浅草寺のホームページで、浅草寺境内にある橋本薬師堂では毎月八日の午前十時から法要が営まれるということを知りました。
薬師如来の縁日は八日、十二日、あるいは二十二日と諸説があるのに、これまで二年と六か月に亘って毎月薬師詣でをつづけてきましたが、法要を目にしたのは芝・愛宕の真福寺と浅草寺だけです。上野の寛永寺のホームページには十二日が縁日とあったので、去年八月に行ってみましたが、縁日らしい催しは何もありませんでした。しかし、法要を見たいから薬師詣でを始めたわけではないので、法要があれば役得のようなもの、と受け止めて、元気で歩ける限りつづけて行こうと思います。
そうこうしているうちに今月も薬師詣での日がきました。薬師詣での日は多少なりとも歩かなければならないので、体調を慮っておかなければならないのですが、眠りに就いたのは午前零時、目覚めたのは五時でした。特別な用のない日であれば、軽くアルコールを入れて、二度寝に及ぶところですが、二度寝をしてしまうと起きる時間は遅くなる。アルコールを入れてしまえば、目覚めたあと、軽重はともかく宿酔状態です。迎え酒を入れないと気分がしゃっきりしない。しゃっきりしないまま出かけるわけにはいかない。かといって、ぢぢいになったとはいえ、睡眠時間が五時間というのは少な過ぎます。増してここ数日は猛暑つづき……。
と、いうわけで、ときおり生あくびを噛み殺しながら、起きていて、昼食代わりに持つ握り飯を握ったり、冷凍庫で凍らせた500ミリリットルのペットボトルを二本と保冷剤を用意したりして、出発時間がくるのを待ち構えました。
電車に乗る前に地元の慶林寺に参拝です。このお寺のご本尊が瑠璃光薬師如来だと知ってから、縁日はもちろん、日々の買い物や用足しのついでに寄ることができることもあり、毎日お参りすることにしています。
北千住で東武線に乗り換えて三つ目の鐘ヶ淵で降りました。この駅を利用するのは、三年前の五月、木母寺を訪ねるために降りて以来、二度目です。
鐘ヶ淵駅を出て二~三分でこの日、最初の寺院・圓徳寺を訪ねました。曹洞宗のお寺です。
お参りしたときは知らず、庵に帰ってから知るのですが、本尊は薬師如来でした。
「新編武蔵風土記稿」には「禅宗曹洞派駒込吉祥寺末、醍醐山と号す。開山僧離北良重、慶長十八年(1613年)起立し天和三年(1683年)七月二十日化す。本尊薬師、弘法大師の作と云」と記されています。
いつの日か改めて薬師詣でに行かなくてはなりません。
歴住の墓所に参拝。
成林庵通用口、とありましたが、周辺を巡っても入口が見つかりませんでした。
臨済宗妙心寺派の尼寺です。開基は上野国高崎城主・安藤対馬守重博に仕えた老女千代が享保元年(1716年)、主君の追善供養のために、山堂和尚を招いて庵を起こしたのに始まる、とされています。
圓徳寺から成林庵通用口前を通って三分でこの日の最初の目的地・正福寺に着きました。
院号は薬王院。慶長七年(1602年)開山の真言宗智山派の寺院です。
正福寺門前にある首塚地蔵。
天保四年(1833年)の隅田川浚渫工事の際、夥しい数の人骨が出たそうです。その人骨を埋葬し、供養すべく地蔵尊を建立されたもので、出土した中には取り分け頭部の骨が多かったことから、首塚地蔵と呼ばれるようになりました。首から上の病を治してくれると信じられているそうです。
頭をぶつけそうなガードをくぐって、東武線の向こう側へ出ます。
正福寺から十分で東清寺(曹洞宗)。寛保元年(1741年)、甲斐国塩山に創建され、大正四年(1915年)、現在地へ移転。
本堂と同じように、まだ新しい墓所。中興開山・英山信雄大和尚と寺族の墓(左)。
東清寺から四分。聖徳寺。浄土真宗東本願寺派。昭和十一年(1936年)、玉の井説教所として開設されました。
真言宗智山派宝蔵寺。聖徳寺から七分。
