昨日、東京・本郷に用ができたので、少し早めに家を出ました。用を足す前に池之端の大正寺というお寺に寄って行こうと考えたのです。
新松戸から本郷へ行くのには、御徒町か大手町で乗り換えなくてはなりません。東京で暮らしていたころであれば、地図を見なくても自然にルートを思い浮かべることができました。しかし、東京を離れて何年も経つと、どういう経路で行ったらいいのか、とっさには思い浮かばなくなっています。
おもむろに地図を引っ張り出しました。地下鉄網にすっかり疎くなっていて、地図を見なければならなかったのが幸いしました。千代田線の湯島で降りることにすれば、乗り換えなし。湯島駅から本郷まではそれほどの距離でもないのです。
大手町で乗り換えることにすると、千代田線から丸ノ内線まで長い距離を歩かされます。御徒町経由にすると、三回も乗り換えなければなりません。
それに湯島で降りれば、私にとっては永年の宿題であった大正寺に寄ることができる。
大正寺のある池之端は、かつて私が棲んでいた浅草からはそれほど遠くないので、そのうちに、そのうちに、と思いながら、にわかに浅草を離れることになってしまったので、行かずじまいになっていました。
その大正寺に何があるのかというと、幕末期の勘定奉行、外国奉行だった川路左右衛門尉聖謨(1801年-68年)のお墓があるのです。
川路さんは九州日田の生まれ。天領代官の手代という豊かではない家に生まれましたが、教育熱心だった父親の期待に応えて、旗本・川路家に養子に入り、勘定奉行という幕臣トップの座まで上り詰めた人です。
かといって、決して出世のガリガリ亡者ではありませんでした。常に幕府第一と考え、そのためなら諫言も厭わず、いつでも職を辞す覚悟を秘めていた人です。
大老・井伊直弼の方針は間違っていると批判して、一時は失脚の憂き目を見るほどの硬骨漢でありました。
いまでいう脳卒中で三度も倒れながら、強靱な意志力で病を克服。江戸城開城直前の明治元年三月十五日自裁。新暦では今月二十九日が命日ということになります。
実弟は同じく勘定奉行、町奉行などを勤めた井上信濃守清直。
湯島駅から徒歩十分で大正寺に着きました。
慶長九年(1604年)、円通院日亮という日蓮宗の僧侶がここに草庵を結び、大正庵と号したのが始まりです。
私は日蓮宗のお寺に入らせてもらうことはあっても、参拝することはありません。しかし、川路さんのお墓があるとなれば別。くる途中、供花も線香も買うところがなかったこともありますが、心ばかりのお賽銭をあげました。
川路聖謨さんと妻・佐登子さんのお墓。
お寺の入口には、ここに川路さんのお墓があるという台東区教育委員会の案内板があるのですが、墓所にはなんの目印もありませんでした。さほど広くはないところでしたが、随分捜してしまいました。
家系はつづいているようで、昭和になってから墓碑が新しくされ、香炉や芝台は最近作り替えられたらしく見えました。
川路さんと佐登子さんが知り合ったのは前田夏蔭という歌人の歌塾でした。
知り合ったというより川路さんが見初めたのです。川路さんにとっては四度目の結婚。佐登子さんは三十五歳という齢で初婚でした。
「幕末・明治・大正 回顧八十年史」という本に載っている川路さんの写真です。眼が異様に大きいので、私は目張(めばる)殿と渾名をつけました。
念願の墓参りを終え、東京大学北端の弥生坂を上って用先に向かいました。竹久夢二記念館がありました。
東大の弥生門前には立原道造記念館がありました。
学生時代、私は中原中也よりも、立原道造に傾倒していました。ここに記念館があると知っていれば、もっと早く出てきたのですが、用向きの時間も迫っていたので、前を通り過ぎただけ。
用を済ませたあと、湯島天神に寄りました。
一度通り過ぎたのですが、近々またこられるかどうか、と思い直して参拝。前にきたとき(といっても十七年も前)とは、まるで別の社にきたように印象が違うと思ったら、平成七年に社殿が修理改築されていたのでした。
湯島天神といえば合格祈願の絵馬奉納。
この日は無事高校や大学に受かったらしき親子連れが、幾組もお礼参りにきていました。
三十八段の石段。湯島天神の男坂です。
左に傾斜の緩い女坂があります。
不忍池まで足を延ばしました。辛うじて桜が残っていました。