桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2023年十一月の薬師詣で・調布市

2023年11月12日 21時49分37秒 | 薬師詣で

 今月の薬師詣で。
 八日の縁日は所用があったので、今日十二日の縁日に日延べ。東京・調布市を歩いてきました。
 十一月十二日というと、二年前、火事に遭った日でもあります。歳を重ねて、月日の経つのは滅法早くなったと感じられるのに、この火事に関しては、まだ二年か、という思いがあります。そんなことを思いながら電車の人となります。

 常磐緩行線直通の東京メトロ千代田線で新御茶ノ水まで行き、小川町で京王線直通の都営地下鉄新宿線に乗り換えました。
 東京都民であったころから京王線というのはあまり乗ったことがありません。地下を走っていた線路が幡ヶ谷で地上に出ますが、高架になったり地上になったり、また地下になったりと忙しい。



 新松戸から所要九十分、調布の一つ前・布田駅で降りました。この布田駅は地下駅です。

 今日、最初に訪れるのは常性寺です。布田駅を出るとすぐ。



 門前を走るのは旧甲州街道。
 真言宗豊山派の寺院。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代、多摩川沿いに創建されと伝えられています。慶長年間に現在地に移転、祐仙法印が成田山新勝寺から成田不動尊を勧請して中興。調布不動尊と称されています。



 奥まったところに本堂があって、金色の薬師如来がお祀りされていました。
「調布市百年史」には、「薬師堂。方三間赤塗り、堂内正面の壇上に古色豊かな厨子が安置されている。この堂は由緒あるもので、その建立は文化(1804年-18年)のころ、一名虎薬師とも呼ばれて秘仏とされていた。高さ一尺一寸の木彫の像があり、鎌倉時代の作と推定されている」と記されているので、昔は別に薬師堂があったようです。



 地蔵堂。



 常性寺から二十四分で次の祇園寺に着きました。
 天台宗の寺院。深大寺を開創した満功上人が天平勝宝二年(750年)に創建したと伝えられています。関東九十一薬師霊場十番。



 山門を入ると、すぐ左に薬師堂がありました。



「新編武蔵風土記稿」には、「薬師堂。三間に三間半、客殿の東にあり、虎柏山(祇園寺の山号)の三字を扁す立身の木像、長一尺許、行基の作と云、并せて日光月光立身の木像あり、長一尺許、同作、又曇花大師の木像あり、いかにも古色なり、薬師の胎内に弘法真跡の心経一巻を蔵む、前立薬師佛立身の木像長一尺七八寸、是は恵心の作といふ、往古はこれより巽の方、冷田耕地の内虎ヵ鳩といふ所にありしを、後にこの地へ移せりとぞ」と記されています。
 格子の扉の奥に薬師如来がお祀りされているのが見えましたが、暗くてよくわかりませんでした。



 薬師堂に相対して閻魔堂がありました。



 最後の清教寺(天台宗)に向かう途中、しばらく野川の河畔を歩きました。桜の枝が傘のように覆い被さって、春はさぞ賑わうだろうと思えますが、いま、歩いているのは私だけでした。



 帰りの電車に乗る予定の京王線柴崎駅近くで、この墓所を見つけました。周りを見回してみましたが、寺の伽藍らしきものが見えません。周辺を歩き回ってみましたが、やはり寺らしきものはありませんでした。墓所に入ると、スマートフォンのグーグルマップは私がまさに清教寺に到着していることを示しています。



 さほど広くない墓域を巡ると、一番奥に歴住の卵塔がありました。この墓所が境外地だとすると、歴住の卵塔を置くはずはないので、ここが清教寺だと知れます。ただ、「清教寺」と彫られた石柱の画像を見たことがあるのに、ここにはそのようなものはないので、ちょっと狐につままれたような感じが残っています。

「新編武蔵風土記稿」には「開山開基詳かならず。本尊弥陀」と記されていますが、「調布市百年史」には本尊は薬師如来と記され、「本寺薬師仏は秘仏とされ、行基作と伝えられるが俗にかわらけ薬師と呼ばれ、乳の足りない者が土器を供え、祈願すれば乳がでるようになるといわれ、信仰を得ていた」とつづいています。



 帰りは行きに降りた布田のふたつ新宿寄り・柴崎駅から。この駅は地上駅でした。

 薬師詣での日はやはり佳きことがあります。
 庵を出るときは小雨でしたが、調布に着いたときには熄んでいました。天気がよくなかったこともあったのでしょうか、電車は空いていて、行きも帰りも全線座席に坐ることができました。すべて待つことなくきました。ことに帰りの千代田線は二分の一の確率でしかこない常磐線直通の電車に待つことなく乗ることができました。

この日、歩いたところ。



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