アホか、といいたくなるような肌寒い陽気です。
不順な天候がつづくせいか、我がベランダの櫨(ハゼ)の樹には異変が起きて、狂い咲きならぬ、狂い紅葉が始まってしまいました。
去年の今日、やはりベランダに置いてある桔梗の花が咲いたのですが、今年の蕾はまだ小さいままです。
今日十四日は明智光秀公の祥月命日です。
我が庵には仏壇などはありませんので、本箱の一段に、金属製の小さな阿弥陀如来を置いています。滋賀県大津市にある西教寺というお寺の本尊と同じ坐像です。ここには明智光秀公のお墓があります。その前に水と線香をお供えしました。
祥月命日が日曜日というのは十一年ぶりです。毎月十四日の月命日には同じことをしますが(たまに失念することもあります)、勤めのある日は出勤前に簡単に済ませるのが常です。
今日は焼香前に斎戒沐浴―。
といっても、古式に則ったものでもなんでもありません。我流です。早い話がシャワーを浴びながら、いつもより少し念入りに髪と身体を洗い、髭も当たって、「心」はともかく「身」だけは清めたつもりになります。
歴史上は六月十三日に亡くなったとされているのに、なぜ十四日を御命日とするかといえば、江戸時代までは夜が明けるまでは前日、と解釈していたと知ったからです。
山崎の戦いがあったのは確かに十三日でした。
いまの時間でいうと、午後四時ごろに本格的な戦闘が始まり、わずか二時間後の午後六時には大勢は決着を見ました。
このとき、一気に坂本城まで退却してしてしまえばよかったのに、と私は思うのですが、光秀公は手近な勝竜寺城に退却します。肉体より精神的に疲労困憊していたのでしょうか。
三万といわれる猿の軍団がヒタヒタと押し寄せ、城を十重二十重に取り囲みます。蟻の這い出る隙もなかったでしょう。その囲みを突いて抜け出すというのは奇跡のように思えますが、光秀公は抜け出します。
ただ、退却後すぐ抜け出したとは考えられません。この時期の日没は七時前後です。夜陰に乗じて、といいますが、早くても八時ぐらいまでは夜陰に乗ずることはできないでしょう。疲労の極にあったのですから、一睡したかもしれません。
勝利を確信している猿の軍団が、城攻めは明朝早々と決め、祝い酒を呑み始めるのを待ち、実際に呑み始めたのを見きわめる必要もあったでしょう。
浮かれた声が聞こえ、やがて寝静まるのは、どんなに早くても十一時。それから決死行です。
勝竜寺城から光秀公が土民の手にかかったとされる京都醍醐の明智藪まで、馬を飛ばすとしても三十分かかります。
こうして時間を足して行くと、勝手な推測ですが、実際に亡くなったのは十三日ではなく、十四日未明と考えるのが妥当だと思えるのです。
大津坂本の西教寺は信長の叡山焼き討ちで、ほぼ灰燼に帰しました。その復興に力を尽くしたのが坂本城主となった光秀公です。有力な檀越でもありました。
その西教寺では十三日ではなく、今日十四日に「明智光秀公御祥当法要」と呼ぶ法要が行なわれました(はずです)。
西教寺は遙か昔、時節外れに訪れただけです。御祥当法要の日に一度は行かなくては、と思いながら、いまだに果たせないままです。
今日夕方、雷雨がありました。二時間ほど降って上がりましたが、月はありません。
月さびよ明智が妻の咄しせむ-はせを