛んでいる時、語り合いながら、その編隊飛行の形を変えているのを目の当たりにする時、ことばは人間だけのものじゃぁないなぁ、と感じます。

 ことば、インターネットやソーシャルネット、あるいは、本屋さん、あるいは、小学校の授業や、壁に貼った標語…。一見言葉が溢れているようにも見えますね。でも本当に言葉が豊かになっているのでしょうか? あなたはどう感じますか?

 言葉には、1)自分を表わす言葉、2)他者を表わす言葉、3)世界を創造する言葉 の3つがあるそうです。いま溢れているのは、1)自分を表わす言葉だけでしょ。まど・みちおさんややなせたかしさんのような、2)他者の良さを表わす言葉や3)世界を創造する言葉は、極端に枯渇していることを感じます。

 ソーシャルネットの言葉の中にも、明らかに「自己宣伝」と分かるような言葉や写真を載せているような人もいますしね。その人、何かを信じているように言ってはいますが、「何も信じられません」ということが伝わってきて、その人の言葉や写真を見るたびに、「痛々しい」感じがして、嫌ですものね。でも、ご本人はうすうす感じているのに、見て視ぬフリをしている感じです。逃げています。自分に向き合おうとせず、探し求めているのは、自分に「いいね」を出す人ばかり…。はやく気づいてもらえたいものですね。

 新聞でもテレビでも、本当はヴィジョンに繋がるような3)世界を創造する言葉を語るべきなのに、いまでは、当たり障りのない、権力に迎合し同調する言葉に終始している場合があまりにも多い。古賀茂明さんのように、忌憚のない意見を言う人や、古賀茂明さんの率直な意見そのものが、「事件」か「事故」のような扱いでしょ。言論統制と「表現の自由」の時代が、すでに始まっています。自己宣伝だけの言葉や、真実をゴマカシ、隠ぺいしている言葉ばかりが、溢れているんであって、真実の言葉、パレーシアな言葉は、極端に枯渇しています。

 「こんな素敵なものを見つけましたよ」、「こんな世界もありますよ」と言うヴィジョンのある言葉を大事にして生きたいものですね。

 でも、そのためにどうしたらいいのでしょうか?

 

 

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