世間は四連休、または五連休だったのに、私の勤め先は本当なら第三土曜で休みのはずの十九日は、連休がつづくから、という理由で出勤。二十日の日曜こそ休みでしたが、二十一日の敬老の日は出勤、二十二日の国民の休日も出勤という有様でした。
国民の休日というのは劣悪なネーミングです。
五月四日はかつての天皇誕生日のお下がりとはいえ、「みどりの日」という名をもらったのに、またぞろ安易な名前の復活。つくづく知恵者はいないものと見える。国民の休日が休日でない人間は、日本国民ではないとでもいいたいのか。
幸いにして国民の休日の出勤は午後二時過ぎにて終わりました。
帰り支度を終えて腰を上げるまでの数分、インターネットで勤め先周辺の地図を見ると、すぐ近くを走る主要地方道・松戸船橋線沿いに唱行寺というお寺を見つけたので、帰りがけに、といえるほど近くはないのですが、探訪することにしました。
途中、子安神社という小さな社がありました。
小社にしては意外に長い参道です。入口から社殿まで、目測200メートルほどもありました。
参道は深い緑に囲まれて昼間でも薄暗い。蝉の声もほとんど聴かれなくなっていたのに、ここではツクツクボウシに混じって油蝉も啼いていました。
田舎の小学校を移築したみたいな建物ですが、社殿です。ちゃんと四手も下げられています。
子安神社境内にあった庚申塚。
庚申塚としては珍しい五層の形をしています。元禄三年(1690年)建立とのことですが、説明板もないので、いわれはわかりません。
これも途中にあった無人の馬頭観音堂。
なにゆえにお堂の前に鳥居があるのか。誰もいなかったので、これまたわかりません。
目的の唱行寺に着きました。
こんもりと樹の繁る丘の上にあります。建長六年(1254年)、念仏修行僧だった鐘阿弥という人が開創したと伝えられています。
鐘阿弥はのちに日蓮に帰依し、名を日唱と改めます。
日唱は鉦を叩きながら念仏を唱える代わりに、太鼓を用いたので、この寺は「太鼓の霊場」と呼ばれるようになりました。
この寺は忠臣蔵前段の重要な脇役の一人・梶川与惣兵衛と繋がりがあります。
ここには梶川与惣兵衛の祖父母の位牌と供養塚があるのです。唱行寺のある柏井(市川市柏井町)は梶川家の知行地であったからです。
元禄十四年(1701年)三月十四日、江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りつけようとした浅野内匠頭を背後から抱き止めたのが梶川与惣兵衛です。判官贔屓の多い日本人にとっては、悪役とまではいわないかもしれないが、明らかによけいなことをした男です。ために、事件後は世間の批難を恐れ、柏井の名主宅に身を潜めていたそうです。
参道の石段は四十七士の討ち入り後、四十六段に減らされたと伝えられていますが、前は何段だったのか、はっきりとしません。世を憚って減らしたと考えるのが相当なので、四十七段あったのでしょうか。
こちらにも馬頭観音堂がありました。
私が訪ねるお寺は無人ということが多いのですが、この日は彼岸の中日の前日、今年から休日になったということもあり、墓参の人がちらほらおりました。ただし、境内はまったくの無人。
勤め先を出て、寄り道しながら一時間で船橋法典の駅に着きました。
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