桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

久しぶりの浅草

2010年03月02日 22時04分47秒 | のんびり散策

 ブログの更新をもたもたしている間に、友と会ったのは先月のことになってしまいました。
 二十一日日曜日は友が帰る日。
 今回会うことになって、友が地図が好きで、よって伊能忠敬を崇拝しているということを初めて知りました。伊能忠敬の話が出たのは、前日、銚子行を決めたときです。
 成田経由で銚子に行くと、佐原という町を通ります。伊能先生の生地です。以前は佐原市。合併して香取市となりました。
 佐原駅で途中下車して、伊能先生の生家なども見せたいと思ったのですが、友は第一に利根川、第二に九十九里浜を見たい、ということだったので、佐原に寄っている時間はなくなってしまいました。
 穴埋めに、せめて伊能先生の墓参りだけでもと思って、友が帰るのを東京駅まで見送り方々、かつて私が棲んでいた浅草を訪ねることにしました。



 伊能先生の墓所は台東区東上野の源空寺という浄土宗のお寺にあります。
 浅草の住民だったころ、台東区役所や上野動物園、アメ横など、上野へ行く用があるときは、大概歩いて行ったので、このお寺の脇の道を通り抜けたものです。

 いつの日だったか、ここに伊能忠敬のお墓があることを知って、折あらば覗いてみよう、と思うようになったのですが、墓所はいつも開かれている境内とは別の場所にあって、私が通るときは恐らく普段の心がけが悪いのでしょう。いつも鉄の扉が閉ざされていました。



 もしかしたら今日も……と危ぶみながら行ってみると、運よく法事があったようで、門は開け放たれていました。私の心がけの悪さを、友の功徳のほうが上回ったものか。



 伊能先生のお墓です。



 伊能先生の先生に当たる高橋至時(よしとき)のお墓です。
 至時は幕府天文方。伊能先生に西洋暦を教え、日本全国の地理測量を支援した人です。



 手前には幡随院長兵衛夫妻の墓がありました。
 当時、このあたりに幡随院という浄土宗のお寺があり(いまは小金井市に移転)、その裏に棲んでいたことから幡随院を名乗ったようです。



 合羽橋本通りにある曹源寺。というようりカッパ寺として有名。



 寺内にあった正体不明の河童のギーちゃん。



 海禅寺は通りから少し奥まったところにあります。
 同名のお寺が茨城県守谷市にあります。平將門と影武者たちの供養塔があるお寺で、私は去年八月二十五日のブログ(平將門補遺)で触れています。
 寺の名が同じなのは偶然の一致かと思いきや、開山(1624年)の覚印周嘉というお坊さんの出身地が現在の茨城県守谷だったらしい。きっと子どものころから將門のファンだったのでしょう。



 海禅寺境内にある梅田雲浜(1815年-59年)の墓(右)。
 左は藤井尚弼(1825年-59年)という人の墓。寡聞にして私の知らない人です。
 あとで調べると、幕末の尊攘運動家。西園寺家の諸大夫の家に生まれましたが、安政の大獄で京都町奉行に捕らえられ、安政六年、江戸の小倉藩邸で病死。海禅寺に葬られたのは小倉藩主・小笠原家が海禅寺の有力な檀家だったからでしょう。

 海禅寺から合羽橋道具街はすぐです。
 道具街を南へ行き、北へとって返し、言問(こととい)通りの一つ手前の信号を右に折れると、金竜公園の木立の向こうに、かつて私が棲んでいたマンションが見え隠れしてきます。
 ちょうど十年前、目白から移り棲んだ当日、物干し竿をかけようとして、ベランダに取り付けられた物干し用のフックが壊れているのに気がつきました。
 管理人にいうと、どこからか二脚の物干し台を持ってきてくれました。腕をガッと拡げたような大きな台で、道路から見上げると、我が家のベランダだけに突き出した物干し台が見えたものです。
 いまも変わらず突き出しているものが見えました。

 ひさご通りの喫茶店で休憩したあと、江戸下町工芸館を覗いて、遅めの昼食。



 浅草居住時代、よく五目焼きそばを食べに通った華春楼。
 ほぼ十年ぶりの訪問です。浅草に転居する前、八年間棲んで慣れ親しんだ目白にある揚子江(中華料理店)の味を思い起こさせてくれる店でした。
 松戸に支店を出しているのを知って、訪ねてみようと思っていたのですが、支店のほうは私が現在地に移り住んでしばらくあとに店を閉ざしてしまいました。



 久しぶりに出会った五目焼きそばです。
 長いこと食べていなかったせいか、少し味が変わったようにも思えましたが、昔の想い出が蘇っていたのか、なんとなくほろ苦い味がしました。
 千葉県内では頼まないと持ってこない練り辛子がちゃんとテーブルに置いてありました。
 ウェイターも同じ人でした(ような気がします)。



 食後は花やしき通りを抜けて、浅草寺へ。
 本堂は改修工事中でした。去年三月に始まり、今年十一月末まで。



 浅草寺は相変わらず人が多い。ことに仲見世の混雑には愕きました。
 浅草に棲んでいたころ、毎日気晴らしに散歩に出たものですが、行くところといえば、浅草寺境内しかありませんでした。
 しかし、休日は人出が多いことを予想して、行ったことがありません。行くとすれば、浅草寺の本堂が閉じられる夕方六時以降。仲見世も店じまいするので、人っ子一人いなくなります。
 浅草寺が一番賑わう正月も、四万六千日のほうずき市の日も、浅草寺の扉が閉まると、ものの見事に人がいなくなるのです。



 小旅行の締めくくりは、吾妻橋まで歩いて水上バスに乗ることにしました。約四十五分かけて日の出桟橋へ。
 右上は新しいテレビ塔になる東京スカイツリー。完成後は634メートルという、とてつもない高さになります。五日前(二月十六日)に300メートルを超えていました。

 日の出桟橋に着くころにはもう夕暮れでした。
 浜松町から上野に戻り、コインロッカーに預けておいた友の荷物をとって、東京駅へ。徐々に別れの時間が近づいてきます。

 子どものころのお正月と同じように、愉しい休日はこうしてあっという間に過ぎ去りました。「のぞみ」に乗って帰って行く友を見送ったあとは、なんともいえぬ虚脱感だけが残りました。


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