池之端散策の〈つづき〉です。
台東区と文京区の区域が入り組んだあたりを歩いています。
日蓮宗妙顕寺。
創建年代は不詳ですが、日調上人(正保元年=1644年寂)による開基と伝えられ、浮世絵師・鳥居清信(1664年-1729年)の墓があります。
休昌院。臨済宗妙心寺派。
明暦元年(1655年)、本郷丸山(現在の本郷五丁目あたり)に創建、寛文七年(1667年)、当地へ移転しました。
何を商う店なのかと覗いてみたら……刷毛屋さんでした。
浄土真宗大谷派忠綱寺。
武蔵野本(現・東松山市)藩主・渡邉吉綱が神田台に創建。
寺名の忠綱とは徳川家康の家臣で、「鎗の半蔵」と呼ばれた渡邉半蔵守綱の孫・忠綱のことです。忠綱は二十歳という若さで死んで、弟の吉綱があとを継ぐことになります。その吉綱が寛永元年(1624年)、神田台に渡邉院忠綱寺と名を冠して創建したのがこの寺です。火災で焼失し、寛永八年、当地へ移転。
「渡邉」という表札が掲げられていたので、ご住職は末裔なのかもしれません。
真言宗霊雲寺派妙極院。
元禄十一年(1698年)、霊雲寺の開山・浄厳和尚が霊雲寺塔頭として当地に創建しました。
この妙極院をもって、池之端の寺巡りは終わりました。
ここからは番外です。
すぐ近くに江戸時代の儒学者・太宰春台(1680年-1747年)のお墓があるので、お参りして行きます。
妙極院前を過ぎてなおも行くと、南西から北東に走る広い通りに出ます。言問通りです。その言問通りを右折するとすぐ不忍通りとの交差点・根津一丁目。道はそこから緩い上り坂になります。
この坂は善光寺坂(信濃坂)と呼ばれていますが、名の元となった善光寺はいまはありません。元禄十六年(1703年)の大火で焼け、現在の青山に移転してしまったからです。しかし坂の名前だけ残りました。
臨済宗妙心寺派天眼寺。ここに太宰春台の墓があります。
起立は延宝六年(1678年)、開基は松平忠弘夫人・天眼寺殿慈光性輪尼大姉(肥後熊本藩初代藩主・細川忠利娘)。奥平松平家(忍藩)の菩提寺です。
太宰春台の墓です。
山門横にあった掲示板には、墓は円頭角柱形で高さ1・32メートルと表示されていたのですが、墓石が林立する中に入ると、そういうサゼッションだけでは見つけられません。墓石横に木柱一本でいいから建てておいてくれればいいのに、と感じたのですが……。
根津一丁目の交差点から坂を150メートルほど上っただけなのに、いつの間にかまた台東区に入っていて、天眼寺があるのは台東区谷中です。
名にしおう寺町の谷中です。言問通りを向こう側に渡り、坂を上って行けば、玉林寺、信行寺、妙情寺、上聖寺、本光寺……。天眼寺前の小径に入って行くと、本壽寺、瑞松院、臨江寺……と、谷中地区には全部で七十以上の寺があるのですから、とても「ついで」気分では歩けません。今日は天眼寺だけで引き揚げることにします。
番外ついでに根津神社へ行ってみることにしました。
根津神社の門前(南側)には明治の初めまで色街がありました。
そのせいでしょうか、こんな細い路地が残っていたりします。こういう路地をわざと選んで通り抜けてみます。
通り抜けると表具屋さんがありました。まさか江戸時代、ということはないでしょうが、充分に時代物らしい家作です。
天眼寺から8分で根津神社に着きました。右が神社の表参道口、左に上って行くのは権現坂(新坂、S坂とも)。この坂は森鷗外の「青年」に登場します。
楼門。
いまから千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建しています。
五代将軍・徳川綱吉は世継と定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より遷座しました。
唐門と透塀(すかしべい)。ともに国の重要文化財です。
透塀とは社殿を囲む塀のことで、総延長は200メートルにも及びます。格子を通して向こう側が見えることからその名がつけられました。
社殿。これも国の重要文化財。祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命。
乙女稲荷(祭神は倉稲魂命)の千本鳥居。
家宣公胞衣塚(えなづか)。江戸幕府六代将軍・家宣(綱吉の養嗣子)の胎盤が納められているそうです。
帰りは根津駅に出ました。
高校生の下校時間に当たっていて、電車は混んでいましたが、幸い坐ることができました。これまでの例だと、亀有でかなり空き、松戸でさらに空くのですが、この日は降りる人の数は大体いつもどおりでも、乗ってくる人が多く、松戸を出るときでも、立っている人が多く見られました。
→この日、歩いたところ(麟祥院から根津駅まで)。
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