昨日は小寒。私は今年初の通院。
病院に八時に着くために、北小金駅で電車に乗るのは七時五分。庵を出るのはギリギリですが、六時台です。いまの時期だとちょうど日の出の時刻。
天気の佳い日がつづいているのに、駅までの道は陽光が家並みで遮られているので、空が明るいだけで、陽射しの恩恵を授かることはできません。今冬から私の防寒必需品となっているスヌードの上にマフラーを巻いていても、駅までの道は超々チョー! 寒い!
元旦に北千住の七福神巡りをしたとき、帰りは北千住駅の東口に回って、柳原地区を歩いてみるつもり(七福神はすべて西口)でしたが、やはり疲れたのか、駅に戻ったときにはそれ以上歩く気力を失っていました。
そこで月に一度の通院帰りは恒例の(少し)遠くへ行く日なので、あまり遠くはないけれども、行ってみようということにしたのでした。
柳原、といっても、何か特別なものがあるわけではありません。細い路地が走り、ゴミゴミ(いい意味で)した街があるだけです。
私が生まれたのも同じ下町ですが、これほどゴミゴミしていない。いってみれば、同じ下町というだけで、似ても似つかぬ街なのですが、ずっと昔に一度だけ柳原周辺を歩いたとき、なんとなく懐かしいような想いがして、いつ知れず涙がこみ上げてくるような想いを味わったことがあるのです。
それから幾星霜……。ゴミゴミはまだ変わらずにあるだろうか、という想いを懐いて再訪です。
浅草に棲んでいた時分もときどき北千住にきていました。
ルミネという駅ビルがあり、そこには浅草にはない近代的なステイショナリーショップと無印良品があったからでした。浅草からなら、日本橋へ行って、丸善でも覗いたほうがよさそうなものでしたが、なぜか足は北千住に向くのが常でした。
北千住は駅の西口と東口ではまるで街が異なるようです。私は東口のほうが好きでした。
駅東口の商店街・学園通りにあるサンマルクカフェ。
文具や本を買ったあとはこの店の二階に上がり、窓辺の席が空いていればそこに坐ってコーヒーを飲みながら、街行く人を眺めておりました。
痕跡は何も遺されていないとわかっていましたが、まず旧水戸街道を訪ねることにしました。西口を走る宿場町通り(旧日光街道)が荒川にぶつかるところで旧水戸街道が分岐していました。
上の画像は東武鉄道のガードをくぐるあたり。この少し先に荒川を渡る渡しがありました。
下の画像は旧水戸街道に面した日蓮宗清亮寺。元和五年(1619年)の創建。
かつて門前には街道を跨いで枝を伸ばす松があったそうです。槍掛けの松と呼ばれる老木で、その名の由来は水戸光圀です。
大名行列を先導する槍持ちは、いかなる理由があろうとも槍をまっすぐ立てたまま歩く、というのが決まりでした。ところが、道を跨いで伸びている枝があるので、槍を立てたまま通ることができません。
邪魔をしている枝を伐り落とす、ということになったのですが、光圀が見事な枝を伐ってしまうのはあまりにももったいないので、一度槍を枝に立てかけて休み、出立するときは枝の向こうに回って槍をとれば、槍を寝かせたことにはならない、というイキな計らいをしたのだそうです。以後、ここを通る大名行列は等しく松の下で休息をとるようになったといわれます。
こうして折角残された老木も昭和二十年ごろに枯れてしまったそうです。
荒川の土堤に上がりました。手前から東武鉄道、つくばエクスプレス、JR常磐線、東京メトロ千代田線と四本の鉄橋が並んで荒川を渡っています。
下は土堤から見た東京スカイツリー。さすがに川風は冷たかった。
柳原地区にはそこらじゅうに幅1メートルあるかないかという細い路地があります。
幾星霜前、どこをどう歩いたか、記憶にはありませんが、こういう路地に出くわすと、少しも変わっていないという気がします。
住所表示を撮した下の画像はとくに意味のある画像ではありません。確かに柳原を歩いたのですよ、というアリバイ証明みたいなものです。
テキトーに歩いていたら柳原千草園という公園に着きました。冬枯れで園内全体が寒々しい中に、まだ花をつけている石蕗(ツワブキ)がありました。
柳原千草園前の眺め。
上を行くのが京成電鉄、下が東武鉄道。このあたりの鉄道は線路が飴みたいにグニャグニャ曲がっています。
桁下高さ1・7メートルと大書された東武鉄道のガード。実際は185センチ(身長177センチの私がくぐったときの感覚で)ぐらいあると思われますが、思わず首を竦めてしまいます。
京成関屋駅(上)と東武の牛田駅(下)。関屋駅をカメラに収めたあと、グルリと振り向いただけで、一歩も動くことなく撮った画像です。
ところどころに古そうな建物が残っていました。上は千住東町の八百屋さん、下は北千住駅東口からつづく学園通りを抜けたあたりのマッサージ院です。
千住常東小学校前に建つ甲良屋敷跡の記念碑。
甲良家とは近江の国・甲良荘から出た大工の棟梁で、代々徳川幕府に仕え、江戸城、日光東照宮など大規模な建築物にはすべて関わった家柄です。このあたりは敷地一万坪といわれる甲良家の別荘があったところ。
北千住は銭湯王国といわれるほど湯屋の多い地域です。柳原の大和湯(画像上)から五分も歩かないうちに美登利湯があり、そこから六分、北千住駅近くには梅の湯(画像下)があります。
駅を中心にして半径1キロ以内に十三軒もの湯屋があるのだそうです。入浴料は四百五十円と千葉に較べると三十円高いけれど、湯屋に通うとしたら、二十分近くも歩かねばならない私には羨ましい限り。
こんなフリーペーパーも発行されています。
若い人はどのように呼んでいるのか知りませんが、銭湯とはいわずに湯屋といい、それも「ゆや」ではなく、「ゆーや」と発音するのが東京の下町言葉です。
この日も最後はサンマルクカフェに入って、コーヒー+柚子入りのタルトを摘みながら、道行く人を見下ろして、街巡りの締めくくりと致しました。
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