慶長十九年(1644年)に創建したと伝えられています。荒川開削工事のため、大正八年(1919年)、当地へ移転。
京成線を越えて宝蔵寺から十分。省了寺。浄土真宗系単立。大正末期に向島説教場として開設。
寺院巡りをしていると、ときおりアバンギャルドな建物に出食わします。
省了寺からこんにゃく稲荷として知られる三輪里稲荷神社まではわずか三分です。
三輪里稲荷神社のすぐ隣に、二つ目の目的地・真言宗智山派の正覚寺がありました。真言宗智山派。「墨田区史」には慶長十四年(1609年) に長養法印によって創建され、本尊は薬師如来であると記されています。
最後に萬福寺に寄ってから帰ろうと思いますが、正覚寺からは少し距離があって、歩くと二十分ほどかかります。
時間がかかるついでに少し遠回りをして、旧中川畔に出ました。左に写っているのが旧中川に架かるゆりのき橋です。
ボートを漕ぐ人々がいる、と思えば、画像左手に東京都ボート協会がありました。
萬福寺。真言宗豊山派。大永七年(1527年)に下木下川村に創建したと伝えられ、明治四十四年の荒川改修工事で現在地に移転。
萬福寺前からは荒川の堤防を望むことができました。
普段であれば、川が見えたら……ことに隅田川と荒川は我が心の故郷なので、土手に上って眺めずに置かないところですが、すっかり歩き疲れてしまっていたのと折からの暑さで、10メートルほどの高さを上る気力がありません。
時刻は午後二時半でした。庵に帰ったあと、東京のアメダスを見てみると、このころの気温は35度近くありました。
この気温は東京・大手町の観測なので、川べりはこれより多少涼しかったかもしれませんが、30度を超えてしまえば、何度であろうとあとは同じ……と思っていたのに、35度というのはさすがに堪えました。
なんの商いをする家なのか。リヤカーが並べてありました。
展示物のように置いてありましたが、まだ現役で使われているみたいでした。
帰りは京成電鉄の八広駅に出ました。
二年前の正月八日から毎月八日に始めた薬師詣で。
今回で三十二回目(去年八月は通例の八日に加え、十二日にも詣でているため)になりますが、不思議なことに一度も雨に祟られたことがありません。
正しくいうと、初年度の十二月八日は雨に祟られましたが、雨が降り出したのは薬師詣でを終えて帰途に就くころでした。
そしてこの日……。うんざりするようなカンカン照りだったのに、高砂で乗り換えて金町で降りるころ、突然雨粒が落ちてきたかと思うと、ドーン! ガラガラッ! と雷に見舞われたのです。
京成金町駅からJR金町駅までの50メートルほど、傘を拡げる人々の間を縫って早足で歩きました。金町にきたからには覗いてみたい店があったのですが、傘があっても容赦ないような激しい雨でした。傘を持たぬ私はおとなしく帰ることにしました。
金町駅のプラットホームで電車を待っている間も猛烈な雷雨。
雷雲はゆっくりした速度で東北に向かっていたようで、次の松戸、さらに北松戸、馬橋、新松戸……と、電車が駅に着き、ドアが開くたびに、ピカッ、ドッカーン、ガラガラ、バラバラ!!
まさか雨になるとは考えず、布き布団の下に布けば湿気を取ってくれるという布きパッドを物干しにかけたまま出かけていました。むろん、びしょ濡れになっていました。
→この日歩いたところ。
最新の画像[もっと見る]
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年六月の薬師詣で・中野区 7ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 8ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 8ヶ月前
- 2024年五月の薬師詣で・豊島区 8ヶ月前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます