今月の薬師詣では足立区にある南光寺、西門寺、薬師寺を訪ねて歩きます。
出かける前に地元の慶林寺に参拝します。
今日も山門は閉ざされていましたが、縁日の今日はお賽銭をあげなければならないので、通用門から本堂前にお邪魔し、この小鐘を撞いて、お賽銭をあげます。
西日暮里駅で降りました。
ひところ(と、いっても十五年以上も前のことですが)、この駅からほど近い田端新町に馴染みの呑み屋ができて、足繁く通ったことがあります。そのころは千葉県民ではなく、浅草の住人だったので、行くときは西浅草三丁目から池袋駅東口行の都営バスに乗り、帰りは当然タクシー。一週間に一度は通っていたような気がするのに、いつから足が遠のいてしまったのか、いまでは行こうとしても、どこにあったのか、場所がわかりません。
西日暮里で日暮里・舎人ライナーに乗り換えます。
十年も前の2008年(平成二十年)に開通していますが、乗るのも見るのも初めてです。
少年のころの私は、いまでいう撮り鉄の端くれだったのかもしれませんが、新幹線ができて以降、在来線の長距離列車が次々と姿を消したころから、高校生大学生となったこともあって、撮り鉄は卒業。しかし、初めて乗ったり見たりする路線というのは、ちょっぴりワクワクします。
電車がきたらカメラに収めてやろうと意気込んでいましたが、プラットホームはガラスで覆われていて、撮すのは難儀のようで、ちょっとガッカリ。そして、初めて体験する乗り物に心をウキウキと弾ませていたのもここまで。
車内は異常に狭く、向い合わせ四人がけの座席は、もしかして子ども専用? と皮肉をいいたくなるほどの狭さです。脚の長い(?)私が坐ると、前の座席に膝がくっついてしまいそうです。とても大人四人が向かい合って坐ることはできません。
データイムで空いていたこともあり、狭さは災とはなりませんでしたが、いざ走り出すと、乗ったことを後悔しました。
西日暮里から終点の見沼代用水親水公園までは路線はほとんど一直線です。ところが、車体は揺れに揺れるのです。
さらにいけないことには、普通の鉄道が高架を走る場合、防音壁や遮音壁があり、ない場合でも路盤があって、車窓の真下は見えないものですが、真下が丸見え、という状況だったのです。
走る高さはマンションやビルの四、五階です。
荒川を渡って行きます。高所恐怖症の私には、よくぞこんな高いところを走るもんだと目も眩むような高さを走ります。この画像も極力後ろに身を引いて(実際は気持ちの上だけ)撮影。撮し手が魂消ていたせいか、画像は赤外線写真のようになりました。
下車駅の舎人公園に着いたときは気息奄々たる思いでした。
乗車時間はわずか十四分に過ぎませんでしたが、私には生きた心地のしない十四分間でした。
しばらく魂が抜けたような状態を経て、ここからお寺巡りを始めるのですが、救いは、当初から帰りは東武線の竹ノ塚へ出る予定にしていたことです。帰りもこの交通機関に乗らなければならなかったとしたら、予定を変更しなければならず、おおいに戸惑ったことだろうと思います。
天気予報は外れて、完全な夏空です。
舎人公園横を抜けて行く日暮里・舎人ライナーに沿って歩きます。地上から眺めると、それほど高いところを走っているとは思えません。
曲がるべき角を行き過ぎて、こんな幟に出会いました。
前々日の六日、事件の首謀者たち七人に死刑が執行されて、翌七日のテレビのワイドショーでは、これを期に何か起きるのでは、と後継の教団の様子が何度も何度も映し出されていました。
ナレーターが「足立区入谷の……」といっているのを聞いて、「恐れ入谷の鬼子母神」がある台東区の入谷しか知らなかった私は、「へへェ、足立区にも入谷という地名があるんだ」と思いましたが、そこが今日訪ねるところだとは思ってもみませんでした。
あとで調べると、同じ入谷とはいっても、後継教団があるのは、私が幟を見かけたところから歩くと二十分近くも離れた場所でした。
幟のあったところから引き返し、南光寺に着きました。真言宗豊山派の寺院です。本尊は不動明王。
少し遠廻りをしてしまったので、舎人公園駅からは十五分かかりました。歩き始めたころ、ちょうど一年前の今日、汗みずくになりながら、つくばみらい市を歩いていたのを思い返していました。その日に較べたら、今日はしのぎやすい、と思ったのですが、それはまだそれほど歩いていなかったからで、十五分も歩くころには汗みずくになっていました。
山門を入ると、右手に子育て地蔵像があります。像の足許にはおびただしい数の子像? キューピーのお供え(?)もあります。
目的の薬師堂です。
