桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

重陽の節供

2018年09月09日 23時06分47秒 | 風物詩

 九月九日は一年に五つある節供のうち、重陽の節供です。久しぶりに祝ってみるか、という気になりました。
 去年まで、子どもたちも利用する公共施設でパート勤めをしていたので、五節供のうち、三月三日の雛祭り、五月五日の端午の節供、七月七日の七夕と、それぞれの節供が近づくころには、施設の入口に雛人形や五月人形、笹のこしらえものを飾ったりしていましたが、一月七日の人供と重陽の節供は人々に馴染みもないので、何もしませんでした。
 もともとは旧暦の行事ですから、旧暦九月九日は今年は来月の十七日です。
 九月は「くがつ」と読んで、決して「きゅうがつ」とはいいませんが、九日は「ここのか」、あるいは「ここぬか」と読むのが普通であって、「くにち」とは読む人はあまりいません。
 ところが、「くにち」と読むところはあるわけで、そう読めば、「くんち」、つまり長崎県や佐賀県で行なわれるお祭り ― 「おくんち」となるわけです。



 菊のポット植えを捜して花屋さんを覗いてみましたが、いまの時期はまだ菊はありません。代わりにポットマムを買ってきました。写真を残すのにあたって、後ろには同じキク科のヨモギ(蓬)を配してみました。
 このヨモギは六月十二日に種を播き、二十九日に芽を出して、草丈30センチほどに成長しています。
 そろそろ庭に植え替えるかどうか
思案中です。



 キク科のツワブキ(石蕗)を染め抜いた花瓶敷きが見つかったので、テーブルクロス代わりに敷いてみました。

 本来は菊の花弁を三つ四つ毟って酒に浮かべるのですが、ポットマムは日本の菊に較べると、花も花弁も小さいので、私の太い指で毟りとると、引きちぎってバラバラにしてしまいそうです。花ごとちぎって浮かべました。
 盃には酒を注ぐところですが、いつの間にか大酒呑みと化している私でも、日本酒は一切呑まないので、盃というものを持っていません。
 正しくいえば、盃やお銚子は私が使わないだけで、どこかにあるはずです。昔はちょくちょく友が訪ねてきたりしたので、日本酒を呑む友のために用意してありました。いろんなものが積んであって、開かずの扉と化している台所の引き戸を開けたりすれば、どこかに眠っていると思うのですが、開かずの扉を開けるためには大掃除のようなことをしなければなりません。
 健康を危惧する自分のためにこしらえている、ニンニク酒とニンニクを漬け込んだ赤ワインを、それぞれ毎朝一杯ずつ呑むためのショットグラスを持ってきて、焼酎を注ぎ、菊の花に似せたポットマムを浮かべてみました。

 重陽の節句のいわれはどんなことであろうかと、アンチョコを紐解いてみると ― 。
 いまから千五百年も前の中国六朝時代、梁の国の呉均(469年-520年)という人が書いた「続斎諧記」には、以下のような記述があります。

 汝南桓景隨費長房遊學累年。長房謂曰。九月九日、汝家中當有灾。宜急去、令家人各作絳囊、盛茱萸、以繫臂、登高飲菊花酒、此禍可除。景如言、齊家登山。夕还、見鷄犬牛羊一時暴死。長房聞之曰、此可代也。今世人九日登高飲酒、婦人帶茱萸囊、蓋始於此。

 汝南(かつて中国河南省にあった郡)の桓景(かんけい)という人が、方術(不老不死の術や医術など)の達人である費長房(ひちょうぼう)という人に教えを乞うべく師事して、何年も学んでいた。
 あるとき、師の長房がいうのには、きたる九月九日にはお前の郷里に大厄災がある。急いで郷里に帰り、家人に赤い袋を縫わせて、茱萸(イタチハジカミ)を入れ、その袋を肘にかけて山に上り、菊花の酒を呑めば、災いは消えるであろう、と。
 桓景は郷里に帰り、いわれたとおりの支度をして、家族揃って山に上りました。そして、菊花の酒を呑んだあと、夕方に戻ってみると、鷄、犬、牛、羊の家畜がいっときに急死していた。長房がこれを聞いて謂うのには「これは(人間に)代わってくれたのだ」。
 いまの世の人が九月九日に高いところに登り、酒を飲み,婦人が茱萸をいれた袋を身に付けるのは,恐らくこのことから始まったのだろう。
 イタチハジカミとは山椒のことで、秦椒と書いたりもします。

 いつであったか、新宿の馴染みの呑み屋で呑んでいたとき、その日がちょうど重陽の節供にあたっていることを思い出したので、たまたま花瓶に飾ってあった菊の花をもらい、ママさんに、以上のような講釈を垂れながら夜のひとときを過ごしたことがあります。
 私は長年雑誌編集者をしてきたので、本質は何一つ知らない上滑りばかりであったとしても、大概のことは識っているのです。

 もともとは中国のしきたりですから、呑む酒が日本酒ということはあり得ない。
 こういうしきたりが六朝時代に始まったのだとすれば、六朝時代より三百年も前の時代を生きていた
諸葛孔明(181年-234年)は知らなかったかもしれませんが、南宋の岳飛(1103年-42年)は知っていて、菊の花弁を浮かべて呑んだのかもしれないと思えば、どういう種類の酒に浮かべたのであろうかと思います。

コメント
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