すぐ前には樹木が迫っているので、正面からカメラに収めることができませんでした。参拝したあと、先の地蔵の左横から撮影。
「新編武蔵風土記稿」には「南光寺、円通寺(同じ足立区入谷)末、青龍山医王院と号す。開山の各は伝えざれど、過去帳に弘安三年四月二十日(寂カ)と記せしを古しとす。本尊は不動を安ず。薬師堂ありたるも荒廃せしを以って像は本堂に移し、堂の再建はいまだならず」と記されていますが、無事再建なったのです。
本堂の手前には休憩所があって、「お休処 ご自由にご利用ください 住職」という貼り紙がありました。
ご自由に、とはいっても、恐らく鍵がかけられているのだろうと思いながら、ガラス戸に手をかけると、スルスルと開きました。ポットにはお湯が湧いていて、お茶も飲めるようになっていました。
さすがにエアコンまではありませんでしたが、窓を開ければ、緑陰の涼しい風が入ってきそうです。
開放的過ぎることに愕いてしまいました。
ごくたまに、檀家以外は寺域に入るな、とか、境内を散歩するな、という掲示を出している寺に出くわしたりしますが、お寺は檀家とテメエたち罰当たりのためだけにあるのではない、ということがわかっていないのです。寺社が税法上でも優遇されているのは、一つにはそういうこと。緊急時の避難所ばかりではないが、地域の拠り所となるのが当ったりめぇのコンコンチキ。
そんな寺は仏徒を標榜していながら、仏徒ではない。仏罰がくだればいいと思うのですが、心優しき御仏たちはどんなお門違い、スットコドッコイでも仏罰を下されたりしないのです。
さて、スットコドッコイなんぞは明後日の方向に置いといて、普段なら、近くにお寺があれば、廻り道でも寄りながら歩くところですが、この日の暑さは異常でした。目的の三か寺だけを、最短距離で歩くつもりです。
その途中、たまたま門前を通りかかるお寺があれば寄る心づもりでしたが、避けて歩いたわけではないのに、たまたまこの日は他の寺の門前を通ることがありませんでした。
南光寺をあとにして十五分で西門寺に着きました。
バス通りから長い参道があり、門前には小さな金剛力士像がありました。永和三年(1377年)創建の浄土宗の寺院です。
西門寺本堂。
本尊は阿弥陀如来ですが、最近になって万延元年(1860年)作の薬師如来も祀られていることを知り、急遽今回の予定に組み入れました。
折からの暑さです。猫住職殿もさすがに暑さにやられて、山門の裏側でグッタリしておられました。
西門寺から延々二十分以上歩いて、今日最後の目的地・薬師寺に着きました。万治二年(1659年)創建の曹洞宗の寺院です。
このお寺には2012年の九月に参拝していて、訪ねるのは二度目です。
そのときは薬師詣でできたわけではなかったので、この薬師堂には気がつきませんでしたが、真新しさを見るにつけ、そもそもこの御堂はなかったのではないかという思いがします。
薬師寺本堂。
歴住の墓所に参拝。
薬師寺の参拝を終えて、今日の予定は終了! と気が緩んだからかどうか、帰りの道を間違えました。
通称七曲がり。
わざわざ電柱に表示しているからには、よほどの理由(わけ)あり、と思い、備忘録も兼ねてカメラに収めておいて、帰ったらインターネットで由来を調べてみようと思ったのですが、いまのところいわれは判明していません。
實相院。
門前の小さな仁王像を見たときになんとなく「?」と思いました。いつかどこかで見たような気がしたのです。
天平年間(729年-49年)、行基菩薩による開山といわれる真言宗豊山派の寺院です。前九年後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願をしたと伝えられています。
山門をくぐり、この本堂を目にしたときに、ハッキリと思い当たりました。訪れたのは薬師寺のときと同じ六年前です。
門前はT字路になっていて、この日の私は先の山門の画像でいうと、右のほうから歩いてきたのですが、六年前はこの門を正面に見ながら歩いてきています。
竹ノ塚近辺なら歩き慣れていると侮った上に暑さが加わったせいか、薬師詣でのときには忘れない、コンパスを持つのを忘れていました。竹ノ塚駅を目指しているはずが、とんでもない方向違いを歩いていました。
薬師寺から東武線の竹ノ塚駅は十分ちょっとで着けたところ、倍近く歩くことになりました。
画像の右・フェンスで囲われた駅を挟んで、南北二か所に一時間に三分しか開かない「開かずの踏切」があるところとして有名な駅です。線路の高架化工事の真っ最中でした。
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